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家賃収入と株で余裕で暮らしていける店長が趣味で経営してる誰も来ない喫茶店で、「ここ経営大丈夫なんですか?」と声かけながら雑にテーブルを拭く時給1500円のバイト

作者: あおいつき


 家賃収入と株で余裕で暮らしていける店長マスターが趣味で経営してる誰も来ない喫茶店で、「ここ経営大丈夫なんですか?」と声かけながら雑にテーブルを拭く時給1500円のバイト。


 私はこの仕事が好きでも嫌いでもなかった。ただ、1500円っていう時給は良いと思った。




店長(マスター)、ここ経営大丈夫なんですか?」


 私──市川(いちかわ)一叶(いちか)は雑にテーブルを拭きながら、カウンターの奥でコーヒーを作っている店長に唐突にそう声を掛けた。

 ダンディズム溢れるちょび髭と''大人の男''という雰囲気を醸し出している店長──出水(いずみ)金次郎(きんじろう)さんは、ははっと笑顔を浮かべて答える。


「心配してくれてありがとう。だけどそれは杞憂だね」


「どうしてそう言えるんですか? 店長(マスター)が家賃収入と株でガッポガッポ稼いでるのは知ってますけど、いくら何でもこのお店お客さん来なさすぎて不安になりますよ」


「ははは、その不安を上回るほどの収入が今の僕にはあるからね。少なくとも、お客さんが一年を通して全く来なくても金銭面は何も問題ないからね」


「それはそれとして問題ありまくりだと思うんですけど……」


 私は歯切れを悪そうにしつつ店内を見渡す。

 オープンから1ヶ月、全くと言っていいほどお客さんが来ないこのお店は本当に綺麗だ。落ち着いた印象と雰囲気を味わえる内装、カフェスペースに隣接する本棚のコーナーには有名な作家の本が取り揃えてある。心が安らぐクラシック調のBGMも流れていて、まさしく古き良き喫茶店というのがこのお店──【アルストロメリア】の特徴だった。


 ……いや、忘れてはならない特徴がもう一つだけあった。()()()()()()()()()()()()()()()()()が。


「……どうしてこんな、崖間際な所にカフェなんて建てたんですか」


 窓の外に目をやりながら、呆れ気味に呟くと「そんなの決まっているよ。僕の完全なる趣味さ」と店長(マスター)からの堂々とした返事が聞こえてきて、私は溜息を零していた。

 【アルストロメリア】は都市部どころか田舎町すらも離れた海際にある。海と言っても海水浴場の近くなどではなく、切り立った崖の上だ。

 そんな場所に建てられているのは殺人事件の起きる洋館とか法外な治療費を請求してくる医者の家とかぐらいだと思っていた私の常識は、この店のせいでいとも簡単に塗り替えられてしまったのだった。


「確かに景色は最高ですけど、来るまでの苦労を考えればコスパ最悪ですよ本当に」


「手厳しい意見だね。でも、コスパを差し引きしてマイナスになろうともそれすらも楽しむのが肝要なんだよ」


「株取引で儲けてる人が言う台詞ですかそれ?」


 「それもそうだね」と店長はまたも笑って言う。一見すると能天気で無計画の馬鹿に見えるけれど、株取引で成功してるってことはそれなりに慧眼(けいがん)を持っていらっしゃるはずなのなんだけどなぁ。

 全く以て金持ちの考えることは分からない。いや、このお店は趣味で建てたのだからそもそも何も考えていないのかもしれない。何せ客が一切来なくても気にしていないのだから。


 店長マスターは紛れもないお金持ちだ。ITコンサルタントとかをやっていたのも昔の話。30代後半くらいから株を始めてから金持ちの一歩を辿り始め、蓄えた資金を元に一等地にマンションを建てたりとかしてそれの家賃収入でさらに金を儲けた。単純に把握してるだけでも軽く10億を超える資産があるって前に言ってたっけ。このブルジョワめ。


 対して、私はと言うと第一志望には落ちて何とか滑り止めに入学をしたしがない大学一年生だ。これと言って秀でた能力も特技もなくあるのは若干の運の良さ、おかげで生活費に困ってバイトを探してる時に自給1500円という【初心者歓迎! 交通費全額免除! シフト自由!】なんて謳い文句で求人広告を出してた【アルストロメリア(ここ)】と巡り会えた。

 店長マスターは変わり者だけど優しいし、数少ない同僚の皆も幸いなことに良い人ばかり(今日はシフトの関係でバイトは私だけだけど)。ちょっと根暗で後ろ向きな自分には勿体ないくらいだ。

 

 ふと、そんなことを考えながら、私は私の仕事であるテーブル拭きを雑にこなしていく。

 客なんて来ないから新品のテーブルが汚れているはずもなく、そんな背景もあって元々結構ズボラな性格の私は雑にテーブルを拭き続けていたのだった。


「そう言えば、君はどうしてウチで働こうと思ったんだい? 市川さん」


 そんな折に、店長マスターからの突然の不意打ちに私の手は止まった。

 いつもは純度100%自分の趣味を突き詰めたこの店にいるだけでニコニコと微笑みを浮かべて、飽きもせずコーヒー豆を引いたり蓄音機風のレトロなレコーダーの選曲を変えたりしてるだけの置物のような人だった。

 話好きだけども自分からはあまり質問をして来ない店長(マスター)からの、突然のそれに私はやや動揺しつつも口を動かす。


「いや、深い理由なんてないですよ。単に給料が高かったのと、シフトを自由に組めるっていう所が良かったので選んだだけです」


「ふむふむ、そうかそうか」


 うんうんと頷いてみせる店長(マスター)、こんなこと聞かなくても知ってるはずだ。第一面接の時に聞かれたから。まぁ気が引けるような内容ではあるけれども、どこか変な所で嘘をつけないのは昔から私の変な癖であって。


「ねぇ、市川さん」


「なんでしょうか?」


「僕の予想なんだけど……さっきの市川さんの答え、あれは嘘なんじゃないかな?」


「へっ?」


 再開したテーブル拭きの手が再び止まる。

 それは店長(マスター)から掛けられた予想外の言葉を聞いた事と。

 私の記憶にはない顔、鋭い瞳で此方を見透かすような顔を店長(マスター)がしていたからだった。


「い、いや何を言ってるんですか。正直に答えましたよ。さっきのが私のありのままの志望動機ですって」


「確かにそうだね、()()()は。だが君は君自身も隠したがっている、いや目を背けている本当の気持ちが心の根底にあるね」


「な、なんでそんなの分かるんですか。私じゃないのに」


「僕だから、分かるんだよ。''ジョハリの窓''を知ってるかな?」


「えっと……人間の心には四つの窓、もとい姿があるっていうアレですか?」


「その通り。''ジョハリの窓''において人間の心は''自分にも他人にも開かれている窓''、''他人には閉ざされてはいるが、自分には開かれている窓''、''自分には閉ざされているが、他人には開かれている窓''、''自分にも他人にも閉ざされている窓''がそれぞれある。仮に一つ目の窓から順にA、B、C、Dと振っていくとすると、さっき市川さんが言ってくれたのはBの窓からの言葉だね」


「はぁ……って、私の志望動機の理由を店長マスターが知ってるならAなのでは?」


「それは市川さんと接していく内に分かったことだからね。正確に言えばBからAになったっていう方が適切かな」


 「それで、だ」と言うと店長マスターはいつの間にかコーヒーを作り終えていた。格調高そうな高級カップには、純黒に近い色合いのコーヒーが注がれていく。


「僕は市川さんが言ってた志望動機は、無理やりAに仕立て上げたものに過ぎないと思っている。つまり、君はまだ嘘をついているということだ」


「い、いやいやいや。何を言ってるんですか。だから、私は嘘なんか……」


「君──自分を変えたくてここに来たんだろう?」


 店長マスターの言葉に、私の反論は封殺された。

 図星という訳じゃない。身に覚えがないから。でも何故か、心に引っかかるものがあった。

 何か、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


「意外、という感じだね。それもそうさ。今の君が見ようとしているのはC、他人()は知っているが君は知らない()だ」


「私が知らない……」


「うん。だけど……うーん、その感じだと知らないというよりかは忘れているって言った方が近いかな? となると訂正しよう。その部分に関しては僕自身も知らない、つまりはDの()という訳だ」


 コーヒーを注ぎ終わり、誰もいないカウンターにコースターを敷くとその上にティーカップを置く店長マスター

 客がほとんど来ないせいで接客なんてしていたのを見たことなかったけれど、その手つきはやたらと手慣れている上に気品さえも漂っているように思えた。


「じゃあ、共にその窓の向こう側でも覗いてみようか。ほら、座って」


「え、でも仕事中……です」


「良いんだよ。開店休業状態なのは君もよく知っているじゃないか」


「……はい」


 自虐して微笑む店長マスターの誘いに乗らない訳にもいかず、私はもう少しで終わりそうだったテーブル拭きの仕事を切り上げてカウンターの席に座る。ふかふかで実に座り心地が良かった。

 コーヒーはどの種類を淹れたのかは分からないけれども芳醇な良い香りが鼻腔びこうを満たす。まるで店長マスターの穏やかさと品の良さを表しているような気がした。


「まぁ、まずは一杯飲んでみて。遠慮しないで、僕の奢りだよ」


「……後で給料から差し引きとか、ナシですからね」


 念の為に釘を刺しておいたけれども、そんなケチなことをする人ではないと知ってる。「モチのロンだよ」と時代を感じさせる店長マスターの返事は聞き流しつつ、私は恐る恐るコーヒーカップに手をつける。

 こんな高級そうな代物に一般庶民である私が触るという分不相応さへの恐ろしさもあったけど、それ以上に怖かったのが果たしてこのコーヒーが美味しいのかどうかという所だ。何せ、私は店長マスターが作ったコーヒーを飲むのは、実は初めてだった。

 金持ちが単なる趣味でやってるだけ。その事実を鑑みれば、味を追求することなどあるのだろうか。いや、ない。内装や家具類には拘りがあるけれども、”味”という自分の技量の向上を求められるような要素に拘った所で時間の無駄のような気もする。ましてや店長マスターは株取引と家賃収入だけで悠々自適の生活を送ることが出来ている、ということは損得勘定の見極めも凄まじいはず。


 要するに、店長(マスター)の作るコーヒーは不味いかもしれない。そんな覚悟をしつつ、私は震える良い香りのそれを一口飲む。

 瞬間──私の口内に、これまでに味わったことのない衝撃が広がった。


「……美味しい」


「そう? 良かった、口に合うかどうかヒヤヒヤしてたんだ」


「お、美味しいです。上手く言えないですけど……なんというか市販のコーヒーとかとは全く違う味の深みとかコクって言うんでしょうか? とにかく、美味しいです……!」


 私は感想にならないような感想を述べた後、再びコーヒーを口にする。二口目も変わらず、やっぱり美味しい。今度はじっくりと堪能した後に喉越しも味わう。しつこくなく、かと言ってあっさりと忘れ去られるようなものではなかった。ただただ、優しい味わいが喉に残って温めてくれるような心地がした。

 その後、私は話すことはおろか店長(マスター)がいることすら忘れてコーヒーに没頭した。砂糖やミルクなどを入れてみても上手く調和し、楽しめる。

 そして、気がついた頃にはコーヒーはなくなり、カップの底に描かれた英字が見えるようになっていた。筆記体であったため、何と書かれてあるのかは分からなかった。


「ご馳走様でした。美味しかったです」


「ふふっ、お粗末様でした。楽しんで貰えて、本当に良かったよ。頑張って研究した甲斐があったね」


「……その、失礼なことを申し上げても良いですか?」


「うん、良いよ」


「その、実は私、店長マスターが淹れるコーヒーは美味しくないかもなんて思っちゃってました」


「へぇ、どうして?」


「趣味でやってるだけだから、味を美味しくするなんて無駄なことはしないんじゃないかなーと」


「ははは、なるほどね。じゃあ美味しく感じて貰えた理由について説明しようかな。僕はね、趣味だからこそ手を抜かないんだよ」


「趣味だからこそ……?」


「そう。仕事は真剣にやらないといけない。それは社会人としての常識さ。じゃあ趣味は伸び伸びとやる、これは常識というよりかは自然にそうなると思うんだけども、僕は趣味は仕事以上に手を抜かないのさ」


「どうしてですか?」


「そりゃあ、好きだからに決まってるよ。好きな人が出来たとして、プロポーズする時に手を抜くかい? ってまぁそれも人それぞれか、一貫性がなくてごめんね」


 笑いながら謝る店長マスターだけど、私はそうは思わなかった。

 その一貫性を象徴、証明しているのは店長マスターが趣味だと断じたこのコーヒーの味に出ている。とても手を抜いて醸し出せる美味しさじゃない。

 理屈ではなく、なんというか感覚として私は店長マスターの言っていることが分かったような気がした。その上で、さっきのあの言葉に立ち返る。


店長マスター。さっき言ってくれた言葉に戻るんですけど、私が”自分を変えたくてここに来た”って指摘してましたけど、なんでそう思ったんですか?」


「まぁ、シンプルに……勘、かな」


「勘だったんですか!? もっとこう株取引の時みたいにロジックを切り詰めてとかじゃなく!?」


「うん。というか僕の場合は株取引の時とかもあんまり論理的にはやってないかな。もちろん勘が全てって訳じゃないし世界情勢とか色んな情報を基に売買のタイミングは計ってはいるよ。だけど、肝心(かなめ)の時、僕は常に己の勘を信じて来た。時に痛い目を見る時もあったけどね」


「どうしてそんなことを?」


「僕は、世間的に見れば成功者って呼ばれる人種になるのだろう。きっと初めてここに来て僕と面接をした時に、君もそう思ったんじゃないかな。でも実際には、今の成功の下には数えきれないほどの失敗があった。それを積み重ねて来たからこそ、僕はこうして趣味の喫茶店を開くことも出来るようになった。成功、出来たことよりも失敗……出来なかったことを、僕は愛したんだ」


 店長マスターは具体的に失敗の内容を語らなかった。

 でも、その言葉の節々からは先程のコーヒー以上の深みがあるように思えてならなかった。同時に、何も口には含んでいないのに渋みと苦みが広がったような気がして、私は思わず顔を(しか)めていた。


「ごめん、失礼なことを言っちゃうかもしれないけど良いかな?」


「……はい。良いですよ」


「ありがとう。市川さんを面接した時に思ったのは……”この子はまだ何も持っていないな”ってことだったんだ」


「何も持っていない……ですか」


「うん。成功も失敗も、そのどちらも持っていない。君からは何も感じ取れなかったんだよ、僕は」


 軽快な口調で言っているはずの店長マスターの言葉が、これ以上ないほど重くのしかかってくる。

 まさにその通りだった。私は、何も持っていなかった。

 ちやほやされるような可愛らしい見た目も、友達がたくさん出来るような明るい性格も、熱中して没頭出来るような趣味も、自己PRに書けるような特技も、何もなかった。

 自分で自分のことが分からない、理解していない。強いて言うならなるべく楽をしたい。それだけ。だから私はこの店をバイト先に選んだんだ。

 今に始まったことじゃない。自覚はしてた。大学に進学する時も悩んだ。今だって悩んでる、というか悩みを通り越してそれが当たり前なのだから、悔しいとも悲しいとも思わない。

 そのはずなのに、私は目頭が熱くなるのを感じた。あまりにも、今目の前にいる”持っている人”との違いを思い知らされたからだろうか。


 とにかく、自分が惨めだった。すぐに今この場から消えてしまいたいと思う程に。


「──だけど、それは間違いだったと僕はすぐに気づいたんだよ」


「……へっ?」


 でも、そんな私の衝動を吹き飛ばしてくれたのは店長マスターの言葉と、余裕と優しさの溢れる微笑みだった。


「確かにあの時は、何も持っていなかったかもしれない。でも君はここに来た。自分を変える為に、自分の中に”何か”を創る為に、ここに来てくれた。その時点で君は何も持っていないことにはならない。自分の意志で選び取ったこと、そして挑戦したことは……決して消えたりなんかはしない」


 店長マスターは、私を否定してくれた。

 その上で、私を肯定してくれた。

 全てを持っている人が、こんな私にも”何かを持っていること”を保証してくれた。

 その時、かろうじて寸止めになっていた私の心は……溢れ出した。


店長マスター……ありがとう……ございますっ……」


「うぅん。良いんだよ。僕はここの、【アルストロメリア】の店長マスターだ。だがその前に、未来ある君達若者の手本であり礎となるべき大人なんだ。君達が悩んでいるのなら手を貸してあげる、話を聞いてあげるのは当然のことだよ。まぁ、僕の場合は僕自身が話し好きっていうのもあるけどね」


 自分がすすり泣く声のせいで聞こえにくい店長マスターの言葉を、何とか拾い上げる。

 単に話し好きで、若い人に合わせようと必死な、金持ちの変人だと思っていた。そんな自分を責めたくなるほど店長マスターは、出水いずみさんは素敵な大人の男性だと、私は身を以て思い知ったのだった。


「さぁ、コーヒーも二杯目を淹れたし、よろしければどうぞ」


「……はい。あびがとうございますっ……」


「いえいえ。あ、そう言えばこれはまだ話してなかったかな。この店の名前の由来」


「……確かに、聞いたことなかったです」


「よし、じゃあ話そうかな。【アルストロメリア】っていうのは花の名前なんだ。この店の周りに生えている花、あれは全部アルストロメリアなんだよ」


「へえ、そうだったんですか。赤いのと白いのとピンク色のとかありますけど、全部アルストロメリアなんですか?」


「そうだよ。なんでアルストロメリアなのかと言うと、僕はこの花の花言葉が好きでね。まず赤いのには”幸い”、白いのには”凛々しさ”、ピンク色のには”気配り”っていう意味があるんだ。この店に来てくれたお客さんに凛々しく接して、気配りを利かせて幸せになって欲しくてね」


 なるほどと思いつつも、確かにそれらがあてはまっているような気がした。話し好きだから凛々しさからは若干離れているような気がしないでもないけど。

 そう考えていた所で、店長マスターは「あ、そうそう。色ごとの意味はさっきの通りだけど、アルストロメリア全体を表す花言葉もあってね」と付け加えて。


「それは──”持続”と”未来への憧れ”だよ」


 その言葉は、コーヒーを飲んでいる私の手を止めて。


 ちょっと苦みを増したコーヒーの味と共に、私の中にすうっと溶けていったのだった。









店長マスター、ここ経営大丈夫なんですか?」


 忘れもしないあの日から一年ほどが経った。

 大学二年生になった私は、今日も変わらずコーヒー豆を挽く店長マスターにあの日と同じ質問をしていた。お客さんは誰もいなくて、店内にはまたも私と店長マスターしかいなかった。


「心配してくれてありがとう。だけどそれは杞憂だね」


「どうしてそう言えるんですか? 店長(マスター)が家賃収入と株でガッポガッポ稼いでたのは昔のことじゃないですか。1週間前に株で結構やらかしちゃったって言ってたじゃないですか。変わってないのはお客さんが全然来ないって所だけですよ。笑ってますけど中々笑えないですよ」


「痛いところを突くね一叶いちかちゃん。まぁ失敗を」


「僕は愛しているから問題ない、じゃないですよ。従業員を預かる身として今の事態はしっかりと受け止めて下さいね」


 店長マスターが苦笑いになるほど、私はきっぱりと言い切った。店長マスターの人の良さを隅から隅まで知っているから言えたことだけど、他の職場とかだったら顰蹙ひんしゅくものだろうなと、私はテーブルを拭きながら思った。


「変わったね、一叶ちゃん」


 仕事を淡々とこなしていた所で、唐突にそんな風に話しかけてきた店長マスター。私は手を止めて、店長マスターの方に振り向いた。

 いつも通りの微笑み、だけどそこにどこか誇らしげな様子がブレンドされているような気がする。


「そうですかね?」


「うん、変わったよ。間違いなく。接客もしっかり出来るようになったし、今はコーヒーを作れる上にバイトリーダーになってるじゃないか」


 季節は流れる。

 良い人ばかりだったここも、様々な理由から同僚の皆さんは辞めていった。今となってはまさかの私が最古参、だからこそ新しく入ってきたバイトの人達に教える側になっていたりする。年上、年下、同い年……様々な人と接してきた。


「でもまぁ……それも”続けて来た”から、じゃないですかね」


 私自身、特別何かを意識した訳じゃなかった。

 でもあの日、店長マスターが教えてくれた花言葉は、忘れることはなかった。意識したんじゃなく、ただ忘れなかっただけ。

 そのおかげで、私は今の私になれている。なることが出来てる。何もなかった私は、自分を創れるということを【アルストロメリア】で知ったんだ。


「なんだか嬉しいような寂しいような、そんな気さえするよ。頑張ったんだね、一叶ちゃん」


「ちょっと、勝手に感傷に浸らないでくださいよ。私はまだ”続けて来た”だけであって、それ以上のことはしてないですからね。でも……これからは見つけたいと思ってますよ。私も店長マスターも知らない、私の()()──”未来への憧れ”を」


 

 家賃収入と株で余裕で暮らしていける店長が趣味で経営してる誰も来ない喫茶店で、「ここ経営大丈夫なんですか?」と声かけながら雑にテーブルを拭く時給1500円のバイト。


 私はこのバイトが──好きだ。だって、お金よりも大切なものを知ることが出来たから。



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