一章【不幸】
出版社勤務の雑誌記者、古谷花は自他共に認める不幸体質であった。なんとか就職はできたもののブラック企業で精神をすり減らし肉体的にも限界が来ていた。
二十六歳にして彼氏いない歴イコール年齢。しかし幾人か友人には恵まれひょんなことから琴璃屋という『体質』を入れ替えてもらえるという店を紹介してもらった。幸いにも貯金はある。
『体質』を変えるならまだしも、入れ替えるとは一体どういうことだと不思議に思いながら、好奇心の赴くまま教えられた場所へ向かった。
普通に歩いていると見逃してしまいそうな小さな路地の突き当たり。琴璃屋と書かれた看板の横を通り過ぎて扉を開けるとテーブルと椅子、の隣に棚があり、綺麗な石がいくつか置かれている。一見なんのお店かわからないが、壁の張り紙には一言、【貴方の体質、入れ替えます】とある。人の良さそうな青年と、その後ろから整った顔をした女子高生が奥の框から出てきて言った。
「いらっしゃいませ、琴璃屋へようこそ。どの体質を入れ替えますか?」
花は少し戸惑って名刺を渡し、自己紹介をした。
「不幸体質を入れ替えたいのです。」
すると名刺を見た伊織は先ほどの物腰柔らかな雰囲気が嘘のように消えた。少し冷徹とも言える眼差しで目をそらし、
「入れ替えるべきは不幸体質より『承認欲求』ですね。あと『虚構』ですかね。」
と言ってのけた。
花がポカンとしていると、
「フィードバックは大切ですが後ろを向きすぎては人間は成長しませんよ?」
と背中を向けたまま言い放つ。そんな性格では断じて無い花は
「そんなわけないでしょう!この性格で、」
と反論し、そこで初めて伊織は花を『見た』。
背中の辺りのゾクゾクした感覚が花を襲う。疚しいことはなにもないが、腹の内を探られている気分だった。
伊織は幾度か瞬きをしてそこで花が本当に不幸体質の持ち主だと悟った。
「すいません、不幸体質をもっていないのに不幸体質だと思い込んで訪れる方が多いもので…。こんな店なので信憑性に欠くのか、適当なことをいっていらっしゃる出版業界の方も複数。姪の絢璃もこのルックスですので、なにかと目をつけられることがあり、過剰に警戒してしまいました。決めつけてしまい申し訳ありませんでした。」
「はぁ。」
また柔らかな雰囲気に戻った伊織に何度も謝られて、しかも本物の不幸体質とわかり花は複雑な気分だった。
「それで、本日はどのような体質の入れ替えを希望なさいますか?」
花は今までの事を掻い摘んで話した。花のように不幸体質なのに良い友人に恵まれ、今まで健康に生きてきたということはきっと人徳と努力によって培ってきたのですねと伊織に告げられ、花は生まれて初めて報われた気がした。
思い返せば花の自己評価はいつも相対的だった。努力しても不幸体質が邪魔をして、結局人並みかそれ以下。何をしても上手くいかず、心の内に重くて鈍いなにかがこびりついて離れない。劣等感に溺れてしまって息ができなくなって、必死にもがく毎日だった。
そんな日々がやっと終わる、報われるーー。
しかし、伊織の一言で現実に引き戻された。
「マイナスの体質を取るときは、マイナスの体質を入れる規則となっております。『不幸』体質を取り除いた後、どの体質を入れましょう?」
「ーーはい?」
「……とりあえず、マイナスの体質って、どんな種類があるのでしょうか?」
「そうですねぇ。『不幸』『猜疑心』『盲信』『虚弱』『不運』などですねぇ。あとは…。」
「ーーっもう結構です。」
想像以上に面倒な体質と入れ替えなければならないことに花は驚嘆した。そして、この先の人生を今の自分が決める緊張感がなんともいえない恐怖だった。花は鳩尾のあたりに冷たさを感じた。
「『不幸』と『不運』は何が違うんですか?」
少し考えて伊織は答えた。
「幸せじゃないか、運がないかの違いです。」
体質の入れ替えは人生でたった一度しかできないこと。この店のこと、この店であったこと、この店で自分がどの体質を入れ替えたのかを公言しないこと。
沢山の注意事項が書かれた誓約書に花はサインする。心臓が口から飛び出そうなほど緊張していた花はなんとか契約を結び終えることができた。
これが詐欺であったらどうしようと漠然と考えたが、もう藁にもすがる思いでこの体質を改善したかったので、十万円を"ドブにすて"ても後悔しない決意をした。
半透明の白い小さな石を持った伊織は脱力して抵抗しないよう花に告げると、石を持った手と反対の手で花の左手に触れた。
ふっと自分から何かが消えて何かが入ってきたように感じた。時間にして約三十秒で花の体質は入れ替わってしまった。
月給の三分の一を払って『不幸』体質と『不運』体質を入れ替えた花は心なしか生まれ変わったように感じた。
「どうしてこの仕事についているんですか?」
「いや、いついなくなったって大丈夫な仕事をしていたいものでしてね。」
「そうなんですか、体質入れ替えなんて、他の人じゃ絶対できない仕事ですから知名度が上がれば欠かせない仕事になりそうですが。」
「そうならないための誓約書です。」
伊織の言っていることは循環していたが、曖昧に笑う伊織に花はなにも言わなかった。
数日後、花は再び琴璃屋を訪れた。
「おかげさまで不幸体質がなくなりました!転職先も決まりそうですし、本当にありがとうございました!」
伊織は当たり前のように微笑み、
「なぜそこまで変わらない体質を入れ替えたのです?」
と問うた。
花はなぜ今になって聞くのかときょとんとして、それから新しくできた恋人の顔を思い出しながら言った。
「きっと不運でも、不幸じゃないならきっと幸せになれます。運が悪くても笑ってくれる人がいるから。」
隣で一緒に笑っていたいと告げてくれた彼とこれからデートなのだといって花は店から出て行った。
「バカやっても大丈夫って笑いとばしてくれる人は貴方を大切にしている人よ、下手に心配されるよりよっぽど楽しい生き方ができるわ。まぁ、受け取り方は人によるでしょうけれど。」
父母を亡くし、姉の重荷にならないよう焦ってから回って失敗した伊織に美琴がかけた言葉を、伊織は花が出て行ったドアを見ながら噛み締めていた。