月と枯れ木と血
ぴちゃりと音がした。
枯れ木のような老人が枕元に立っていた。夢ではない。部屋の電気は付けてはいなかったが、私は眠ってはいなかった。老人はいきなり出現したのだ。だけど私はさほど驚かなかった。
窓から差し込む月明かりが老人の深い皺をさらに際立たせている。
「お前の手に入れた能力のことだ。あれは迂闊に使うものではない」
これまた、枯れ木のような風貌にぴったりの嗄れた声だった。だけど懐かしい声だった。恐らく私はこの老人を知っている。その存在に全く心当たりのないこの今にも死にそうな老人のことを。
これの一週間前に私には大きな変化があった。ある能力が私のものとなった。
初めはほぼ無意識だった。
荷物を届けて欲しいと人から頼まれた。荷は決して軽いものではなかったが、携帯の地図で調べた限りは届け先はごく近くであったので、徒歩で行こうと出た。
しかし出て暫く歩いてから気づいたのだが、間には川があった、近くに橋がないため、大きく迂回をする必要があった。目的のビルは川の向こうに見えているのに、私はずっと遠くの橋まで行き、さらに帰ってこなければならない。もう移動手段の変更のため戻ることも面倒な距離を来ていたから、私は後悔をしながらも重い荷物を担いで歩くことになった。
恨めしく目的地を睨んだ瞬間、私の目の前に彼のビルが現れた。ビルがこちらに迫ってきたように感じたがそうではなかった。私が瞬間的に移動していた。
疲れのため、私の意識が飛んだのだとその時は考えた。無意識の間に歩いたのだと。その証拠に体はさっきよりずっと疲れていた。
用事を済ませ、家に帰りつくとテレビをつけた。生中継で映し出されたのは美しい湖畔だった。紅葉が目に赤く映えるその景色を私は実際に見てみたいと思った。瞬間、私はその湖畔にいるのだった。テレビ中継のカメラがあり、リポーターが驚いた顔で私を見ていた。私はパニックになり、今自分がいたはずの部屋を思い浮かべた。
そうするとやはり私は自分の部屋のソファに座っているのだった。私はぐったりと疲れており、なぜだかわからないが汗をかいていた。
極度に疲れているためにおかしな幻想を見るのだと思った。
しかしテレビには驚いた表情のあのリポーターがなんとも言えぬ不可解な顔をして絶句している。
「今のはなんだったのでしょうか?」
リポーターがそういった瞬間に数件のメールが入った。どのメールも私がテレビに写っていたのではないかと言う問い合わせだった。
私は混乱したが、疲れのせいだと結論をつけ、メールの返事に家にいることだけを伝え、早々に床についた。
「いつからそれを使えるようになったのだ?」
老人が聞いてきた。
さあな、と私は答えた。暗がりにも目が慣れてきた。皺だらけではあるがその顔は私に良く似ているな、と思った。
翌日は疲れもあり、昼前まで眠っていた。目が覚めてすぐは昨日の不思議な出来事がとても現実のものとは思えなかった。先ほどまで見ていた夢と区別がつかぬどころか、夢の方がずっと現実的であったとすら言えた。
外の空気を吸おうとベランダに出た。遠く小さな公園が見える。平日の正午である。湿気を含んだ空気は今にも雨を降らせそうで公園に人はいなかった。
急に昨日のことが鮮明になり、私は公園の遊具の側の一点を凝視し、そこにいる自分をイメージしてみた。
すると私はやはり一瞬のうちにそのイメージしたピンポイントに身をおいているのだった。慌て自分の家のベランダをイメージ。思った通りに戻る。
確かめるように往復を数回繰り返してみた。
最後の往復の際、激しい雨が降ってきた。公園で少し濡れ、戻ると屋根のあるはずのベランダの床が結構に濡れていた。
「あなたは私ではないのか?」
今度は私が老人に質問をした。
老人は目を大きく開き、驚いた顔になった。
「何故、そう思うね?」
往復を繰り返し、私の衣服は濡れていた。それは雨のせいばかりではなかった。私は昨日と同じくやはり疲れを感じた。汗をかいていた。しかし、昨日ほどではなかった。
荷物を持っていた時には荷物を持っていたなりに、そうしてテレビに写った少し遠方への移動の際はさらに疲れがあった。
この能力の性質を推察してみた。
「これは空間移動の類いの能力ではないように思う」
私は推察の結果を口にした。老人はほう、と言い、少し笑った。
「空間を超えたのではなく、自分の足で移動した。その移動の過程の消失がこの能力の根本ではないかという仮定を立ててみた」
「へえ、面白いね」
老人はさらに微笑んだ。私は続ける。
「これは空間移動ではなく、どちらかと言うと時間移動の類いの能力ではないのか?」
言いながら、自分ではもう気づいていた。私のそれは仮説でもなんでもなかった。ただの現実逃避でしかないのだ。
逃げ道を探すように私は「あなたは未来から来た私だ。私に迫る危険に警告をしに来たのだ」絞り出すように言った。
あっけにとられたような顔をしてから老人は、嗄れてはいるが大きな声で笑った。
両親と三人で、私はおそらく不自由のない暮らしをさせてもらっていたのだと思う。父親はサラリーマンだったが、仕事一辺倒で会社を省みないということもなかったし、休日になれば一緒に遊んでくれた。母親は優しくだけど甘やかすだけの人でもなく、時に厳しく私を導いてくれた。
平凡ではあるが幸せだったんだと思う。
だけどそれは突然終わることになる。
今から2年前、私が18歳の時に突然父親が失踪をした。
朝、普通に仕事に行くといって家を出た父親はそのまま帰って来なかった。
連絡なく家を空けるなど考えられない人だったから、母と二人で心配した。翌朝になっても連絡がなく、おかしいと考えている時に、事件が起こった。
父の会社の近く、路地裏で浮浪者の死体が発見された。テレビのニュースでそれを見たときはまだ、それを父親と結びつけることはなかったが、ほどなくして、自宅の近く、橋の下で、その浮浪者の首が見つかったときに、父親が巻き込まれたのではないかと不安になった。
翌日も父親は帰ってこなかった。しかし、訪ねてきた者があった。警察だった。浮浪者の体の見つかった付近の捜索中、小学校の焼却炉から父親のスーツの上下と靴が見つかったという。たまたま焼却をする前に中身を確認し、それは処理されることなく発見されたのだという。
上着のポケットには彼の名刺入れがそのまま残されており、またその靴には血がついていた。
おそらくは死んだ浮浪者の血液であるというのが警察の見解らしかった。
父親はそのまま今まで戻っては来ていない。警察は父を容疑者として指名手配をしたが、その痕跡をみつけることさえ出来ず今に至っている。
「わしはお前ではないよ」
大きく笑ったあと、老人は言った。
「そうしてその能力の解釈も正解ではない」
老人はしかし、顎に手をあてて、
「ただ使ったあとの疲労が実際にその距離を徒歩で動いた時の疲労に換算するというのは面白いね。そこはあながち間違っていないかもしれない。いやそれどころかわしのこの姿、そうか時間が影響していることは間違いないか」
ぶつぶつと言い、顎に手をやり考えるその癖を私はよく知っていた。そのしゃべり方は見かけや声の枯れ具合とはギャップがある。彼は見た目より若いかもしれない。
「しかしやはり、根本は空間移動だよ。」
私は今、心に浮かんだ疑念を口にしようとした。「あなたは、いやお前はもしかして」
いろいろな気持ちが頭をかき混ぜている。老人はしかし、お前と呼ばれたことを少し反芻するように沈黙をしたあとほとんど口を開けずに言った。
「言い訳はすまいとここに来た」
父親が殺人犯として姿を消し、生活は大きく変わってしまった。
高校卒業を控え、進学の決まっていた私は、しかしその進学を諦め働くことになった。母親は長く専業主婦であり、働いたところでここから先、4年間私を修学させることなど、とてもできるはずが なかった。
しかし、就職とて簡単にいくものではなかった。私たちは地元の厳しい視線を避けるように、転居を迫られた。ここで生活を続けることはとてもできないように思われた。まして仕事に就くなどできるわけがなかった。
私たちは今の住まい見つけ、逃げ込んだ。もとの家は売りに出したが、その風評からか買い手がつかない。
「消えることはなかったじゃないか!」
これまでの苦しみもあり、声が大きくなった。食道のあたりに永らくつっかえていたものを吐瀉するかのように、私の感情は口からあふれ出るのだった。
「俺たちがどれだけの苦労をしてきたのか、考えてはみなかったのか?」
老人、父は皺だらけの顔をさらにしわくちゃにし、その筋のような目から涙をにじませ、すまなかった、すまなかった、と言った。
そのあまりの弱弱しさに私は握ったこぶしのもっていく場所をなくして、ただ、
「で?」
と言った。それが精いっぱいだった。
ふう、と息を吐き、父はこれまでの経緯を語り始めた。
「 私に力が発現したのは、今からだと、そうだ、5年ほど前だ。最初は数メートル先へのショートカットのようなものだった。歩いている最中に突然意識が飛んだような違和感があって、気がつくと数歩前に移動しているのだった。
そんなことが何度かあったが、それはあまりに小さい違和感だったため、私はなにか精神的な病の類いではないかと悩んだりもした。
はっきりそれが私の能力として認識できたのは、それから数ヵ月が経った後だった。大事な取引のために向かう電車が人身事故のため、動かなくなった。焦りのあまり私は電車の中で頭を抱えたよ。
そうして、何度も行き先の会議室の正面を頭に思い浮かべていた。そこにたどり着かなければ大変なことになると。一応、先には連絡をいれてはいたが、それでも気は急いてしまう。下を向き頭を抱え、思い浮かべる。
ふと、座っている座席の感覚がなくなり、私は床に転がり落ちた。
慌てて立ち上がるとそこは電車の中ではなく、得意先の会議室の前、そう、頭に思い浮かべたその目的地だったのだ。
それからは何度か試行錯誤をし、この能力のルールのようなものがわかってきた。
行く先は完全に頭に描ける場所であること。それが完璧であるほどにスムーズに能力が発現する。写真などを見ながらであればなお、容易になる。
また、移動先が遠ければ遠いほど肉体的な疲労が強い。これは先にお前が言った通りの事が理由かもしれないな。
そうしてここからが大事なことだ。
移動の際、まさに移動する位置に物質が存在すれば、それは自分がもといた場所に送られる。入れ替わり転送されると言った感じだ。それに気づくには少し時間がかかった。
人目の関係から、私は人気のない山の中への移動を多くした。
自分の部屋に戻ってくると、そこには木の枝や葉、また雑草などが転がっているのだ。初めは私の衣服や足に付いたものだと考えていたが、どうも違うようだった。枝や葉は奇妙な形に削られており、その断面は破ったものでも折ったものでもないようなつるりとした滑らかさを持っていた。
その断面のラインは私のからだのどこかに当てはまるはずだろう。私はそれが私と入れ替わりに部屋に飛んできたのだと理解した。
移動先をよく吟味すればそれはなんの問題もないことだと楽観した。
だから私は毎日の通勤にそれを使用するにあたり、都合のよい地点を選定したのだ。人目につく心配がない場所。そこからの移動に便利な場所を選んだ。1点は家の近くの橋の下、 もう1点は職場の側の路地裏だ。
その2ヶ所のみを起点として移動を限定すれば、なんの問題もないはずだった。
しかし、」
「しかし問題は発生した。」
続けるように言ったのは私だった。
父は「そうだ」と呟いた。
「日々の出勤時間の短縮とか、交通費を浮かせるためだとか、些細な理由のために私はこの力を毎日のように使うようになった。
疲れるのは私だ、なんの罪悪感があるものか。
だがそれは突然に訪れた。 路地裏に飛ぶと、足元が生暖かく濡れたのだ。視線を落とすと、そこには人の首から下が転がっていた。首は私の足にぴったりとついており、慌てて飛び退くとその断面はとても滑らかに見えた。
そんなところに人がいるとは考えもしなかったが、まあこの世の中、絶対なんてものはないだろうな。私が甘かった。彼は酒でも飲んでいたのか、地面に横たわっていたんだろう。
体は今まさに痙攣をしており、死因は明らかだった。
首はおそらく、橋の下に転がっているだろう。私は動転した。まず最初にすべき事、証拠の隠滅のため、普段出勤時に前を通る小学校の焼却炉が思い浮かんだ。次の瞬間にはそこにいたから、私は血のついたスーツと靴を放り込んだ。普段私が通りがかる時間には焼却炉には煙が上がっていたから、すぐにそれは処分されると考えたが、そうはならなかったな。
私はそのまま自分の部屋に飛び、いくらかの衣服と現金をもって、そのまま想像しうる一番遠い場所、いつか雑誌で見た、遠く南の海に浮かぶ島を思い浮かべた。そうしてその距離のため、疲労は限界を越えたのだろう。私は気を失った。
飛んだ先というのは島であることすら議論の種となることがあるようなところで、あれは小さな岩みたいなもんだから、よく海に落ちなかったと思う。とても長居のできるところではないから、体力の回復を待って家に戻ったら、もう警察がきていた。その迅速さに、わしはもうすっかり怯えてしまってそれからは、何を置いても人のいないようなところを探した。廃村なんかは狙い目だったが、どこに居たところで必要以上に警戒したわしは、長く一所に居座るということができなかった。まあ転々とした。
金銭的には困らなかった。こういう力があれば、ま、なんとでもなるわな。
体の異変に気付いたのは、そういう暮らしを1年も続けた頃だった。最初はとても疲れやすくなったとか、そのぐらいだった。力を使うと疲れるから、それが蓄積されているのだと思ったが、、2年を待たず、あっという間にわしは見ての通り老いていった。これは力を使い続けた反動とわしは解釈していたが、さっきお前が言ったようにやはり力を使った際の時間軸というのはやはり別に存在しており、その分、身体は多くの時間を過ごすことになったとかそういう事かもしれないな。
しかし、この風貌はわしには大変都合がよかった。この姿はどう見ても50歳には見えないだろう?肉親のお前でさえわからないほどの変容により、わしは 身を隠す必要が無くなった。堂々と町に降り、大勢に紛れることが可能になったわしはやっと居を構えることができた。その暮らしは決して真っ当ではないがね。
そうしてテレビの生中継に突然現れたお前を見つけた。
いてもたってもいられなかった。その現れ方、皆にはわからなくともわしにはよくわかった。これは力が発現したばかりで無意識に移動している状態だと。わしの二の舞だけは避けて欲しかった。お前達にかけた苦労を考えると、会うことはためらわれたが、どうしても言わなければならないと思った。
実家に足を運んだが、そこにお前たちは居なかった。近所の人に聞いて回ることも考えたが、万が一にもわしの正体に気づかれることがあってはと躊躇し、こんなに遅くなってしまった。」
「言いたいことは良くわかった。さあ、帰ってくれ」
話を聞き終えた私は言った。
「やはり許してはもらえないだろうな。だが本当に気を付けて欲しい」
「そういう事じゃない。事情は分かった。もう怨んじゃいない。本当だ。だけど」
言いかけて私は言葉を飲み込んだ。
「さあ、帰ってくれ」
父はしわくちゃの顔をさらに固く絞って、
「わかった帰ろう。もう現れないと誓おう。といっても私の体はもうボロボロでいつ死んでもおかしくない。だから、最後に明かりをつけてお前の顔を良く見せておくれ」
そう言って顔の前で手を合わせ本当の老人のように哀願する父の姿に身を締め付けられる思いになった。しかし、私はグッとその思いを飲み込んで。
「だめだ。すぐ帰れ」
「そうか。ではせめて聞かせておくれ。母さんは元気にしているか」
わずか2年で老いてしまったその父の哀願に、私はもう耐えることが出来ず、
「知らなかったんだ」
呟くように口から出たその言葉は堰を切るきっかけとなった。
「実家の買い手がついたなんて知らなかったんだ」
父は怪訝な顔になる。
「何を言っている?」
「母さんが家財の整理に足を運んでいるなんて知らなかったんだ」
「おい...」
「実家には誰もいないと決めてかかっていた。だから僕は」
父の口からヒュッと息が漏れた。そのままそれは激しい呼吸となり、父はうずくまった。
「僕は力を試すために、行き先は人のいないところをと思って」
私は立ち上がり、部屋の明かりをつけた。
顔をわずかにあげた父と目があった。
左半身が血まみれの私と、床に散らばった母親の右半身を眼に焼いて父は、獣の遠吠えのような滑稽な声をあげながら、目の前から消えた。