pf.Leibniz
「司会者、ライプニッツ、補助建築協会理事兼ウィリアム・ローワン高等教役です」
殻鎖紐を伸ばす誰か、幾枚もの透明な浮遊板の背後へ接続されてゆく其々と写し出されていく誰々。
多くのラグランジアンが集って会合での通達内容を心待ちにしていた、もう彼らはそれなしで生きることも出来なかった。押し合っていた。
歪な歓迎の歌が広場に共鳴している。誰もそれを好んでいる訳ではない。
「はい、ありがとう、ハロー、エブリバディ、(奇怪な放射針の円形錐に向きなおり)こんにちは、渦域の皆さん」
歌が止み、野次が共鳴して、誰かが防御網に濾されて、空中の中継衛錐や微小衛錐が増える。
〈余興はいらないから早く本題に入り給え、ライプニッツ〉
大きな板に映し出された錆の空間に浮く、太った球をライプニッツは睨み付け、それはハイゼンバーグだった。
ライプニッツが表面を変形させる。
「そうですね、さっそく本題に入りましょう」
連れ出される私、彼と、調査対象と対面する調査技術者の私と板に映る依頼者、大きな板に映る見知らぬ人。
「一体どういう事だ!」
「君は極めて不安定な分子だから、会合の場とはなりましたが一先、予定通りの処置を取ろうという話ですよ、件のプロジェクトとはそういう主旨だったのだから」
私が下段に入り込んだ後の行動パターンはほとんど一通りしかなく、私が如何に突飛な進行を試しても先には殆ど同じ様な進路が続き、全てはここに収束していた様にも思える。
周囲を夥しい数の中継衛錐が飛行している。信者たちはいつの間にか静まり返っている。
〈ランダウだったな、君は優秀な人材ではあったのだろうと思うが、大切なリストにその名を載せていなかったのだよ、ウィリアム・ローワンのリストに、技術者連の内その様な者を排除して身動きを取り易くする計画に支障をきたしたのが君の自堕落な性格だった訳だ、幾分の遅れも出た、ファインマンというのはそんな見せかけであっただけで、本質は全く違っていたぞ、君は本当にファインマンの複製子体かね〉
板を粉々に破壊する。
再生するそれ、ノイズと、映し出される顔。
「私は、君たち幕内の人々をラグランジアンとも思っていません、君たちは何も知らないからね、ただの個人的感想だが」
私は先程目にしたものを思い出した。私は何も知らないが、知りたくない訳ではなかった。
「私は自分が何をされていたのかも分からずに死ぬのは嫌だ」
「殺すわけではない、他のプロジェクト参加技術者と同様に取り扱うのだから、我々と同様の存在ですよ、ただ寄与の仕方が異なるだけだ」
行えない移動、成しても無駄であろう攻撃、下らないものだった、自身の存在意義も分からない一生だった。
「ヴェルナー・ハイゼンバーグ、貴方が言っていた、ウィリアム・ローワンと私の複製母体の死に関する勘繰りも出任せだったのか」
〈あっはっはっはっ、そうとも言えない、あの大型移動錐実験は極めて現状と似ている〉
ライプニッツが歩き回る。
「ランダウ、君はつい先刻上空からラグランジュ全体の惨状を目の当たりにしたでしょう、下らない説明だが、私はこれを伝えずにいられない、君は知らないかも知れないが、複合個体というのは生態的バグではなく、寧ろ予め設定されていた機能の一つなんです、それに、我々は複合個体を信奉している訳ではない」
脈絡の無い独特の語り口が、ファインマンの友人としてのライプニッツとの接触、朧げな記憶を思い出させる。
「ライプニッツ、貴方と私は会ったことがあったんだな」
「はて、どうだったかな」
ライプニッツは裾から殼鎖紐の捻れて固まったロープ状のものを伸ばし、出現した一枚の未使用板へ背後から接続する。
板へ映し出されたのは誰かの枢錐、それが複製し、片方が死に、複製し、片方が崩壊する。
現れたのは他の連鎖、先端と先端は近づくと加速し、変形し、同化する。他の連鎖が進む中、複合された個体は停滞するが、その個体には連鎖の先端が幾度も重なって崩壊は成されそうにない。全体は捻じれる一つの結晶。
「知っている、複合個体は複製を成さないんだろう」
「そう、そして自然な崩壊も成さないんですよ」
そんな馬鹿な。
「複合個体は複合個体数に比例して平均崩壊時間が延びるんです、演算速度も上昇し、扱えるコロイドの絶対量も大きくなる」
私は愕然として更に疑問を投げかけるが、返答は覆らない、疑う意味も無い。本当にそうなら……
「貴方たちは自身の個的欲求の遂行の為にそんな事をしているのか?」
「違うなんていう風には言いませんが、例えそうであって君は、正義を仮衣に振りかざす余地も無い訳です」
私はそんな事を言っているのでは無くて……否、道徳的感性を完璧に拭い切って発言したとは言い難いし、そうではありたくない、しかし唯……ファインマンと仲の良かった友人が……ファインマンが善人である等というのは明らかに決めつけか……
「それに、実質我々はそんなにも局所的な個を保護しようと社会を歪ませている訳ではありません、自身を含んだ全体の改善を成そうと躍起になるのは寧ろ個人の性ですらあると思う」
〈余計な話をしている暇があるのかね〉
「もう少し……個人的なのは君の方だ、ランダウ、知らないが故に個人的にならざるを得なかった訳です、私はそれが少し悔しい、少しとしか言えない今が本当に悔しいということを伝えれば、君は分かってくれるだろうか」
何を……
娯楽錐が震える。
地面が私を拘束する。
ライプニッツは誰かに頷き、言った。
「会合を進めましょう」
ライプニッツの内部が露わになり、通常の数十倍はあろうかという大きさの枢錐が出現する。複合個体だった。気持ちが悪い。倫理的で無い。視界が霞む。信者はもう残っておらず。雑音は止む所を知らなかった。
床が崩れ落ちる感覚。自身のコロイドが硬化しているのだと分かる、私の枢錐は転がり、この底面が錐などでは無く何者かの一部であることを知る。私はまだ何も知らない。伸びてくる殻鎖紐に掴まり移動する私、気が付けばライプニッツのコロイドの内部におり、彼の枢錐は見たことのない形で変形、千切れた物の逆再生の様に私も彼と同じような変形をしているのかな。
一部が接触する。
強い刺激と。
明滅する現実。
理解されるライプニッツ。
彼が技術者連の者どもと度々に複合してきたことも、
私をどうしようとしているかも、
ウィリアム・ローワンとハミルトニアンの思想も、
それらに抱く微かな疑問も、
永久に終わらない戦いの記憶も、
実験の為に迎え入れた幕外からの養子も、
息子を核として形成した大量虐殺機構、娯楽錐への罪悪も、
複合に対する疑問から、同時に娘に施した、試作段階の、非複合並列演算システムも、
複合が完了すれば、私が消えてなくなるであろうことも、
彼が知っている全てを知った、少なくとも表面だけにおいて。
――そして、彼が結末を知らない事も。
謎の激震が襲う。
板の向こう、瞑目を突き通していたリチャード・フィリップス最高教役が言う。
{ライプニッツ、やっぱり計画は中止だ}
停滞の隙に、彼は自身のコロイドの一部を自由コロイドにしてしまった。
融合は止められない。
ライプニッツは殺害される、私によって。
突き動かされた様な決断であった。
何と、私の共感が余りに悲しく突き刺さる。苦しみが襲う。
板の向こうでいつの間にか崩壊し、刺々しく回転している朽ちたヴェルナー・ハイゼンバーグの背後で空が垣間見え、異常な量のコロイド流が天に昇っていた。
暗く、広く、幾枚もの板と中継衛錐が飛び交う中心、コロイドが渦巻き、細長く延び、殼鎖紐を形作り、寄り合わせの大枢錐を取り巻き、這い、縛り上げる。
巨大な死骸がやっと出来上がり、反波が、十三段とその周り全てをびしゃびしゃに消し飛ばす。私は彼に引っかかって嘆く、何て、何てことをしてしまったんだ……
遠方の空に幾何学的砲撃が、近くも掠める。
意図の読み取れない叫びが下方から発生してそちらには原型を留めない円盤。
迫りくる延柱は何者かの激怒であった。娯楽錐は幾つもに分解し、激しい怒りを以てランダウを殺そうとしていた。内部から転がり落ちる人々は大抵がその途中で崩壊し、飛行し、娯楽錐の補助をした。華美なものが無価値に落下していく先、幕内の社会はこの短時間で地獄を迎えていた。打ち破られるカアテンと次元の隙から伺う様な超兵器。いがいがや、アーム、骨組み、連球。もう三つのディラック。殺戮と破壊と奪収は反動の様に何も知らない人々を襲い、異常事態に際して内部まで這入ってきた自身らの国を防衛する為の高火力生体錐ですら人々は努力をして殺害した。人々は身を投げたり、銀行体に向かったり、開き直ったりした。
激震が一度聞こえ、カアテンが跡形も無く消え去ると同時に人々の幻想も跡形も無く消え去った。
荒野が広がる。
並び立つ多様な攻撃性、それら全てが自身らを滅ぼすために存在していることを理解せざるを得ない状況は馬鹿馬鹿しい。薄い星空を覆う十字のものが何なのかも分かる者はいない。
人々は存在しない幻影の、延長された幕内に住んでいたものを羨んだ。
根の無い尖がった樹木が急に回転すると、画線がバラバラに、適当な角度に三本出る。
そのうち一つが娯楽錐を斜めに貫通した。単純に炎を上げて破散する類の攻撃は、それを殺し切らず、落下するランダウを彼は更に激しく追い、攻撃した。
ランダウは、私はライプニッツの周囲に形成されていく翼や、胴体に掴まり下を目指す。
ライプニッツの枢錐は十字衛錐になった。
更に爆散した娯楽錐の中心から飛来した奇形のラグランジアンに機粒を浴びせる私、屹度それは削れていく彼の複製子体だ……並列回路から断絶してきたのだろう。躊躇を戸惑い、戸惑いを躊躇するとでもいうのか、そんな状況を打破する為、私はひたすらに攻撃をやめた。
もう彼に、彼女に攻撃の余力は無い、落下する我々は徐々に近付く。
私は愛しさの行き場を無くしたそれと同化した。
彼の抱く憧れや、悲しみ、怒りは私がファインマンに関して抱えているものと非常に似通っており、
私が此方を優性に消滅した彼女の主観を他人と思えないのが、思えなかったのが、複合を果たしたからなのかはもう分からなかった。
降りてゆく。
下層へ。
』