pf.World
回転する視界。自身は重力方向に対して浮立しているから周囲が回転している。私は現状が事実では有り得ない回想や、妄想であることに気が付いている。
回っているのは膜、我々に親しみの深い網状であり、球状。照明器具の内側、しかし外側が照明であるように思える。そんなものが何枚も、幾重にも互い違いに回って明るく、我々は更に何かの内側に存在している。透明な簡易巨球か。
「ランダウは、社会と個人、どちらが先に立つと思う?」
「そうだなぁ、個人は社会の為にあると思う、自身を構成する様々な要素が私を成り立たせるために自然選択されてきたように、私自身も社会を成り立たせるために自然選択されてきたように思える、だけど、それに固執することは無い、それは意図せず成されるものだって教えてくれたのは父さんだろ」
「そうだね、けれどその議論はどの段階まででも適用されてしまうものでもある、社会は惑星の為にあって、惑星は恒星系の為に、恒星系は銀河の為にあって、それらは全て宇宙の為にあるのかな、そうしたら、一体宇宙は何の為にあるのだろう、価値は判断されない、価値判断を行うのはそれらに内包された要素でしかあれないからね、為、というのは意味を発生させる、理解する機構、我々の様なね、そういうものがあって初めて出現してくる」
「では、一体何故価値判断を行う必要があるんだ」
「当然存続の為だ、状況に対して適切な処置を施すための自然淘汰、学習、乱雑でないオートマトンとしての言語的自己理解だよ、価値観というのはさ、言語だと思う、実際の物理現象を克明に記録することは出来ないからその表層の内任意の部分を記録する、そうすると全く同一のものが世の中に幾つも存在してくるから、それが単語、概念、一般化された抽象的事実だ、本来なら対応できない様々な状況をそのように同一視することによって対応可能にしてしまうのが自分だ、そうして選択された行動しか取れないし、一般化にも段階があるから一つの事象に対してなされる理解は幾重にもおよび、前例の少ない様なものに対してもある程度の行動を起こせる、その言語体系全体が価値観さ、私とお前の価値観は違うが、ひどく似通っている、こうして脈々と全体を流れる似通った価値観の内一つが、ラグランジュ言語体系だったりするんだよ、だから、この価値観によって判断される全てのモノが私の為か、私の為でないものであり、お前に判断される全てが、お前の後に立ってきたというのも間違ってはいないかもしれないんだ、社会もオートマトンではあるが、リンゴを知らない、お前はそういう点において社会よりも価値判断の中心にあって、社会という個人は極めて頭の悪いものかもしれない、いい必要も無い物だからね、我々の価値観の相互強化、そのための社会かも知れない」
私はこれから起きること全てを、ただ忘れているだけ、そんな気がする。
「……何故そんな事を言うんだ」
網が解ける。
回転する球網も、衛錐のそれも、在りもしない、知らないはずの私の網膜も。
「もうすぐだからさ」
目を覚ますと、休息時保護殻板の半面に罅が入り、一部倒潰して鋭利な物が刺さり込んできていた。私は板外にアンテナを形成しつつ板を融解吸収する、室内は無残に崩壊し、私にはとても形成できない彫刻や機構集体が悉く破散し、融解している。第二面中央には引き千切れた様なへりをした大穴が衝撃を持って威勢を伝えており、四面、即ち床には巨結晶柱が引き摺ったみたいに隆起した傷がある。その先端、私の目の前には不明な、右翼が破損、欠落した中型十字衛錐が切先を私に向け、高温度殻鎖循環炉の蒸液を立ち上らせる。危険な、喧騒な高概音を発する。威圧する。どうやらこいつは私の部屋に突っ込み、家具を破壊しながら私を殺す寸前で保護殻版に食い止められたようである。極めて危険だ、私は瓦礫を自身のコロイドとして吸収しながら機体の製造番号を調べる。
中型個人操錐機X0、補助建築協会から出ている個人操錐ナンバーのカスタム機であった。私は頭のおかしいパイロットの安否を確認するために割れた右翼の断面から衛錐に殻鎖接続をし、平行して硬質透弾を形成、無意味に左翼を破壊した。
胴部が流動的に開閉され、違和感を覚える。内部から自由コロイドが大量に流出してきた。
「内部構造が融解しているのか……」
飛沫が上がり、小さな正四面体の高速回転したものが飛び出す。と思えば、即座に穴から空へと飛び立っていってしまった。
「あれは中継衛錐じゃないか……何で個人操錐の中に中継衛錐が……」
操縦者は見当たらなかっので、機体の残骸は第四面に融解、吸収同化させた。壁の穴はディラックの反射により復旧したが調度品は調達に時間がかかるだろう。
ラグランジュ報道通信が鳴っている。
〈乗錐中の崩壊事故が多発しております、技術者連からこのことについて発表は無く、原因は不明です、外出の際〉
ツ、と聞こえる。
静かな単調波だけが残った。
補助建築協会はその名の通り特殊建築における技術的側面への補助、ディラックに記録された基本塔建築の設計、改計の役割も担いつつも寧ろ技術者連衛錐管理開発施設と提携して衛錐の設計や配鎖コーディングの構築、平常機構集体の生産等工業的活動を行う慈善技術者団体。社会的側面が強く、独自の派閥、家系管理データベースを保有していると明らかにされた。本部は上層薄塔域に浮遊した大型衛錐であり、直方体の辺々を象るような十二の塔建築から三次元方向縦横無尽に更なる塔建築が突出した様相である。重心には責任球なる謎の球体が浮遊している。起源は資本主義時代に乱立、淘汰された企業組織の残骸であり、ディラックの登場により崩壊したそれらの技術、人員が統合されたグループ。技術者連加盟組織の一つである。
今日、ライプニッツと会うこと、その場所、時間などはすでにしてヴェルナー・ハイゼンバーグによって指示されており、その手はずも整えてあるとのことであり、また断った結果生じるであろうデメリットは存続に関わりうる。
さりとてどうやって行ったものか。指定された場所は明らかに地面のない場所、恐らくは何らかの衛錐であろう。
呼んでおいたⅡ型はその役割を果たすことなく、ひたすらに穴の前を浮遊している。
捻じれ、角運動している。
乗錐は果たしようのないことであり、私はそれに取り付いて、内部に手を入れてしまい、弄り、動かした。
複雑錐周囲を取り巻く配鎖列と、推進回転比波箱、アンテナ、定常蒸液炉、定常蒸液孔、駆動結晶、螺鎖昇圧機構、ひっくり返り、一周して元に戻る我々。
機体に自身を固定するように、なだらかに纏わりつき、足を揃え、流して、固める。
数個ある比波箱内部の波棒を出鱈目に回すとⅡ型は私の部屋を右ねじの様に打ち壊し、私の棲む塔が倒壊して、連続的に、波面の様に再生する。突き抜けて後半を前に向けながら鳥の巣構造に当たった。停止すると落下し、また捻るように上昇する。寸前を数百の、様々な塔建築が通過していく。暫くして、眼下にはラグランジュを見下ろす。地平の果てまで鎖の様に連なった文明と更なる遠方に広がる当てのない雲海、同じ色をした空と規律の取れた衛錐の群、数千万のそれが周回するディラック。
衝動的な上昇を続ける。
切断した配鎖の向こうで何かを受信している気配がする。
私はこのままディラックの所まで行ってみたいと思ったが、時折閃く版周囲と煙はそこがどういう場所なのかを伝えている。ラグランジュは安静では無いと、ここまでの事をして知った。上昇して、塵を抜けた先には知らない概要が展開していた。資本主義は崩壊して等いないのだろう。ずっと衝撃がアンテナを揺るがしている。煙い。荒涼とした土色、赤色の雲海が岩石の様に広がる中に幾つもの爆発が巻き起こっている。ごつごつした、画一化されていない建築、見たことのない衛錐に備え付いた筒の先が光り、線が流れ、前方にあるもう一つの衛錐は砕け、割れ、落ちてゆく。ちらほらある、周回物と巨大な棒のみで構成された衛錐、の様なものからディラックに向けて瞬間的に破線の様が描かれ、版は浮き、幾重もの細線を発し、狙撃者は光を失う。衝撃が私を襲う。狙撃者は散逸する。内部から出て来た砂粒の様なそれらすらディラックの細線が的確に突き通している。建築とも、衛錐とも言えない関節構造が何かを捻り潰している。遠方で楕円体が内側に向かってバリバリと崩れたと思えば、急激に見えない真っ黒な球になり、周囲の雲海も衛錐も消えてしまった。随分してから、微弱な反波に見舞われ、Ⅱ型と私の外殻が少し溶ける。
ディラックの半面は殆ど励起し、まるでその空間だけがノイズ的別世界の様に細線が攻撃している。対象は幾つもの版と周回衛錐を従えた、鳥、巨大衛錐、ディラック。
ディラックは無数にあった。
先程の片方から黒い塵の様な物が溢れだし、
もう片方のディラックにこびり付く。内部の直交する帯が解けて膨らみ、版が枯れゆきながら剥がれ落ち、何やら直方体を埋め込みながら作った更なる直方体の様な構造が出現し、砕ける。やっと露わになった複雑錐をディラックは建築の様な余りに太い殻鎖紐で捕捉し、自身を開き、内包する。重低波が聞こえる。
どこまでも続いていた、武骨で攻撃的で多様性に富んだ誰かの、何処かの人々の社会の工夫の集まり、其々の素晴らしく有用な技術。それらがお互いに潰しあい。展開する戦い。
戦争だった。
そんな中でも特別に強力な集団が見えた。
辺りの人々を、建築を、衛錐を、即ち国を、蹂躙し、破壊し、奪っている一点。
それは、我々だった。