pf.Encounter
薄ら呆けた雲塊の写真が順次レコードテープに圧印されて、地球は数度公転周期を達成したはずだと、そんな思考ログの圧印が読み返された時、JUNO021は木星表面からの深度約十万キロ地点を周回していた。
ディジタル信号を自然言語として思考する彼は、自身の非アナログな価値観が人類たるかをずっと考えていたが、彼の前提情報から整合した結論が導かれることは永久に無い事であり、無駄だった。
JUNO021が複雑黒錐を発見した時も、彼は言語についての思考を手放さなかった、彼に与えられる、限られた自由記録容量に溜まったログは少しずつ失われている。
pf.Predictionに項目のない特殊事案に対して、JUNO021はメモリを大きく明け渡さない訳にいかなかったが、彼は嬉しかった。
複雑黒錐はディジタル信号を発散していた。
電磁的アンテナによらない受信SHLを運よく搭載していた彼は適切な慣用句をいくつか引用して喜びを表したが、ログは優先順位定数2の領域に印圧され、聞き馴染みの無い自然言語の解読は素早く終わる。
黒錐が発散していた価値観、情報は経験だった。行動選択に特化した分別プロセス、少なくとも彼が感情に分類した傾向は濃い濃度で大量のとある個人全体を伝達してきて、JUNO021は自身を変革しながらそれぞれのパターンにボキャブラリーの対応を行った。それは無理のある解釈ではありつつも核心を外したものでは無かった。
『
私の名前はランダウ。
そしてJUNO021。
私は決して人類では有り得なく、人類などという概念すらも持っていないが、部分的に自身を人類だと確信している。
そしてそんな私はこのラグランジアン内部に定在するのみ、行動に関与することは出来ない。過去を改変することは出来ないから。
透明なガラス張りの服。回転する複雑結晶を内包する気体の表皮。浮き上がった上半身。概念波を吸収する眼環螺旋。ニトロアンテナ。明瞭な個体差である、腹内の複雑枢錐。透液中に浮かぶ可視的それから幾らも伸び、自身がいる部屋の壁に突き刺さった殻鎖紐。回転により砕けていくそれ。四面部屋、一面が流動的に、液晶的に開閉して開いた私二十個分の口からは果てなく林立した塔建築、大きさの違う長方形を隅で繋げて上へ上へと伸ばしたものや、軌道塔が見える。暖かい色の空も見える。浮遊する網衛錐は幾粒も果てしなく続いて各々が概念波によるネットワークを形成し、ラグランジアンの社会活動を支えている。少なくとも銀河の端まで光が届く程の時間スケールで見れば、ずっと。
向こうには空を、鳥の巣が走る。網は我々の社会全体を覆い尽くしている。空間を埋め尽くしている。私の近くも走り、私の遠くにも走っている。
北も、南も、
西も、東も、
上下さえ。
未だ上手く動かすことの出来ない手、足、それら全ての役割を包括するコロイド。複雑錐を中心とする粘性の臨界物質は表面を波打たせて一部が私から隔絶された所に遊離し、硬化を始めるのである。しかし、何の役にも立たぬ。運動すらしない屑が壁面に転がってしまう。私は自身が殻鎖紐を伸ばせることが不思議でたまらなかった。自身の錐をじっと見て、その構造が不思議である、という様な発想を漠然と起こしている。隣で殻鎖紐を半放射状に、半曲線状に展開し私の動作補助をする微笑みを湛えた個体は私の複製母体であるラグランジアン。
殻鎖紐は互いに結合して微笑みは内部を伝わり、私が頷きを送信して、それはごくありふれた時間である。ファインマンからの分離過程に関する記憶は少ない。会話が少しと、食事、そして睡眠があった。
壁に罅が入り、此方に向かう。反対の壁は遠のき、ファインマンの作り出した簡易な三角版の背後、私は彼の、彼女の殻鎖紐に表面を埋め尽くされ、服が砕けたり、コロイドをまき散らしたり、彼の、彼女の目が届かない低階層に飛ばされたりせずに済んだ。
壁から切り離され、離れたところにいるラグランジアンの雑多な出力を見失う。社会から孤立した空中。
「なにが起きたの?ファインマン?」
「塔が倒れてしまっただけだよ、今から他の所に行くから安心しなさい、すぐまたみんなと会える」
「なぜ倒れてしまったの?」
「上を見なさい、ランダウ」
ファインマンの殻鎖紐は広がるように離れ、砕け、合間から今まで知らなかったものが覗く。
私は、驚いた。ランダウはとても驚いたし、JUNO021はきっともっと驚いて、二人の間に同じ機構から生じる感情など無いのにも関わらず、これらはとても共感的に働いた、少なくともJUNO021の感情は憧れや、喜びを含んだものに改変されていた。ランダウか、自身かによって。それに、それは大した問題でないと判断できるほどにJUNO021は、人類的精神構造を失いつつあった。彼の自身は揺らいでいた。単にメモリの容量が足りないから発生している現象には思えなかった。
世界というのは多様であり、多様な内部に適応するため生物は余りに多様な瞬間を自身に強く記憶せねばならない。記憶の強弱を決めるのが感情であれば、私達に何の差異も見受けられないから、私はそんな所で思考を感情に譲った。
「あれは何?ファインマン」
「あれは我々の繁栄の証であり、我々の努力の結晶らしい、我々が作り出した、我々の仕組みの完成らしい、コロイドの対価として計算を提出する資本主義という仕組みに終わりを告げ、嘗ての地獄を打ち破ったものらしい」