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アルトは先程見た光景が忘れられずにいた──両腕が影の様に黒い男。理解し難い恐怖のように、まるで黒い塊のお化けに会ったかのような、そんな怖い夢を見た感覚に似ている。あの男は人間なのか、それとも──
「アルト君! 来たよ!」
自分を呼ぶ声にアルトはハッとして目の前を見た。白銀色の髪の少女が首を傾げて「どうしたの?」と聞いてきた。
「何でもないよ、リーベル」
アルトは気を取り直して、今は食事を楽しむ事にした。
「大罪屋名物『いきなり裸のカルロスの憤怒に焼かれた可哀想なサーモン』お待ち遠さまぁっ!」
」
頭に真赤なリボンを着けた可愛いらしい女性店員が、大きなお皿を持ってリーベルとアルトのテーブルにやって来た。
そして、料理の乗ったお皿を慣れた手つきでテーブルの上に音も立てずに置くと、途端に美味しそうな匂いが辺りに立ち込める。
潮と香草の芳しい香りをテーブル一杯に放つその料理は、スパイスと一緒にこんがりと焼かれた見事なサーモンだった。
「「おぉ……」」
リーベルとアルトは圧巻の光景に感動を通り越して言葉を失っていた。
リーベルがお皿に備えられていたレモン1片を掴み、熱々のサーモンの上に絞って果汁を垂らす。熱を帯びた皮にレモンの汁が触れた途端、小さくじゅっと音を立て、爽やかなレモンの香りが二人の鼻孔をくすぐった。
「「おおおぉぉーっ!」」
二人は歓声を上げて目を輝かせた。
リーベルがナイフを手にしてサーモンに切れ込みを入れると、いまだ蒸気を放つ熱々のサーモンの身から脂が湧き水のように溢れ、とろりと伝うその輝く雫の濃艶な様に、二人はただただ魅了された。
リーベルはフォークを取り出し、虚空を見つめるサーモンのその身を突き刺した。そして、期待に胸が膨らみ自分の唾液で一杯になった口の中へ、溺れそうな舌へと運んだ。
「いただきまーす」
はむっ。とリーベルが一口。その瞬間、ガタっとテーブルが揺れた。
「え……」
リーベルがいきなりアルトの手を握った。何事かとリーベルの顔を見る。
リーベルは左手でフォークを口に加えたまま、右手でアルトの手を握って言葉にならない感動をその潤んだ瞳で必死に訴えていた。
──すっっっっごく美味しいんですけど!!!
「お、美味しい?」
リーベルは頭を縦にぶんぶん振り回して全力で肯定した。白銀色の髪が勢い良く乱れた。
リーベルは幸せそうにゆっくりと噛み締め、液体の入った小さな樽を手にとって口に運んだ。
「はふぅ。あぁ〜美味しいぃ〜」
「……はぁ」アルトはリーベルを見つめながら静かに溜息を漏らした。
まるで快楽に身を委ねたかのようなその恍惚とした表情は妙に色っぽく、妖精のような顔立ちの少女が食べ物を屠る姿に、アルトはつい見惚れてしまった。
そんなアルトの視線に気付いたのか、リーベルは微笑んで身を乗り出した。
「さっ! アルト君も食べようよ、すごく美味しいよ」
「え? あ、うん」
リーベルに促される形で、アルトも香ばしさの止むことの無いサーモンにフォークを伸ばし、そして口に運んだ。
「わ、美味しい……」
香草がサーモンの臭みを消し、肉厚なその身の表面に振られたスパイスが濃厚な旨味を引き立て、レモンの酸味が脂の癖を打ち消す──その食べ易さのあまり、食欲の無かったアルトでさえ次がほしいと思ってしまった。
口の中はほのかなレモンの香りだけが残り、先程口の中で味わった濃厚な旨味は幻のように消えていた。
アルトは、口に手をあて料理のその美味に感動してみせた。アルトのその様子に、リーベルは幸せな顔で微笑む。
二人で料理を囲むと、その分美味しさも増し、何より楽しく感じる。アルトは忘れていたいつかの光景と今が重なり、少しだけ寂しさが込み上げてきた。
「さぁ! じゃんじゃん食べようよ!」
アルトの様子を察してか、リーベルは大きな声を上げて、わざとらしくサーモンを大量にフォークに刺して大きく口を開けた。
「うん! 食べよう!」
アルトは顔を上げてリーベルと料理を取り合った。そしてあっという間に皿の上は骨だけが残り、リーベルはアルトに目配せをして、手を上げた。
「おねぇさん、追加いいですか!」
程なく先程の店員が歩み寄ってリーベルの隣りに屈み込んだ。
「はぁい、どうぞ。可愛いお嬢様」
真赤なリボンを着けた女性店員は嫌味を感じさせない自然な笑顔で微笑んで、白銀色の髪の少女のオーダーを待った。
「この『駄目、駄目なの。いけない人妻に溺れた色欲のヴァルザのしっぽり蟹パスタ』と『空腹で我を忘れた強欲のオードの持つ盾とチキンレッグ』あと、オレンジジュース2つ追加お願いします」
女性店員は長々としたオーダーを聞いた後「オッケー」とウィンクしてテーブルを去って行った。
「今更だけど、どのメニューも変な名前だよね」
「そう? ユーモアがあって私は好きよ」
「長くて注文しにくいよ」
そんな事をアルトがぼやいていると、他の客が先程の女性店員に手を上げ注文をしていた。
「お姉さん、強欲二つ追加お願い!」
「こっちは憤怒一つーー!」
どうやら、余所者の自分達には知らない、慣れた注文の仕方があるようで、二人は目を合わせ「あぁ……」と頷いた。
しかし、リーベルとアルト以外にも、この店に慣れていない人はいるようで──
「すみませーんっ、『愚民を見下ろす傲慢なルテラの双球パイ包み』を二つお願い致しまーすっ」
その長い注文を聞いた後、リーベルとアルトは顔を合わせてくすりと笑った。
「僕達と同じく旅の人かな?」
「そうかもしれないわね。この街は国民による治安部隊が存在するみたいだし、治安強化されている街は旅人もよく来るわ」
「ふ〜ん……。ねぇ、この後はホテルに戻るんだよね?」
「うん、そうよ。また一緒に入浴しようね」
と、優しく微笑みながらリーベルが言い終わる前に「うん。しないです」とアルトは即答した。
リーベルは顔を引き攣らせて不気味に微笑んでいる。純朴そうな少年がだいぶと生意気になってきたな、とリーベルは思った。
それはつまり、人に対してそんな事を言える余裕が出来たという事でもあり、アルトとの距離は短くなったのかもしれないと思うと、寧ろ悪い気はしなかった──だからと言って、諦めた様子は微塵も感じさせないリーベルだったが──
「……まぁいいわ。この街の地図を買ってあるの、散策でもしてみる?」
リーベルはポーチを弄って折り畳められた厚手の紙を取り出し、テーブルに広げた。
すると、アルトは体を乗り出して地図を食い入るように眺め、目を輝かせていた。その姿は、冒険心に胸を踊らせた少年そのものだった。
この街はとても広く、1日では回るのは不可能だったが、そんな事はお構いなしにアルトは次々と指を置いていった。
そんなアルトの無邪気な顔を見ながら、リーベルはそっと呟く。
『……あの子は家族に会えたかな』
「え? 何か言った?」
アルト顔を上げてリーベルを見たが、オレンジジュースを美味しそうに飲んでいるだけだった。
「はあぃ、おまたせしました〜」
と、そこへ可愛らしい店員がやってきてテーブルの上に料理を並べた。
鋏が皿からはみ出るぐらいに大きな蟹が鎮座したパスタと、焼石の上で激しく音を立てているチキンレッグが二人の前に差し出される。
「「おぉ……」」
そしてまた二人は言葉を失い、感嘆の声を上げて料理を迎えた。今度はアルトがフォークを握ると、コクコクとリーベルが頷いた。
アルトは身を乗り出し、腕を振り上げ、チキンレッグ目掛けてその罪深き料理に銀色の先端を突き立てた。
『ぐぇぇぇぇぇっ』
アルトはビクリとして手を引っ込めた。断末魔のような呻き声に驚いて怖ず怖ずとチキンレッグを見た。
しかしすぐにリーベルがふざけて演じた事に気付き、本気で驚いてしまったアルトは──
「もぅっ、リーベル!」
顔を真っ赤にして怒った。