3.碧眼の瞳
「おっはよー」
張りのある暖かくも優しいその声に、少年は閉ざしていた瞼をゆっくりと開けた。
寝ていた少年を呼び起こしたのは、白銀色の長い髪を胸まで垂らした少女だった。
宝石のように輝く碧眼の瞳で、少年の顔を見つめている。
「目が覚めたかな? 罪深き少年よ……なーんてね、体は大丈夫?」
少女の問いかけの意味がわからず、ましてや自分が知らない場所で、知らないベッドに寝ていた事に、少年は頭が追い付かずに困惑した。
「あ、私の名前はリーベル。港で倒れていた君を、私がここまで運んで来たの。重くて大変だったよぉ」
少年はまどろむ意識の中、少女の言葉を手掛かりに考え込んだ。
「港……? あっ!」
何かを思い出した少年は自分の体を見た。
包帯が巻かれているだけの、裸同然の格好をしていた。左胸に巻かれた包帯が赤黒く滲んでいる。
「なんで……僕は生きてるんだろう」
少年は自分の体に触れてみた。いつも通りの感触、いつも通りの温もりだった。
「なんでって……死にたかったの?」
「あ、いえっ、そんなことは。……えっと、リ……リーベルさんが僕を助けてくれたんですか?」
リーベルは両手を腰に当て「そうよ!」と得意げに上体を後ろに反らした。
「ありがとう……ございます、リーベルさん。僕はアルトって言います」
「アルト君ね。よろしく。見た所、十二歳ぐらいかな?」
「は、はいっ! そうです!」
「私は、えっと……十六歳。あ、それと私にさん付けはいらないわ」
「は、はい。あっ、えっと……あの、なんで……裸なんですか?」
「もっと気楽に話していいよ」
「あ、うん。えっと、なんで……裸なの?」
「あぁ。君の服、すっごくボロボロだったし血まみれだったし臭うしで、海に捨てたわ」
「そうじゃなくてっ。何というか、なんでリーベルも裸なの?」
リーベルは下着すら纏わない格好で、少年の前だからといって隠す気も無く今だ腰に両手をつけて胸を張っている。
浅紅色が映える白い肌も綺麗で、積もった雪のような白銀色の長い髪はさながら妖精のように美しかった。
しかし、少年の瞳はなんの色にも変わらず、ただリーベルを不思議そうに見つめていた。
「お、意外なリアクションだね。もっとこう……慌てたりしないの?」
リーベルは首を傾げて悪戯な表情でアルトを見つめた。
「こう見えても僕は慌てているよ。裸を見られてすごく恥ずかしい……」
「そっちなの!? 私の裸じゃなくてそっちなのっ!?」
少女の体にはまったく興味を示さないアルトに、リーベルは覆い被さるように詰め寄った。
アルトの目の前で柔らかそうな白い肌が揺れる。
「見るのは平気です。見られるのは……恥ずかしいです」
アルトは自分の体を毛布で隠し、顔を赤らめ視線を落とした。
「はぁ。男の子の割には可愛い顔してるなとは思ったけど、ここまでとは……」
──アルトの前髪は目に掛かかるぐらいの長さがあり、よく見ると睫毛が男の子にしては長い。サイドも耳はすっかり隠れて首に掛かっている。幼さもあるが一見して女の子と見間違えてしまう顔立ちだった。
「……わたしは裸で寝るのが好きなの。その方が都合がいいし」
「どう、都合がいいんだろう……」
リーベルの意味深な言葉に、アルトは怪訝な顔をした。
「他にも聞きたい事ある?」
リーベルは腕組みをして谷間を胸に抱いた。
「えっと……なんで僕は生きているの?」
「それ、さっきも言ったよ」
「あ、えっと……どうやって僕は助かったの? 怪我をして海に捨てられた僕はこのまま死ぬんだと思っていた」
リーベルは詰め寄った姿勢から腰を落として座り、真剣な眼差しでアルトを見た。
「……実はね、アルト君。あなたはまだ死の直前にいる」
「え……?」
「私は、アルト君の死を止めただけなの」
アルトは上体を起こし、リーベルの硬い表情を不安げに見つめた。
「アルト君の心臓は確かに止まり、生命を維持する程の血液も残ってなかった。普通ならそれを死と呼ぶでしょうね。それでも、君は死にたくないと願った」
リーベルは自分の手をアルトの胸に置き、そして瞳をじっと見つめた。
「私がアルト君を見つけた時、一瞬だけ君の心臓が動いた。たった一つの言葉を私に伝える為に」
──死にたくない
「その言葉を私に伝え、アルト君の心臓は再び止まった。完全に死んだ訳じゃないと分かった時、私はアルト君を助けようと思ったの」
「そんな事があったんだ……知らなかった」
アルトはそっと自分の胸に触れた。鼓動が手を伝い、自分の心臓が動いている事がわかる。
「あとは簡単よ。心臓を動かして、血液を用意して傷を塞げばいいだけ」
「え?」
アルトは呆気に取られた。リーベルが普通では考えられない事を簡単そうに言い放ったので、思わず言葉を失ってしまった。
「人間にそんな事が出来るわけないよ……」
「そうね……」
信じられないといった様子のアルトに、リーベルは努めて笑顔で、少し寂しそうな声で答えた。
「気になるようだから答えてあげる。今、アルト君の心臓には特殊な生き物が寄生していて、その子が代わりに君の心臓を動かしているわ」
「い、生き物っ!?」
アルトはあたふためいて声を上げ、自分の胸を触って確かめた。しかし、傷があるぐらいで特に目立った所はない。
「私の血液ごとその子にはアルト君の体に寄生してもらったから、アルト君の体には私の血も流れている事になるわね」
「ええっ!?」
アルトは困惑した。唯でさえ信じられない事ばかりで頭が追い付かないのに、その上自分の体には別の生き物とリーベルの血が混ざっていると聞かされたのだ。アルトは頭を抱え、意識が飛んでしまわないよう努めた。
「拒絶反応が無くて幸いだったわ。まぁ、アルト君は今死人みたいなもんだし、それに私の血液は普通じゃないからそれはそうなんだろうけど……。それと、君に寄生している子は生き物と呼べるような姿はしてないから違和感は無いはずよ。まぁ、ちょっと不思議な事が起きると思うけどね」
アルトはしばらく固まっていた。自分の身に何が起きているのか、幼い頭では理解が追いつかなかった。とにかく、尋常では無い事が今もなお起きているという事は確かな様だ。
ただ、リーベルが言うように体に違和感はまったくない。それだけも、冷静になるきっかけにはなったようで、アルトは深い溜息をして顔を上げた。
「考えるのは辞めにします。僕には到底理解は無理です」
「そうね、その方がいいんじゃない?」リーベルは笑顔で応えた。
「ねぇ、リーベル。お互い裸のままっていうのもどうかと思うし、ひとまず服でも着てよ」
アルトは辺りを見回した。ベッドがある以外は机と椅子が置かれているだけで簡素な作りの部屋だった。所々に、リーベルの服が無造作に置かれていた。
「そう? 今のうちに慣れておいた方がいいと思うよ?」
「どういう意味? 嫌な予感がするけど」
「気にしなくていいわ。でもね、アルト君の服は捨てちゃって代わりの服も無いから、お店まで行って買ってくる必要があるの」
「僕、お金なんて持って無いよ」アルトは落胆の表情を見せた。奴隷として生きていた自分が持ってるはずもない。
「お金なら私が出してあげるから、心配しないで」
「で、でも……僕、裸のままお店に行きたくないよ」
「何の心配してるのよ! 私が行くに決まっているじゃない!」
リーベルはベッドから降りてドアへと歩いた。その後ろ姿をアルトは引き留めようとしたが「また後でね」と遮られ、リーベルはそのままドアを開け部屋の外へと出て行ってしまった。
「……リーベル、服」
リーベルは裸のまま外へと出て行ってしまった。
「……そういえば、傷口ってどうなっているんだろう」
部屋に残されたアルトは独り言を呟き、リーベルが傷口をどう塞いだのかまでは説明していなかった事を思い出し、そっと包帯を捲って確かめた。
「……銀色の糸?」
アルトの左胸にある傷は銀色の糸で縫合されていた。傷口はアルトが思っていたよりは酷くなく、浅黒くなっている程度で幾分安堵する事が出来た。しかし……。
「この黒色の模様はなんだろう?」
黒色の模様が、傷口を中心にして描かれていた。良く見ると、傷を縫合している銀色の糸も、黒色の模様と似たような模様をしている。銀色と黒色の、対称的な模様だった。
アルトがその模様を凝視しているとガチャリと音を立てドアノブが回り、リーベルがそそくさと戻ってきた。
「裸だったの忘れてた」
リーベルは「えへっ」と照れ笑いをして部屋に戻り、地面に散乱した自分の上着を掴んで羽織った。
アルトは胸の包帯を整えて、戻ってきたリーベルに溜息で迎えた。
「裸に慣れすぎだよ、リーベル」
「だってぇ~」リーベルは口を尖らせ、子供のような態度を見せた。
リーベルは椅子の下に転がっていた下着をヨイショと声に出して掴み取り、拡げた。
「さっきアルト君が言った事だけど……。確かに、私は人間では無いわ」
リーベルはそう言いながら拡げた下着に片足ずつ潜らせ、ふくらはぎを通し、太腿まで通した。
下着を穿くリーベルの姿を、アルトはただじっと眺めていた。
「人間では無い……ってどういう事?」
アルトは下着がリーベルの臍の下にて終着するのを見届けた後、顔を上げてリーベルの碧眼の瞳を凝視して答えを待った。
「ただの、化け物よ」
リーベルの『化け物』という言葉はどこか寂しさを感じさせる静かな口調だった。アルトは、それ以上聞くのを辞めた。
リーベルは一枚布の服を頭から被って腕を通し、膝上の丈までヒラリと延ばした。
「この服短くって、足が寒いんだ」
リーベルは苦笑いをして服の先を摘まんで見せた。膝上でフリルが揺れている。
「下着が見えそうだよ?」
「そうだね。アルト君の服のついでに私の服も見てくるよ」
リーベルは厚みのある素材の上衣と下衣を体に巻きつけ、小さ目の皮靴に足先を延ばし入れ「今度こそ出掛けてくるわ」とドアに向き直った。
「これから……僕達は何処へ行くの?」アルトはリーベルの背中に問いかけた。
少しばかりの沈黙の後、リーベルは振り向き、アルトに微笑んだ。
「世界を旅して、美味しい物食べて、最後の時を迎えるだけよ」
リーベルの微笑む姿が、何故かとても寂しそうにアルトには見えた──