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黒き林檎の物語り  作者: 三傘
第一章『小さな鼓動』
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2.潮の香りと

 海と空の境界線から一筋の光が昇り、その輝きは灰色の空を押し広げ、人々が息衝く街を照らす。


 海に浮かぶ幾つもの船が波に揺れて、その度に船体から、ぎし、ぎしと軋む音を響かせる。

 揺れながら陽気にリズムを取っているそんな船を、海鳥達は見下すように冷たい空から唄っていた──


 船の停泊所から海沿いに歩くと、木造の倉庫と海に挟まれた畦道がある。潮の香りが漂うこの海沿いの道に、一人の少女が白銀色の髪を靡かせ歩いていた。


「……寒い。冬は明けたって言ってたのに……」


 少女はかじかむ手を擦って不機嫌そうに呟く。吐く息が白く色付く。


 この地に吹く冷厳な海風は未だ止むことを知らず、冬が終わっても尚、僅かな温もりすら奪うように荒れていた。

 そんな賊心に狂った風が、肌を裂く冷たい切っ先を持って少女に襲いかかる。

 華奢な体が凶暴な巻き風に襲われ、白銀色の髪が空へと舞い……。

 ふわり。しかしそんな乱暴な踊りの誘いには乗らないと、白銀色の髪は幕を下ろして静かに煌めいた。

 海風の謀りも虚しく、ヒュンッと音を立てながら、独り空へと還っていく。


 少女は寒さに身を縮ませ、露出した膝を隠そうと上衣を下に引っ張る。しかし隠せるだけの布の長さもなく、これ以上は限界と丈の短い服に溜息を漏らし、再び凍える足を押し進めた。


 歩く先には、幾つもの水溜りが出来ていた。

 雨なんてここ最近降ってはいない。その水溜りは赤茶色に濁っていた。

 少女が赤くなった膝を露わにして水溜りを跨ぐ。しかし足の長さが少しばかり足りず、パシャッ、と音を立て水が弾けた。


「冷たいっ」


 少女は顔をしかめて叫んだ。


 濡れた太腿を手で拭い、少しムッとして前を向くと、目の前に膝ぐらいの太さの柱が道を塞いでいる事に気が付いた。

 なぜこんなものが倒れているのか不思議に思った少女は、踵を浮かせて先を覗き込む。白くて長い睫毛でぱちくりと瞬き、その碧眼の瞳に見えたのは、酷く荒れた光景だった。


 着港した船の物資の保管に使われていたであろう連なった木造の倉庫は、風化して朽ちたというより、まるで巨人が暴れたかのように無残に破壊され、地面はその残骸で道を埋めていた。


 少女は倒れた柱を軽く飛び越える。すると途端に無数の海鳥達が翼を振って飛び去っていった。白斑混じりの羽根が一つだけ空に残され、ひらひらと迷い落ちる。


 人の気配に気付かないぐらい、海鳥達は何かに没頭していたようだった。

 空には恨めしい鳴き声が散っている。邪魔をされて怒っているようにも聞こえるが、しかしこんな場所に海鳥達の餌になるようなものがあるとは思えない。

 少女が思考を巡らせていると、不快な臭いに気付いて振り返った。


「……血の臭い」


 柱の影でよく見えなかったが、海鳥達が屯していた場所に人が倒れているのを見つけた。うつ伏せの状態で、濁った水溜りに顔を埋めている。動く気配は無い。

 少女は眉一つ動かさずに視線だけをずらした。腹部から下が無い。その身体は酷く荒らされており、内臓が無造作に引き摺り出され、服ごと肉が剥がされていた。海鳥達が没頭していた理由は恐らく……。


 ふと、地面に蠢く黒い影が視線の端にちらつき、そちらを見ると、離れた所で必死に啄んで食事をしている海鳥達を見つけた。影の隙間から人の足が覗いている。


 そこに、顔を真っ赤に染めながら力の限り屠る海鳥の姿があった。足爪を突き立て、その嘴で死肉を引っ張り、仲間同士で奪い合っている。

 肉を剥がそうと必死に首を振る度に、骨が剥き出しになった人の足がバタバタと気味悪く動いた。


 少女はその悲惨な光景をもろともせず、先へと進んでいった。

 すると先程よりもさらに執拗に切断された人の体があった。胴体らしい物が二つあったので二人分だろうか。

 その体は頭も腕も足も無く、判別を持たない塊に程近い。少女はその塊を軽やかに飛び越えていった。

 こんな、早朝に似つかわしくない無惨絵が飾られた港に少女は内心辟易しながらも、今の死体が荒らされていない事に気付く。

 海鳥に不人気な死体に同情するわけじゃない。単に嘴を寄せ付けない原因が気になっただけだ。

 少女は軽やかに跳ねながら、さっきの死体と何が違うのか考えてみた。もしかすると肉が硬すぎるのかもしれない。胴体は厚みがあり、屈強な肉体を持った男だったのではないか。……違う。内臓も手付かずだった。それなら何故──


──パシャンッ


 またも水溜り。濁った液体が舞い散り、少女の服を汚した。

 少女は後ろを振り向き、目を細めて転がった塊を見た。白銀色の毛先が頬を撫でる。


「あぁ……そういう事ね」


 何かに納得した少女は、鼻をすする。

 しかし自分の服が汚れている事に気付き「むぅ」と唇を尖らせ、お気に入りの服が汚れて落ち込む女の子さながらに、シミが広がっていく様を恨めしく睨んだ。

 それにしては、少女の身に纏う服は些か丈が足りず、胸も尻も窮屈そうで、足は寒そうだ。


「はぁ」


 溜息を一つ。空が少しだけ白くなる。

 目の前で海鳥達が一斉に羽ばたいていく姿があった。見上げると異様な光景が飛び込んで来た。何があってこんな事になるのか、船らしき塊が寄りかかるようにして小屋を押し潰していたのだ。

 それだけではない。地面には先程と同じ様な死体が幾つもある。

 暴虐の痕を残した数々の人の一部が、売り物にならない魚のように無造作に切り捨てられ、そしてその一帯は潮の香りと血の臭いが混ざり合った悪臭を醸し、海鳥達にとっての刺激的な異香を放っていた。


 太陽は輝き、海は風を運び、街は眠りから覚めようとしている、普遍的世界。

 だが、ここだけは違う。少女の歩くこの道だけは、残酷な異界が広がっている。

 まるで地獄。いや、地獄そのものだ。


『ア”ア”ーー』


 転がった死体の頭の上に留まっていた海鳥が、低く呻くような声で鳴いた。

 存外、海鳥にとってはここは天国なのかもしれない。そんな事を考えながら、少女は静かに瓦礫の山を進んでいった。


 すると、一際目立つ大男が目の前に立ち塞がった。

 その大男はうつ伏せで棒のように倒れ、首を後ろに捩じられ絶命していた。充血した二つの眼を剥き、口からは長い舌が飛び出し、まるで鬼のような形相で自分を見下ろす少女を睨んでいた。


「海に嫌われたようね」


 少女は朽ちた鬼のような亡骸をじっと眺めた。

 しかしその瞳の奥には何も映らない。

 心は平静で、深沈とした表情で、皮肉めいた言葉には淡々として感情が無かった。


 海の悲しげな波音が聞こえる。

 小舟に憂いをぶつけ、届かぬ空に飛沫を上げ、海は少女をじっと眺めていた。

 周りを見渡せば人間と建物の残骸だらけの、こんな地獄のような世界に少女は何を思うのかと、海は冷たく囁く。


 ビュウッ、と、唐突に頬を殴るような海風が吹き、少女は乱れた髪をそのままに、天を仰いでそっと瞳を閉じた。

 そして、白い雪の上に舞い落ちた花のような、可憐で美しい浅紅色の唇が小さく動く。


「再燃の……生贄に」


 ゆっくりと瞼を開けて、その瞳に空を映し、少女は歌い始めた。

 少女の声の、その心の振動は周囲の空気を震わせ、あらゆる物質は熱を帯びるように覚醒し、優しく、力強く、その歌は天に響き渡った。


 少女の奏でる歌は、まるで聖堂に響き渡る厳粛な聖歌そのもの。

 海鳥達は唄うのを止め、穢れた身を清めるかのように少女の歌に耳を傾けた。

 眩しさすら覚えるその歌は、この世のあらゆるものに触れ、そして浄化していくような、まるで天使の振る舞いのようだった。


 少女は胸に手を添え、透き通るその声に感情を乗せ、一歩、また一歩と踏み出す。道を埋める瓦礫の僅かな足場を踏み、地獄の先へと聖歌を導いていく。


 歪な景色。転がった死体。

 少女の歌はより強さを増して、とても悲しげで……空に手を伸ばして高らかに声を張り上げた。

 太陽の輝きを、その希望の光を求めるかのように、その長い五指を伸ばし────



『カラン……カラン……』



──鐘の音が響いた。


 少女の指先がピクリと動く。鐘の音は街の方から聞こえてきた。

 定時に鳴るにはまだ早いその鐘の音色はどこか乱暴で、直ぐ様沈黙した。


 少女は歌うのを止め、街の方を一瞥した。


「うん、こっちも見つけたよ」


 少女はニコリと微笑み、白銀色の長い髪をかき上げて屈んだ。

 その瞳に、血の気が失せた幼い少年の姿が映る。

 少女は悲しみの表情で、無残の痕を残した少年の体を見つめた。

 少年の胸には木片が突き立てられていた。

 少年の黒髪は乱れ、色褪せた服はボロボロで、手の指は血肉を剥き出して痛々しく、そして、生気の失われた顔には苦しみ抜いた表情が浮かんでいた。

 愁眉を寄せた少女の瞳が揺らぐ。


 少女は深く息を吸い、浅紅色の唇を少年の耳元に寄せ何かを囁くと、少年の胸に刺さっている木片に手をかけた。ぐっと力を込め、そして躊躇無く引き抜く。僅かに血が飛沫し、少年の胸からせき止められていた血液が静かに流れていった。


 少女は瞳を閉じた。

 長い睫毛を伏せ、血塗られたその木片の先を自分に向けた。

 白い手に力が込められ、少女は自らの身体を斬りつける。


──そして刹那


 小さく呻く声、溢れる白い息。

 漂う血の香り、血の温もり。

 冷厳な大地の海のほとりに、異香の花がまた一つ。


 海鳥達が、凍てつく空から無言で下界を覗いていた……。




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