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自分以外に誰もいない、静かで涼しいこの部屋にむなしくラジオの声がこだまする。夕日も既に沈みかけていて、窓辺の私を残った光が赤紫に染め上げた。
私は手に持った、既に冷め始めたコーヒーを少しすすって、細く窓を開ける。午前中の雨の匂いが微かに残った初夏の気持ち良い風が生ぬるく頬を撫でた。二つノックが鳴って、誰かが入ってくる。振り返ると、私の良く知る女の子が入口に立っていた。
「三年二組の赤城です。白木先生に放送で呼ばれてきました。」
「どうぞ。」
長い髪を後ろで一つにまとめた少女は私に促され、鞄を脇に置いて近くの椅子に座った。
「何のご用でしょうか、先生。」
「分かっているでしょう。進路調査票、出してないのはあなただけよ。あなた、学級委員長なんだから、こういうことはちゃんとしてもらわなくちゃ。」
「申し訳ありません。」
「何か、やりたいことはないの?」
赤城は恥じらう様子を見せて、スカートの裾を握って言う。」
「……出来れば、倉科大学の音楽科に行って作曲について学びたいと思っているんです。」
「やめときなさい!」
彼女が呆気に取れれて私を見る。
「自分のやりたいことよりも、就職のことを考えなきゃ!」
「そ、そういうものですか。」
頭を垂れた。落ち込ませてしまったようだ。しかし、こういうことはびしっと言わないと。教師なんだから。
「同じ大学の、文学科なんてどうかしら。私、そこを卒業したけれど良い学科だったよ。まあとにかく、ご両親とよく話し合って、ちゃんとした進路を書いてきなさいね。三者面談だって近いんだから。」
「はい……。」
「もう行っていいわ。応援団の練習、あるんでしょう。」
「ええ。申し訳ありません。先生は今日は指導に来て頂けるんでしょうか?」
「ごめんね。忙しいの。」
「そうですか……。」
赤城は鞄を持って立ち上がる。
「あの、先生。」
「何かしら。」
少しためらって彼女は言った。
「先生は高校生の頃、将来何になりたかったんですか?」
赤城を見ずに私は答える。
「その頃から先生になりたかったのよ。」
「そうなんですか。参考にします。……変なことをお聞きして申し訳ありません。」
私は彼女が出ていくのを見送る。背中に申し訳と憐みの視線を送りながら。扉が閉められても、扉をじっと見ていた。
「先生、白木先生。」
気がつくと、私の目の先で手を振られていた。どれだけぼんやりしていたのだろうか。目の端に映る窓の外はすっかり暗くなっていた。
「なんでしょうか、新田教頭。」
教頭は白髪が目立ち始めた頭髪を掻いた。
「何ででしょうじゃありませんよ。職員室をもう閉めると言ってるんです。」
「あ、すぐ出ます。」
「あ、それからね、先生。」
「はい?」
「君、学級会議を欠席で休んだ生徒を応援団長にしたんだって?駄目ですよ、そんなことをしては。もっと民主主義的にやらないと。」
「すいません。」
「今回は本人が嫌々納得したから良いようなものの……。」
新田教頭はぶつくさいいながらエアコンを切って廊下を出た。切られた途端、涼しい部屋に熱気がこもり始める。傘と荷物を持って昇降口から出た私は最後に、ライトに照らされた校庭を見た。雨は降っていないが、なんとなく水玉模様の傘をさす。
「的場君や、高島君はどうしているのかしら。」
この季節になると思い出してしまう。そして、エアコンの入った涼しい部屋から、見たくなってしまうのだ。何も言えないほどに鬼気迫る、あの演武を。
終わりです。ありがとうございました。




