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舞台上は明るく、天井には無数のライトが煌めいている。目の前にはピアノが一台。弾かれるのを今か今かと待ちわびている。舞台奥の白い幕は橙色に染められて、横長の看板が吊ってある。「倉科大学音楽科。白木由紀子コンサート」という文字が見て取れた。
そう、今日は私の単独コンサートである。舞台袖のカメラ映像によると客席は満員で、降りた幕の隙間からはがやがやと多くの人々の話し声が漏れ聞こえた。私は、着ている赤いドレスをちゃんと着られているかを確認する。赤は好きだ。真紅に燃える膨張色が緊張による脱力感を奮い立たせる。
「頑張れ、私!」
頬を叩いて気持ちを入れると、気分がすっきりとした。本番数分前を知らせる、一つ目のブザーが鳴る。
「白木お嬢様、お客様がお見えです。」
「本番前よ、後にしなさい。」
「ですが……。」
憐れみを覚えるほどに、申し訳なさそうに頭を下げている召使いの美香を見おろすと、怒る気にもなれなかった。
「ま、いいわ。時間がないけれど、お通しして。」
「はい。では。」
美香は扉の後ろに声をかけると、陰からタキシードを着た的場君が顔を覗かせた。
「や。」
「あ、来てくれたんだ。嬉しい。」
「もちろんだよ。君の晴れ舞台じゃないか。」
彼は後ろ手に隠していたバラの花百本を私に手渡した。
「ありがとう。凄く嬉しい。」
目の端に薄く涙が浮かぶほど嬉しかった。薬指で拭って受け取る。自分がつけている香水に負けず劣らず芳しい匂いが鼻孔をくすぐる。良い匂いで肺を満たすと、ベルがもう一つ鳴った。始まりの合図だ。もうすぐ幕が開く。
「それじゃあ、頑張ってね。」
そう言うと、的場君は帰ろうとする。
「うん。……ねえ、何か忘れてなぁい?」
「あ、そうだった。」
的場君は私の右頬にキスをする。日課となったこの行為にも、ためらいがなくなってきている。よし、頑張ろう。
舞台にて一礼すると、厳かな拍手が私を出迎える。ピアノを前にして席に着き、楽譜を見る。私がこの日のために一生懸命作った曲だ。お客さんは楽しんでくれるだろうか。鍵盤に手を触れ、高らかに弾き始めた。
皆の視線が集まる中で弾くのは楽しい。幼いころから夢見ていたことが叶ったのだ。ピアノを弾き始めて十数年。甘みのあるレモンを噛むような爽快感。目をつむり、悦に入って鍵盤を弾く。こちらは間違わずに弾いているのに何故か客席がざわめくのが聞こえてきた。
「ねえ、この曲って。」
「あの、アイドルの……。」
何のことだろうと思って目を開ける。目の前の楽譜は真っ白だ。なのに自分の指は動いている。いや、自分の意思で動いているわけではなくて勝手に動いているのだ。
これは、この曲は!ちょっと、なんで動かないのよ、止められないのよ。私の曲じゃないのに!
依然、性欲溢れる曲は響き続けている。
客席の扉が開く。高島君だ。彼は大きく振りかぶって野球ボールを投げると私の右手に当たった。
「何するのよ!」
私は椅子から転げ落ちる。鍵盤は尚動いている。看板が大きく揺れ、照明が降ってきた。割れる、大きな音が次から次へと続く。鼓膜が破れそうだ。
「自業自得よ。色んなことに惑わされてるからこんなことになるんだわ。」
召使いの美香はそう吐き捨てると、高島君と手をつないで出ていった。客席のお客さんは、ゼリー状に溶けている。
「誰か、誰か助けて!的場君!」
ガラスが割れる音に遮られ、聞こえているのか届いているのかも分からないままにガラスの破片を浴び続ける。
「俺は、お前から全てを奪ってやるんだ。」
頭の中で真田君の声が繰り返し再生された。
「うわあああ!」
目の前が暗転し、何も見えなくなった。
目が覚めると、静かな朝だった。汗がじっとりと全身を塗りたくっている。
「夢か。」
変わりのない現実に、ほっとしつつも絶望した。学校に行けば、いつものように的場君に無視され、美香からは遠くから冷たい視線を浴びせられる。高島君は泥人形のように表情が消えうせ、真田君は挨拶さえもしてくれなくなった。会うと、
「何勘違いしてるんだよ、ブサイク。」
とでも言いたげな白い目を向け続ける。
変わったのは無くなった水玉模様の傘のあった場所に、黒い傘が収まったことくらいである。
今日も私は応援団の練習と白組の応援全体練習に向かう。そして、性欲溢れる曲を流すのだ。
体育祭の本番は、あと一週間である。




