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自分の人生の中で、これほど悲しい朝をあと何度迎えることだろう。
寝覚めはもちろん悪かった。枕はしっとりと濡れている。まぶたが重く、目やにが酷い。頬を触ると一本のガサガサの線が入っていて、それが涙の跡だと気がついた。ベッドから起き上がって鏡を見る。泣き腫らした赤い目が私を見つめる。熱を帯びた頬をさすり、手櫛で髪をとかした。
時計を見ると十時半。野球の試合がもうすぐ始まる。行くべきか行かないべきか。昨日メールを送ってきてくれたおかげで、真田君の爽やかな笑顔と白い歯と筋肉質な体。それから高島君のことが頭をよぎった。自分は、何かに縋りたくなっているのかもしれない。私は最低限の身なりを整えて、音を立てずに家を出た。
整理券に書かれている球場の場所を携帯で調べて、地図の場所へと歩いて行く。夏の明るい日差しを一身に浴びながら三十分程歩いていくと、いくらか気分が和らいだ。
球場に辿り着いた時には既に試合が始まっていた。整理券を係の男子生徒に見せると、手なれた様子で三塁側の客席までの行き方を、こんな私にまで懇切丁寧に教えてくれた。
客席は練習試合のため、テレビで放映されるような試合とは違ってまばらである。外野の方では試合に出ていない他校の選手達が、試合の様子を見守る。三塁側の客席では、同じ学校の生徒達が真田君へ、黄色い声が投げかけている。その内の一人が私のことに気づいたのか隣の子を肘でつついて、ちらちらとこちらを見ては顔を見合わせ、クスクスと笑った。
雨合羽を切り刻んだのは絶対にあいつらだ。長い棒きれでも持っていれば、ぶん殴ってやりたいのだが、証拠がないので殴れない。私はおとなしく、うちの学校の応援団から少し離れた後方で試合を観ることにする。
試合はゼロ対ゼロで二回の裏を迎えている。こちらのチームの攻撃だ。
「五番、センター、真田君。」
バッターボックスのそばの丸い円にて、彼は二回ほど素振りした。すかさず、
「真田君、頑張ってー!」
のように、声を合わせた黄色い声援が彼に飛ぶ。普段、新田先生がいらっしゃらない時の練習ではそういった声に軽く手を挙げて応えてやるのが真田君という人なのだが、今は違った。黙って、左打者用のバッターボックスに入る。彼の体に真剣な緊張感が入るのは珍しかった。鋭く敏感に投手を見て、投げる動作に入るのを身じろぎせずに待つ。一瞬の間があって、球は投げられた。カウントは一アウト一ストライク。真田君は一球見送った。
二球目。捕手が打者から離れた方へ大きく手を伸ばして受け止める。審判は、
「ボール!」
と大きな声と動きで自身の判断を皆に伝える。一ストライク一ボールで迎えた三球目。投手が振りかぶってボールから手を離した瞬間、バットを少し後ろに引いてそこから鋭く振った。木製の心地良い快音が球場に響き渡る。打球は投手の頭上を越えて、一度地面で跳ねてから真田君と同じ守備位置の選手に捕球された。その間に一塁へと駆けていく。球が二塁手に渡ったときには、一塁ベースを踏んでいた。再び女子から、いや今度は男子からも歓声が上がり、声援が送られる。真田君は小さくガッツポーズをした後に、私に気付いたのか手を挙げて……くれたように見えた。残念ながら、その後の打者は続かず六番七番と三振をしてしまい、攻守が入れ替わりになってしまった。
三回表になって、高島君が登板する。打者が入る前の慣らし練習で捕手に投げている様には、肩の不調は感じられない。軽い調子で投げているのに、相手の投手よりも球速はずっと速かった。
相手チームの打者がアナウンスで呼ばれ、バッターボックスに入る。高島君は力を入れずに冷めた目で打者を見つめる。球を持った右手とグローブをはめた左手を頭上に掲げ、体を捻って左足を曲げ上げる。緩やかに振られる右手から、鋭い球が放たれて、捕手のミットを強く打った。
「ストラーイク!」
大きな声と動きで審判の判断が皆に伝えられる。帽子の居心地を直す姿には、肩の不調に苦しむ影がどこにも見受けられなかった。
二球目は、投げて、捕手が捕った後に打者が振る。三球目からもそれの繰り返し。表情の無い冷めた様子がストライクを生み出す作業をこなす機械のように見えて、青春のドラマなんかはそこに無い。内野手も外野手も棒立ちで、三塁手などはグローブの中で欠伸をしていた。一塁側の相手の客席応援団は、応援するのも忘れて高島君を見つめている。審判の大きな声と、相手チームの選手が飛ばす、節のある罵倒がむなしく球場に響いていた。
なんなく三者共三振で作業を終えた高島君はベンチに戻っていく。彼を新田先生はわざわざベンチから出てお迎えになり、右肩を健闘を讃えるように軽く叩かれる。高島君は帽子のつばを指でつまんでそれに応えた。
三回裏は八番がフライを捕られ、九番の高島君に打順が回る。二回空振り、三球目。投手は袖で額の汗を拭き、石灰で手を白く染める。振り被ったが、足を上げた体を支える足がふらついて球が投げられた。素人目に見ても投げ損なったと分かる球は、球場全体の、
「あっ。」
と上げられた悲鳴が予感する通り、高島君の体に伸びていく。鈍い音を響かせたあと、彼はバットを取り落とした。どうやら手に当たったようだ。それも右手に。すぐに手を気づかい、曲げ伸ばしをしている。審判はデッドボールの判断をして、高島君は一塁へとゆっくり走って向かう。新田先生はタイムを取ってくださって、代走の旨を伝えた。私も心配になって、ネットに近づく。
「大丈夫か?」
先生は帰ってきた高島君に声をお掛けになり、心配されている本人は何やらスプレーを吹きかけて黙っていた。
「お前にはまだ投げてもらうんだから、何とかしておきなさい。」
そのお言葉に、返事の声は聞こえなかった。高島君が休む間もなく攻守が交代する。
四回の裏。高島君の投球に異変が起こっていた。まず、汗を何度も拭いている。太股で汗を拭う回数が多くなり、捕手が捕れないほどの逸れた球を投げるようになった。指先をみたり、肩を回す動作を何度も繰り返す。デッドボールで彼の指に何かが起こったんだ、きっと。もしかすると、指を労わって投げるから余計に体が疲れているのかもしれないと思った。彼の名前を呼んで応援したいと思ったのだが、真田君のファン達が私に睨みを利かせているので大きな声援を送るのは怖い。せいぜい心の中で応援するのが精一杯だった。彼は三者を平凡なゴロで打ち取り、その回を終えた。
五回の裏。高い所に昇った太陽は、雲にもかからず私たちから日影を奪う。座っているだけの私でもきついのに、高島君はどれほど苦しいのだろう。息が上がってここまでその苦しそうな呻きが聞こえる。ここをチャンスと相手の打者のバットには打球が当たりだし、ファールを量産して自分が打ちやすい所に投げられるのを待てるようになっている。一球一球に大きな声を出すようになった。膝に手を置いて、休む姿勢を何度も見る。もう限界だ。木製のバットが響く音がする。平凡なピッチャーのゴロだ。彼は片手でとり、それを……投げられなかった。異変を察知して打者は二塁へ走る。捕手が駆け寄って、
「馬鹿、何やってんだ!」
と怒鳴って高島君の手からボールをもぎ取り二塁へ投げる。彼は、小さく口を動かした。多分謝っているのかもしれない。捕手は背中を叩いて、元の位置に戻る。
次の球を投げるのは時間がかかった。相手の控えの選手達は、高島君の投手としての無能さを朗々と歌い上げている。振りかぶって上げた両手を支えられずに投げた球は、緩やかに弧を描き、そして快音が響き渡った。
「わあっ!」
「きゃー!」
「これはホームランだ!」
打球はぐんぐん伸びていく。そして、外野席にまで届いた瞬間に、頭に響くほどの歓声がと賞賛と拍手の嵐が巻き起こる。そうして、高島君のことを罵ろうと彼を見てようやく気がついた。
彼は地に突っ伏していた。
「高島君!」
周囲の目も気にせずに叫んだ。足は既に入口へと向いている。階段を下りていくに従って、喧騒が段々と大きくなっていった。整理券を渡した、慌てている男子の脇を通って選手用の入口へ走る。大丈夫かな、大丈夫であって欲しい。そう思いながら選手用出入り口へついたとき、丁度高島君が担架に乗せられて出てくるところだった。周りは沢山の人に囲まれていて、
「救急車を呼べ!」
「誰か、水だ。水を持ってこい!」
「親御さんに連絡を!」
大人達の大声で耳が痛む。人だかりを押しのけて、担架へと近寄ると、高島君は目を閉じて乱れた呼吸をしている。手足の筋肉は細かく痙攣し、同じチームの選手が額の汗を拭いても拭いても乾かない。頬は赤く、水を飲ませようとしても、喉奥へと入っていかずに喉元を濡らすだけだった。
「高島!」
彼女も来ていたのか。駆けつけてきた美香が、彼に寄り添う。うわ言のように
「白木……白木。ありがとう。」
と繰り返して呟く。美香は唇を強く噛みしめて手で扇いでやり、高島君の左手を握り返していた。
「どけ。どかんか!」
人の山をかき分け、低い声が近づいてくる。私の隣に陣取ったのは、新田先生でした。先生に美香が縋るように言う。
「先生。高島が、高島が……。」
そのように声を震わせて言う言葉にも耳をお貸しにならず、担架の上の高島君の右手首を持ち上げて注目し、それから喧騒のなかで小さく舌打ちなされたのを私は聞き逃さなかった。先生は近くの大人に、
「すいません。私は親御さんへの連絡と、生徒の指示をして参ります。
と仰ったあとに再び人の山をかき分けて行ってしまわれました。先生は高島君の何をご覧になっていたのだろう。そう思って、見ると右手の人差し指が甲の方へ九十度以上曲がっていて、中指も第一関節だけが人差し指の方に不自然に折れ曲がり、薬指同様に血が滲んでいた。鮮血が鮮やかに目に焼きつき、私の動悸が激しさを増す。
「ええええ。」
高島君は叫ぶようにして盛大に吐いた。それから十分経った頃だった。やっと救急車が来たのは。
周囲の大人達は、これで安心とばかりに球場へと戻っていく。高島君はもうろうとした意識でまだ私の名を呼んでいて、美香の手を離さない。救急隊員の方からは、
「手を離さないのであれば、一緒に乗っていった方がいいでしょうね。」
と言われて彼女は乗りこむ。更に、美香には高島君が呼んでいるのは誰か。といった質問が投げかけられ、答えるのに少し躊躇している。その間に、私が白木だと名乗って、
「では、あなたも一緒に乗ってください。」
その救急隊員の言葉につい乗り込んでしまった私は、美香に鋭く睨まれた。極力こちらを見ないことに決めたのか、高島君の方へ目を逸らして彼の名前を呼び続ける。救急車の後部ドアが閉まる時に、
「選手交代のお知らせです。ピッチャー高島君に代わりまして、真田君。」
というアナウンスと、興奮に満ちた大きな歓声が聞こえた。
高島君は呼吸を、酸素を送るチューブを介して行っている。汗は止めどなく流れているが、安心できるのは心電図が安定していることである。それ以外の車の装備は分からないが、救急隊員の人達は何やら機械をいじっていた。救急隊員の方は無線で症状が熱中症のように思われることと、入ることのできる病院を探してくれている。
美香は当初、イヤイヤと不幸を嘆くだけの乙女に過ぎなかったのだが、今は段々と落ち着いて、冷静に救急隊員の方が話してくれている、彼の身に起こった症状の理由を聞くことが出来るようになっている。まるで高島君の妻のように甲斐甲斐しく腕の汗を拭いたりしてあげていた。
私はというと、何も出来ずに高島君の顔と美香の顔を交互に眺め、ただ、高島君が私を呼ぶ声をぼんやりと聞きながら、彼が今後の応援団の練習が出来るのかなどと、不謹慎なことを考えるばかりであった。幸いにも受け入れてくれる病院がすんなり見つかった上、乗用車の皆さんの協力により、混雑にも巻き込まれず邪魔されず、救急車は球場から十五分程度で病院へと到着した。
救急車から出るように促されて、車を出る。そこそこ大きな総合病院に、到着していた。救急車から下ろされた高島君は呼吸器を取って、
「二人とも、ありがとう。」
とだけ簡単に礼を言ってくれて、看護師に引き渡された彼は病院へと吸い込まれていく。高島君の意識が戻ったことに、私は気づいていなかった。
あとに二人残されて、一度だけお互いに顔を見合わせる。私達は黙って病院へと彼の後を追った。入口を抜けると女性看護師が処置室の前まで案内してくれた。
「では、ここでお待ちください。」
端的にそれだけ告げられたあと、処置室前で待たされることになった。一つのベンチの端と端に座ってじっと待つ。あまり好ましくない、嫌な空気が二人の間に流れた。耐えきれなくなったのか、こちらも見ずに美香が言う。
「ねえ、あんたもう帰ったら?あとは私やるけど。」
「やるって、何を?」
「看病とか。」
「看病って。病気じゃないわ。」
「揚げ足取りな女ね。学級委員なんてやっといて、性格悪いんじゃないの?」
「否定はしないけど。でも、誰だって、そういう性格の悪いとこってあるんじゃないの?」
美香の横顔を見つめると、彼女は顔を背けた。静寂が訪れる。それから美香は長い髪を何度も掻き毟った。涙を流しているようだ。
「死んじゃったらどうしよう、高島。」
「死ぬわけないじゃん。熱中症らしいけど、意識は戻ってたじゃない。」
「命じゃないの。野球選手としてよ。」
それについては私も言い返せない。私は見たのだ。折れた右指を。美香は左右の手を組む。
「どうか神様。高島がまた、楽しく野球をやっている姿が見られますように。
薄くしていた化粧が流れている。露わになった右の頬のにきびが赤みをさしていた。
「あたし、見てたのよ。ずっと。彼が一年生の頃から。朝も晩も、晴れも雨も。彼、この学校の野球部では唯一の部活動特待生だから、嫉妬にもまれて根詰めて。正直言うと、あたしこの学校、親が滑り止めに受けとけって言われて受けただけだからやりたいこととか特に無くてさ。」
彼女は続ける。
「ある日、一日中寝てたら夜になってた。慌てて下駄箱を出ると。校庭の明かりに照らされて、たった一人で投げ込んでるの。カッコ良かったあ。なんか、それ見てたら、明日だけはあたしも頑張ってみようって。そう思ったの。だから、皆は真田なんて野郎に夢中みたいだけど、あたしは、あたしだけが彼の味方なんだよ。」
美香は私の目を見て詰めよる。
「あんたはどうなのよ。」
私は何も答えられなかった。言葉が出なくて押し黙っていると、一人の男性が私達の前に立った。スーツ姿に眼鏡をかけた短髪のその人は、声をかけてきた。
「君たちか、息子に付き添って、ここまで来てくれた子たちというのは。」
「高島のお父さんですか?」
美香が答える。
「ああ。」
「そうです。先生が他の生徒の指導に行かなきゃいけないとのことで、あたしたちが。」
「そうですか……。息子のためにどうもありがとう。」
高島君のお父さんは頭を下げる。美香は謙遜し、私は何もしていない罪悪感に襲われた。
「君達、本当に悪かった。あとは私が付き添うから、遅くなる前にお帰り。」
「はい。失礼します。」
美香は少し名残惜しそうにそう答え、彼女に続いて私も頭を下げた。高島君のお父さんは、せめてものお礼とタクシーチケットをくれたので、病院前のタクシーに乗る。四十分ほど無言で揺られて家へ帰る。今日のことはよく思い出せない。でも、新田先生の舌打ちと美香の涙は脳裏に焼き付いていた。
既にお昼ご飯の時間は過ぎて、オレンジ色の夕日が我が家の外壁を染めていた。家の前の少し前でタクシーを降りて、家へ入る。
「おかえりなさい。」
笑顔を作った母が出迎える。
「晩御飯、出来てるわよ。」
「うん。……ただいま。」
父はまだ仕事だったので、二人で静かにオムライスを食べる。母は何も聞かなかった。だから、私も何故聞かないの?と聞くべきではないと考えた。本当は聞いて欲しかったのかもしれないけれど。
お風呂に入ってベッドに入り、物思いにふける。今日合った男達のこと、女達のこと。自分のこと、自分じゃないもののこと。高島君、美香、真田君、盗まれた水玉模様の傘。まだ見ぬ演舞のことについて考えた。携帯が鳴って画面を見る。高島君からだった。
「心配かけてごめんな。美香と一緒に付き添ってくれたんだってな。ありがとう。点滴を打ったら良くなったよ。明日には退院する。新田も見舞いに来てくれたよ。父親といたからか、随分腰が低かったぜ。明日、祭、楽しみだな。」
私はひとまずほっと胸を撫で下ろした。心配した旨と明日を楽しみにしていることを簡単に返信する。しかし、でも、これは安心させるための彼の強がりだったら?いや、本人がそう言ってるんだ。そんな苦しいことは考えないでおこう。私は目を瞑って、手を組んで祈る。どうか、神様。私達が体育祭に向けて頑張ることで、誰もが幸せに近づきますように。
今夜の枕は濡れなかった。




