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次の週の月曜日、一学期の中間試験が始まるまで宣言通りに的場君の席は空席だった。テストの一番手である化学ですっかり心を折られた私は、焦燥感がずるずると後の試験まで影響し、得意であった国語にまで解答用紙に空欄を残してしまうような出来であった。高山君は試験中何度も坊主頭を掻き毟りながら、最後まで真摯に試験に立ち向かい、の美香は試験の半分を寝て過ごした。肝心の的場君は眼鏡を太陽光で光らせて、先週会った時よりもこけた頬をぼろぼろの爪で掻きながら菩薩のような表情でペンを走らせていた。
中間試験の前半は梅雨の雷雨に見舞われたけれど、週の半ばを過ぎてからはすっかり空が夏の様相を呈している。空は高く、入道雲が空でゆっくりと浮かんで流れ始めた。試験が終わった次の週には、暑い夏がやってきた。試験の間に私の傘は帰って来なかった。
更に次の月曜日の放課後のことである。ホームルームで新田先生が成績不振の生徒に勉強をするようにとお説教をされた後、応援団の練習に行く前に私は先生に呼ばれました。クーラーの無い初夏の教室から這うように出てとぼとぼと、どんな用事を言いつけられるのだろうと思って廊下を歩いていくと、反対側から美香さんが歩いてくる。うだる暑さで、話すのも億劫だった上に私の方は得に話す用もなかったので、そのまま目を伏せてすれ違おうとすると、彼女は私の前に立ちふさがった。
「何か御用?」
私が恐る恐る尋ねると、彼女は少し口ごもって口の辺りをもぞもぞとさせている。何が飛び出すのかはらはらと見守っていると、短いスカートの裾を軽く引っ張って口を開いた。
「このあいだの傘、おかしくね?なんであんたが高山の傘を使ってんの?盗んだとか?」
十日前の出来事に記憶がすぐに思い至らなかったけれど、徐々に記憶が蘇ってくると、腹立だしさも思い出された。
「この間は雨が降ってきたのに誰かに傘を盗まれて。困っていたら高山君が傘を貸してくれたの。気になるなら、本人に聞いてくれていいわ。」
「そ、そう。」
「あの時の高山君、ちょっと格好良かったな。」
私がそういうと、美香さんはあからさまにいらいらした様子を見せて、私をなんとも言えない目つきで睨みつけた。いくら私が恋愛表現に疎くても、私だって女だ。彼女の顔ににじみ出る、嫉妬の様子くらい感じ取れる。このままじっと睨まれ続けるのも嫌なので、問題を明らかにすることにした。
「高山君のこと、もしかして好きなの?」
私は彼女の目力に負けず、正面に見据えて彼女を見返した。気温の高さも相まって、額に汗がにじみ出る。私が放った言葉を聞くや否や、たちまち彼女の頬に赤みが艶やかに差した。図星を刺されて心中穏やかではなかったに違いない。不意にこのような心の模様にされて、女が前面に出ないヤンキー(ギャル?)がいるだろうか。美香さんは自分が普段粗暴であることも忘れ、愁いを帯びた溜息をついてようやく口を開いた。
「好きじゃない。愛してる。」
そういうと、恥ずかしそうに走り去って行った。私はというと、まるで自分に言われたような気持ちがしてしばらく茫然と佇んでいた。我に返ったのは校内放送がかかったあとである。私の白木という名前が全校に放送されて、私は職員室へと走った。
職員室は運動場に面した二階にある。ここにこの学校の全ての先生がお集まりになっているのだ。暑さと先程の緊張で気持ち悪くべたつく汗をハンカチで押さえ、ノックをして学年と氏名を伝えると、中から新田先生が入室の許可を出してくださいました。ドアを開くとその部屋はとても涼しいものでした。中は、ほとんどの先生が部活動や課外に行かれているため閑散としています。ですから新田先生を含めたほんの数人で、その涼しさを享受していらっしゃいました。
新田先生は私を一瞥なされると、ご自分の机の下から段ボール箱をお出しになり、私はそれを頂きました。
「中には応援団用の学ランや、袴が入っている。どれを選ぶかは自由だ。君達で勝手に決めたらいい。それから。」
「なんでしょうか。」
「進路希望調査票、出していないのは白木だけだぞ。早く出しなさい委員長なんだから。」
「すいません……。」
先生は席をお立ちになって、熱いインスタントコーヒーを淹れつつそう仰います。進路調査と学級委員長との間にどんな因果があるのかは分かりませんでしたが、私には歯向かうことができませんでした。
「私はもう行ってもよろしいしょうか?」
「ああ。」
ぶっきらぼうにそうお答えになると、あとは席で新聞をお読みになっています。視界が不自由になるほどの大きさの段ボール箱を持った私は「失礼します。」と退室の言葉を述べました。
私がふらふらになりながら職員室から出ると誰かにぶつかってしまい、尻もちをついた。
「大丈夫か?白木。」
そのように声をかけてくれたのは、高島君だ。
「あ、うん。大丈夫だよ。」
「重そうだな。そのへん置いとけよ。俺が後で持って行ってやるよ。」
なんて優しいんだろう。傘の件といい、今回の件といい、ぶっきらぼうな言い方であっても親切に接してくれるその心遣いが嬉しかった。私が床に一旦置いて、その好意に甘えようとしたとき、後ろから
「高島ぁ!」
と怒号が飛んできました。高島君はたちまち表情が強張り、眉間に皺をよせています。そして、背筋をぴんと張りました。
「はい!」
「それは白木に、俺が運ばせてるんだよ。ほっとけ!」
そう新田先生は仰います。
「はい、すいません!」
彼がそのように答え、目で謝るようなサインを送ってきたので私は彼の肩を軽く叩いて、気にすることないよとサインを送る。そうして再び段ボール箱を持って、暑い外へ出て扉を閉めました。しかし、一体新田先生は高島君に何の用があるのでしょう。怒号を浴びせていましたから、怒られるのでしょうか。
気になってしまった私は段ボール箱をそっと床に置き、辺りの人気を確認した後にドアを細く開いて中を見た。
「どうだ。肩は。」
新田先生は仁王立ちで腕組みをして、高山君をご覧になっています。顔に穏やかな微笑みを浮かべ、はた目からは心底高山君を心配なさっているように見えます。普段は粗雑な態度で私達に接していらっしゃっても、ご自身が顧問をされている野球部の生徒については優しく接することもあるのだと、なんだか感心してしまいました。
「リハビリは順調です。」
「そうか、そうか。それは良かった。」
新田先生は一呼吸おいてこう仰いました。
「じゃあ、次の練習試合投げてくれな。頼んだぞ。」
「え、でもあと三ヶ月は……。」
先生は、心底落胆したかのように肩を落とします。
「高島……その言い訳はないぞ。」
「どういう意味でしょうか。」
職員室のドアの隙間から流れてくる、冷風が更に涼しくなって、私の頬を撫でる。新田先生は立ちあがって高島の両肩を掴まれると、低い声でこう仰った。
「分かってるだろ?皆頑張っているんだ。お前も頑張らないとな。今までの先輩だってそうだった。体に不調が出ても一生懸命練習してな、夜遅くまで頑張ったものだよ。俺の時代だってそうだったんだぞ?今日も、お前の仲間も踏ん張って練習に出ているんだ、試合に出たいから。幸せ者だぞ、お前は。試合に出られることが確約されていて。そんな仲間を前にして、肩を言い訳に試合に出るのを渋るなんて、非常識じゃないか。いいか、野球をするんだ。なぜなら、お前にとって野球は大事なものだからだ。」
そう仰ると、高島君をじっと見つめていらっしゃいました。
長く、高島君は俯いた後にふっと息を吐いて、少し震える声で、
「……分かりました。たとえ、この肩が壊れようとも投げ通してみせます!」
と答えた。私はびっくりして口元を手で押さえ、先生方とドアを隔てた廊下に足の力なく座り込んでしまった。
新田先生は良く言ったと、にこやかな表情をお見せになり、上機嫌で高島君を職員室から追い出しました。職員室の涼しげな空気が廊下に流れ込み、私の首元に流れる汗を乾かしていく。高島君は、後ろ手に職員室の扉を閉めた後、へたり込む私を一瞥して、呟くように言った。
「聞いてたのか。」
私は頷く。
「……行こう。的場が待ってる。」
彼は私の脇に置いてあった段ボール箱を持ち上げると、先導して歩いて行く。私は彼の後をどんな顔をして話せばいいのか考えながらついていった。
「す、凄いよね。今度の試合に出られるなんて。」
私は極力、笑顔を作って話すことに決めて彼に話しかける。
「優しいな、白木は。試合といっても練習試合だよ。甲子園の予選じゃない。つまりは真田の温存さ。怪我をされたくないし、他のチームに研究されたくないんだろう。俺は新田先生にとって捨て駒なんだ。」
そんなことないよと言いたいけれども、傍目に見ても明らかにそうだ。私の顔から作り笑顔が消えうせ、高島君の背中を追いかけていく。彼は今、どんな顔をしているのだろう。見たい気持ちと見ていられない気持ちが一つの所に同居する。彼は私に聞こえないように言ったつもりだろうが彼の、
「白木には聞かれたくなかったな。」
という言葉は私の耳に残響した。
私達二人が向かった先は、視聴覚室である。そこには、的場君と一、二年生の後輩四名と的場君が席についていた。これに私と高島君を合わせた全てが白組の戦力である。
後輩達はそれぞれの学年の男女ペアで親しげに談笑をしていた。
「遅いよ。」
的場君は参考書から目を上げて私達を見る。高島君は口元に微笑を浮かべ、軽い調子で、
「悪い、悪い。」
と返す。机の上に段ボールを置くと、後輩たちは興味津々にはこの中身を尋ねる。
「衣装よ。いくつかの候補が中に入っていて、好きなのを選んでいいそうよ。」
箱を開けると、新田先生の仰った通りに幾つかの衣装が男女対で一組づつ入っていた。応援団に相応しい、ガラの悪いオーソドックスな学ランに、社交ダンスにでも出られるような煌びやかな服。荘厳な特攻服も、頭無しの着ぐるみも用意されていた。それらを後輩たちは、はしゃぎながら試着していくのを横目に、私達三年生は頭を悩ませる。一体、どれを選べばいいのか。これまでに出てきた衣装のどれも私達の心を打たなかった。
「どれがいいかな。」
私が後輩達から目を的場君に移した時、彼は一着の白い服を手にしていた。それは、まるで死装束を彷彿とさせるまでに真っ白な法被である。私は、いや、私達はこの法被には見おぼえがあった。毎年七月の第一週の週末になると、近所の神社でお祭りがある。その夏祭りで神様に奉納される演舞、これを踊る際に着る法被によく似ていた。違うところは、背中に私達の高校名が刺繍されていることぐらいだろうか。男物と女物の違いは、男物が上半身裸で着ること前提で、女物はサラシを着ける上に胸元が隠れるデザインになっていることである。
的場君はごく自然に袖を通して帯を締める。青白い顔に白い法被がよく映えている。私は箱から女物の法被をすぐさま取り出して袖を通した。彼とお揃いの白い法被を着ていることに密かな高揚を感じていると、的場君は、
「これだな。」
と呟いた。高島君も無言で頷き同意をした後に、
「似合ってるよ。」
と誉めてくれる。私は服装を誉められるのが初めてだったので、少し恥ずかしく思いながら、
「ありがと。」
と返しておいた。後輩達も気に入ったらしく、口々に男達は「いいっすね。」と。女達は「可愛い。」とはしゃいでいる。高島君は、後輩達が着散らかした服を箱の中に畳んで戻そうとすると、何かに気づいたらしく、
「おい。」
と言った。その手には数枚のDVDが握られていて、年度だけがラベリングされていた。
「丁度良い。視聴覚室だし、観てみよう。」
的場君がそう言うと、後輩達が暗幕を閉めてプロジェクターが作動した。
「十年前のものなんて、古くてダサいんじゃないの?」
そう言う後輩の女の子達は、服を選ぶ作業が終わって集中力に欠け、小さな声でのお喋りに興じている。彼女達の言う通り、映像は今から十年前のものであると、画面の右下に表示された日付が示していた。場所は運動場だ。彼らは、私が先程着た法被と同じものに袖を通していて、背中にはうちの高校名が記載されている。
「はぁっ!」
という掛け声から始まる動きに、後輩達はくすくすと笑っている。確かにパタパタと両手で扇子を鳥の羽根のように動かす様子は滑稽であった。恐らく、干支を表しているらしい。軽快な笛の音に合わせて酉の踊りを舞った人達は、首を鶏のように前後に動かして、観客の笑いをとっている。後輩達も笑っていた。私も正直可笑しかった。小さな声で、
「やめましょうよ。」
という声も聞こえた。
映像が始まって、五分程経った頃だ。画面の中の様子ががらりと変わる。その変化を読み取ったのか、私達も含めた観客達は押し黙る。すると、突然大音量でテクノビートが流れ出し、扇子が宙を舞った。その初動、たった一動作に私達は呑まれた。一斉に走り出し、ひし形に隊形を作る。次はどうなるんだろう。私達が期待をした瞬間に映像は乱れ、別の映像が流れ始めた。
そこは神社の境内である。同じく白い法被をきた男が頭に鉢巻きを巻き、一人で舞い踊っている。それは能のような動きをしていて、後ろに見守る同じ服装の人達と流れる囃子が妙な緊張感を持って見守っている。その幽静な様は私達の意識をかき混ぜる。
静かに必死に舞う姿に、誰も笑うものはいなかった。映像が乱れて終わった。見終わった後にはただ、圧倒された気分だけが残った。
見終わって、私はこれをやりたい!と思った。他の人の意見を求めて視線を彷徨わせると、的場君と目が合った。高島君ともあった。二人ともやりたそうである。
「やりましょうよ、これ!」
言ったのは、二年生の後輩女子である。その言葉に的場君は頷いた。
「俺達は今度の夏祭りに神社に行って、奉納の舞いを見なければならない。どうやら先輩達はそれをヒントにしたようだ。」
私達は全員その意見に賛同して予定を合わせた後、それぞれの予定のために解散した。
後輩達は三々五々に帰っていく。私たちは視聴覚室の暗幕を開け、簡単に掃除をした。
「的場君、なんとか演舞の方向まで決まって良かったね。」
「ああ。だけど、安心はしていられない。俺達に残されたのは一カ月だ。その間に形にしなくてはいけないんだ。祭りで演舞を見たら、すぐさま練習にとりかかろう。」
的場君の、眼鏡の奥の目が深く私を見つめる。彼は私の肩を二度叩くと、後は何も話さずに去っていった。
「じゃあな。白木。俺も練習あるから行くわ。鍵閉めよろしくな。」
高島君も部活に行こうとする。
「分かった。やっとく。高島君も無理はしないでね。」
彼は私の言葉には返さずに、私の頭を撫でるように叩くと、黙って去っていった。視聴覚室の鍵を閉めて職員室に返しに行く。
「失礼します。」
と声をかけて中に入ると、新田先生は机に突っ伏して眠っていらっしゃった。私は起こさないように静かに、鍵をかけるコルクボードに戻して、涼しい部屋を出た。
下駄箱から出ると、初夏の暑さに吹く風が涼しく感じられた。校庭では野球部が練習をしている。高島君と真田君がキャッチボールをしている。しかし、流石エースだ。肩が不調とはいえ、私では到底捕ることの出来ないスピードの球を軽々と投げている。真田君は私に気づいてヒラヒラとボールを持つ左手を振って、すぐさま高島君に気づく。高島君もそれで私に気づき、少し私の方を見た後にまたキャッチボールを始めた。私は二人に軽く手を上げて、帰路についた。
家では晩御飯まで応援歌の作成に頭を悩ませる。晩御飯は野菜たっぷりのビーフシチューで、美味しかった。母の、
「中間試験返ってきたんでしょ、どうだった?」
という言葉に、まあまあとだけ答えておいて自分の部屋へとこもる。机の上に置かれた進路調査票は、未だ白紙のままである。




