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以前、taskeyで連載していた作品をこちらにも上げることにしました。
放課後の三年二組の教室は静まり返っていた。黒板には応援団長、副団長、補佐(女)とだけ書かれていて、それぞれの横に名前は未だ書かれていない。硬直状態が始まってもう十分だ。私はちらりと先生を見た。担任の新田先生は、生徒の自主性を守るためという大義名分を掲げて、腕組みをして目を伏せている。いや、時々頭が前後しているので実は寝ているのかもしれないが、それを起こすのは怖い。
私は後ろで一つに束ねていた髪の毛を撫でつけて、昨日家のキーボードで弾いた、ノスタルジックな音楽を頭の中で流しながら、溜息に見えないように溜息をつき、本日何度目かの台詞を投げかけた。
「誰か、体育祭の応援団長をやりたい人はいませんか?」
答える者はいない。もともと昨年から、こういう行事に消極的なクラスではあった。しかし、最後の体育祭を楽しむために、出来るだけ面倒事を引き受けたくないという心理が輪をかけて立候補を阻害しているのである。
外を見れば梅雨の雨雲が空を覆っていて、段々と低く屋根に引っ掛かり出している。このまま議論を遅らせれば全員が濡れること必死だろう。その雲の下では声ばかり威勢のいい野球部がゆったりと練習していた。続いて、今日は後方窓際の珍しく空席になっている机を見た。半ば縋るような視線だったかもしれない。私はぼんやりと普段の彼の姿を空席に重ね合わせ、この重苦しい空気のクラスの心の拠り所にしたのだった。
突然、廊下側の席から打撃音がした。見ると、美香が両足をはしたなく机に乗せている。
「つかさあ、的場でいいんじゃね?団長。」
彼女は面倒臭そうにそう言った。私は空席に目をやる。このままでは欠席決議になってしまうが、若干のざわめきを背に受けながら、黒板の応援団長の欄に的場君の名前を書いた。しびれを切らした民意は、ここにいない者へと悪意を向ける。彼女の発言を皮切りに、普段的場君と親しくない男子が推薦を始め、
「的場でいいと思う人?」
という安直な美香の問いかけに、過半数……いえ、私ともう一人を除けば満場一致で手が挙がった。
「ほら、過半数。民主主義だ。けってーい。」
「やるじゃん、美香。すごーい。あはは。」
ああ、なんと潔い押し付けなのでしょう。ここが日本であるために、民主主義という言葉を使われると反論が出来ないとは言わないまでもやりにくいことこの上ありません。
美香は、仲間に賞賛されて笑顔を振りまく。すると、すぐさま打撃音がした。美香は少し驚き、その音に振り返った。私以外のもう一人の人間、高島君である。彼は正真正銘的場君と親しくしている人間なので、坊主に丸めている頭の中で反論を考えてくれているのだろうと私の中で期待が高まる。私の目の前で立ち上がり、いきりだった。
「それは無いだろうよ!お前ら。酷くねえか?ここにいない奴に押し付けてよ!」
彼の憤慨した背中に野次が飛ぶ。
「じゃあ、お前がやれよ。」
「そうだそうだ!」
「いや、俺は部活があるから……。」
「じゃあ、黙ってろ、カス。」
心無い野次に反論できず、彼はそのまま座ってしまった。頼りないなあもう。
議論は副団長、補佐(女)の二つに絞られたが、もう欠席者はいない。教室が再び静けさに包まれようとしたその時、騒ぎに目が覚めたのか新田先生が口を開いた。
「いや、高島、お前やれ。」
「え?」
「団長は的場で決まりだ。副団長、お前がやれ。」
「でも、部活が。」
「ん?部活で何やるんだ、お前。」
「いえ……。」
新田先生は私からチョークを奪い、副団長の欄に高島と書かれた。残るは補佐(女)だけかと思ったそのとき、美香が短く声を上げたのを尻目に先生は補佐(女)の欄を白木とお埋めになる。私の名前だ。
「私ですか?」
驚きがそのまま口を突く。新田先生は私の方へ振り返られておっしゃった。
「ああ。たまには委員長らしくしたらどうだ。」
そう言葉を残すと席にお戻りになる。先生は、私が黒板の前で司会を務めている様子をご覧になっていないのだろうか。高島君のように反論出来ない自分が嫌になる。心の中で舌打ちをしようと思ったとき、実際の舌打ち音が微かに聞こえた。見回すと、明らかに美香が不満そうである。もう帰れそうだというのに。彼女は
「やっぱ、うち……。」
と手を上げかけたとき、今まで黙りこくっていたクラスメイト達が一斉に口を開き始めた。
「よっしゃ、これで決定ね!」
「賛成!」
「異議なし!」
「早く帰ろうよ。真田君見て帰りたいし。」
「民主主義だもんな、美香!」
一斉に騒がしくなったクラスから投げかけられた言葉に、美香は曖昧な笑みを浮かべつつ頷いた。女友達に近くのファミレスへと連行されるために教室を出た直前、彼女が私を睨んだことを見逃さなかった。言ってくれれば変われたのに。続々とクラスメイトは鞄を引っ提げ、教室を後にした。
静かになった教室に、私と高島君と新田先生が残された。
「じゃあ白木、これ資料な。あと、的場にも帰りに家に寄って資料を渡して説明しておいてくれ。これから俺は中間試験を作らなければいけないんだ。」
私にそう押し付けた新田先生は、高島君にも資料を渡した後、さっさと教室をあとにして職員室へとお向かいになった。
「じゃあ……よろしくね?」
「……ああ。よろしくな、白木。」
ぼんやりと右肩を押さえて窓の外の空を見上げる彼をそのままに、私も教室を出た。傘立てにはコスモスが描かれた私の傘が盗まれていた。
落胆して下駄箱から出ると、運動場が目前に広がる。曜日によって行われる部活動が変わるのだが、先程窓から見たとおりに今日は野球部が活動していた。私は野球部の邪魔にならないように隅を歩いて行く。
「さっこーい!」
「うぉーい!」
運動場に九人が散らばって、棒立ちで守っている。実践形式の守備練習だろうか。投手が振りかぶって思いきり投げる。打者が空振る。それの繰り返し。あまり守備の練習にはなっていないようだった。
一通り三振を取ると、目の前の、右翼を守っていた人と交代をした。その途端に木製の心地よい音が鳴り響き、打者を含めて十人の視線が私に注がれる。見ると私の方へと球が転がってきていた。私は屈んでそれを手に取る。
「ありがとうございます。怪我はない?」
顔を上げると、先程まで投手をしていた男が立っていだ。短髪の彼が着ている練習用のユニフォームには、三年、真田とお腹のところにゼッケンを縫ってある。真田君が振りまく微笑みは、女子の噂に違わぬ端整さをたたえていた。
「あの、どうぞ。」
そう言って私が手渡そうとすると、真田君は左手のグローブで球を包み、右手で私の手を包んで受け取った。
「どうも。」
彼は白い歯を見せてにっこりと笑うと、仲間の元へと去っていく。
「また、ナンパかよ。」
「違うよ。」
そう楽しげな野次を飛ばされながら。
彼が人気の理由が少しだけ分かった気がする。不本意ながら少し頬が熱いのだ。少女漫画のワンシーンを見せられた、マネージャーやただのファンの睨む視線に気づいた私は、再び足を校門へと向けようとした。その途端、今まで楽しげに練習をしていた空気に暗雲が立ち込める。
ポツリポツリと雨が降り出した。冷たい雨が少し上気した私の顔に降りかかり、頬を冷ましていく。冷静になった私は再び視線が自分の方へ集まっていることに気づいた。またボールが私の方に飛んだのかと周囲を見回すと、背後から声がかけられた。
「白木、傘は?」
私の頭上に傘が掲げられた。雨から私を守ってくれている。
「あ、高島くん。盗まれたみたいなの、傘。」
「は?……じゃあ、この傘持っていけ。練習が終わる時間には雨、止んでるらしいから。」
高島君は傘からはみ出した肩の露を軽く払って、私に傘を押しつける。
「そんな。悪いよ。」
「いいって。的場んちに行くんだろ?濡れていくわけにもいかないだろうよ。」
「分かった。甘えます。明日必ず返しますから。」
「おう。的場によろしく言っといてくれ。」
「うん。言っておくね。」
そう言って彼は野球部の方へと歩いて行く。野球部の人達は彼が通る道を空け、目を伏せる。その冷たい空気の中を歩いて行き、ベンチに腰掛けた。そのまま、籠に入った大量の泥にまみれた球を拭き始める。
彼は投手だったはずなのだが練習をしないのだろうか。球を黙って拭き始めた光景に違和感を覚えたけれど、遠くで雷が鳴り始めたので、その場を後にした。
校門を抜けて、的場君の家へと向かう。あちこちに広がり始めた水たまりをよけながら、高校前の商店街を抜けて住宅街へと入っていった。意中の人の家に行くというのだから気持ちが高まる。中学二年生からの一方的な好意は今日まで成就せず、いかんともしがたい状態ではあったのだが、こうして彼の家に行く口実ができた。新田先生には少しだけ感謝することにいたしましょう。彼が休んでいる理由が風邪ならば、何か差しいれを持って行った方がいいだろうか。そう考えてコンビニによると、自分の体は微塵も濡れていなかった。六十センチの長さの傘に十分収まっていた私が七十五センチの彼の傘を差しているのだから、当然ではあるのだけれど、そこに少し男を感じた。
コンビニでスポーツドリンクを買った私は、二階建てのアパートの二階に上り、手鏡でそのうちの一つの部屋の前に辿り着く。手鏡で見ながら念入りに髪の毛を整えて、初めての部屋の訪問に胸を高鳴らせてチャイムを押す。出たのは的場くん自身であった。
「やあ。委員長。」
彼はまるで、肩に重りでも乗せているかのような青白い顔で、私に愛想笑いを浮かべた。正直言って、風邪よりももっと重い病気にかかっているようにも思えたのだが、足取りはしっかりしているようで少し安心する。
「的場君。風邪は大丈夫?」
「ああ、風邪……じゃないんだ。心配かけたならごめんね。お見舞いありがとう。」
彼の言葉に安堵と戸惑いを覚えながらも、ドアを閉めようとする彼を焦りつつ制止した。
「突然押し掛けてごめんなさい。お見舞いもだけどもう一つ。新田先生に頼まれごとをしてきたの。」
「そうなんだ。何?」
「あの、少しだけ長くなりそうだから、中に入れてくれる?外、雨降ってるし。」
私は少しの本音と、彼の部屋に入れるかもしれないという多大な下心を込めて提案をした。的場君は、部屋の中を振り返ってから私の懇願するような表情を見つめ返し、溜息をついて中へと招き入れてくれた。
「女子が来るなら、もう少し片付けたかったな。」
リビングは、ビールの缶とコンビニ弁当の残骸が散乱し、机の上の灰皿には吸い終わった煙草が山のように盛られていた。壁には、「目指せ、医大!」とミミズが這うような筆の字で書かれた張り紙が貼られている。彼は色あせた座布団をどこからか引っ張り出してきて、缶の山をどけて私の座る場所を作ってくれた。
「ごめんね。汚い所で。」
「う、ううん。別に。ねえ、的場君の部屋は?」
リビングは、ご両親の趣味というか、意向があるだろうからこのような惨状であっても、彼の部屋は綺麗だろうと考えたのだ。ご両親の在り方は彼の評価に直結しない。そう自分に言い聞かせつつも、部屋の中は不健康な匂いで充満していてなるべく早く逃れたかった。
「俺の部屋?無いよ。強いて言うならこのリビングかな。隣は両親の寝室で、俺はそこで寝てるんだ。」
的場君は窓の方を指差した。敷きっぱなしの蒲団の上に、浸食したゴミと参考書がせめぎ合っていた。
「あそこで寝てるの?」
「そうだよ。あんまり寝て欲しくないんだよ、両親は。ほら、今年受験生だからさ。寝ているのが見つかると怒られるんだよね。」
力なく笑う彼は、私よりも小さく見えた。私の差しいれたスポーツドリンクを、謝辞を述べて受け取る右手は爪を噛んでいるのかぼろぼろになっている。渇いた大地の真ん中にいるように美味しそうに飲む彼を見て、心中は複雑に渦巻く。
「それで、新田先生からの用っていうのは?」
「あ、そうだった。」
私は鞄から書類を取り出し、的場智之とスタンプが押された方を彼に渡した。白木由希子と記された方は私が読む。的場君は一瞥して落胆した。
「両親が何て言うか……。」
「そんなに厳しいの?ご両親。」
彼は黙っている。張り紙の方をじっと見ているので、もしかすると受験の邪魔になるからとご両親に反対されるのを危惧しているのだろう。やっと張り紙から目を話した彼は建設的な話を始めた。
「応援団、団長か。やるべきことは二つ。応援歌と応援の演舞を作ること。」
「うん。」
眼鏡を取り出して鼻にかけ、じっと読む彼の姿は今までの頼りない評価を覆すほどに格好良い。ぼさぼさの頭を掻き毟りながら彼は話を詰めていく。真剣な眼差しで論理的に話を組み、私にも分かりやすく計画を話してくれる表情に顔が上気した。
雨の降り方が強くなり、電気を点けなければ手元の書類が見えないことに気づいて、ようやく長いことお邪魔をしていたことが分かった。大雑把にいうと決まったことは三つ。一つ目は来週の一学期の中間試験後から準備を始めること。二つ目、応援歌は最近の流行曲の中から私が考えること。三つ目は、演武は的場君と高山君が過去の資料を元に作成すること。
話がまとまって、帰る準備を始めようと書類を鞄に仕舞い始めたときに的場君は言った。
「白木さん」
「はい。」
「一緒に頑張ろうね。」
「う、うん。」
彼は私に微笑みかけて、気分を良くさせた後に落胆させた。
「親がいいって言ったらだけど。」
私は彼が口に出す、親というキーワードに曖昧な笑みを返すことしかできなかった。
「帰る?白木さん。」
「親が心配するし。」
「そうか。それは早く帰らないとね。うちも父親がもうすぐ工事現場のバイトから帰ってくるから。」
「そうなんだ。」
お互いに立ちあがり、的場君は私を玄関まで見送ってくれる。傘を手に持った私に的場君は、
「傘、お父さんの?大きいけど。」
と、ふらふらとしながらいう。
「ううん。高山君。私の盗まれちゃって。」
「あ、そうなの。災難だったね。」
「そういえば、高山君が的場君によろしくって。」
「そうか。元気にしてた?あいつは。」
「まあまあ。明日確認したらいいじゃない。」
「ああ、俺、今週は授業に出ないんだ。」
「どうして?」
「中間試験の勉強しなきゃいけないから。」
「え?学校ですればいいじゃない。」
「傘、見つかるといいね。高山によろしく言っておいてくれ。」
「え?ああうん。分かった。」
最後はあからさまにはぐらかされたので、深くは聞かないことにしてアパートを出た。
雨の商店街を抜けて、家へと向かう。雷に心細く驚きながら、家へと着いた時にはずぶ濡れだった。家に入ると、赤とオレンジのエプロンをした母が私を出迎えた。
「あらまあ、ずぶ濡れね。バスタオルいるわよね。あら、その傘は誰の?もしかして……。」
「いい。自分でとるから。」
傘の件はなんとなく触れられたくなくて、自分でも乱暴かなと思う言葉が口から飛び出る。
「部屋の中が濡れるじゃない。すぐに持ってくるわね。」
母がそう言ってとってきてくれた、柔らかいバスタオルで顔を拭いていると、母は私に新しいバスタオルと下着を手渡した。
「お風呂は沸かしてないから、シャワーに入ってきなさい。」
「そのつもり。」
「ご飯が出来るまで時間があるから、それまでに宿題しちゃいなさい。」
「分かってるって。うるさいなあ。」
困惑する母を尻目に、風呂場で温かいシャワーを浴びる。浴びている中で今日のことを振り返った。応援団をやることになったこと。傘を盗まれたこと。そして、的場君と部屋で二人っきりだったこと。野球部の真田君の白い歯。高山君から傘を貸してもらったこと。今日は男子と話す機会が多かったなあ。そんなことを考えながら、着替えて髪を拭きつつ二階へ上がる。
自分の部屋に入ると湿度が高く感じたので、エアコンをドライモードにして、CD一枚をデッキに入れる。
「応援歌、どうしようかな?」
キーボードにイヤホンを点けて母親に聞こえないように配慮する。あれこれとCDを変えながら、応援歌に最適な曲を考える。結局、すぐに答えは出ないうちに、晩御飯が出来てしまった。お皿の上に乗っているのは私の好きなハンバーグである。いつの間にか家に帰っていた父は、「美味しそうだな。」と一言言って、本当に美味しそうに食べている。母はその様子を嬉しそうに見守っている。私もいつか、こんなふうに誰かの食事しているところをにこやかに見守る日が来るのだろうか。的場君と私で想像してみたが、なんだか上手くいかなかった。代わりに高山君や真田君の方がうまくいくような気がした。
「あ、そういえば、私応援団することになった。」
ハンバーグを飲み込んでぼそりと言う。的場君のところは、親と相談するという話をしていたので、なんとなく私も気になって言うことにした。
「応援団か!頑張れよ!」
「いいじゃない。由希子ちゃん、頑張ってね!」
私の両親はにこやかに言う。少なくとも、うちの両親は肯定的なようである。外で雷が一つ落ちた。