チャプター 08:「始動」
チャプター 08:「始動」
雑居ビルの一室に設けられた小さなオフィスで、久人は一人、書類の処理に追われてい
た。今後行うプロモーションは元より、作曲者の選択及び連絡、活動予定など、久人の仕
事は山積している。菊池社長も他社へ営業を請け負っては居るものの、久人が魅音達とや
りとりを行わなければならない事柄も多く、あっという間に仕事まみれの生活へ戻ってい
た。
しかし、久人の表情に悲壮感は無い。心身共に磨耗していた彼は、アロイの音楽によっ
て活力を取り戻していたのである。
久人が手元の資料を見ながらスケジュールを思案していると、手元の携帯電話が着信音
を鳴らし始める。
背面の小さな液晶に映し出されていたのは、妹の名前だった。
「はい、もしもし?」
『あ…………あ、あの、その。こんにちわ』
ぎこちない魅音の声に、久人は苦笑した。
「ハハハッ。どうしたんだよ。うちの所属になったからって、そんなにかしこまるなよ。
いつもみたいに喋ってくれて構わないんだぞ?」
『う、うん。それじゃあ…………』
受話器の向こうで深呼吸する音を、久人は静かに聞いた。
『えっと。今までは洋楽のコピーばかり聞いてもらってたけど…………皆と話して、文化
祭でお披露目する曲を一度聞いてもらおう、って』
妹の一言に、久人は事務用の椅子から飛び上がった。
「お、おい本当かよ! お前、曲作れたのか!」
『ぜ、全然普通の曲だよ? それに、私はギターのパートを決めただけで……』
久人は手元のスケジュールを乱暴に書き直し始める。作曲家に任せるべき作業を、本人
たちができると判った為である。しかし、魅音達のオリジナル曲がどのような出来かわか
らない以上、安易な変更は危険が伴う。
それでも久人は、魅音達の作る音楽に対して、不思議な確信があった。
「それでいい。自分が一番得意な事をやって、全員で作るから良いんだよ。それなら……
……今週末に、予定合わせられるか?」
メモのような、紙を捲る音が聞こえた後、魅音が静かに息を吸う。
『…………うん。皆に確認しないといけないけど、多分大丈夫。その日は、集まって練習
する予定だから』
週末のスケジュール帳に、早速予定を書き込む久人。静かな事務所内へ、乱暴に走るボ
ールペンの音が響いた。
「そうか。それなら、確認が取れたら連絡してもらっていいか? 場所はまたいつもの場
所でいいかな?」
『うん。また、連絡するね』
「ああ、頼む…………ああ、そうだ」
会話の終わりがけに、つい、今思いついたかのように会話を続ける。久人には、最も懸
念する事柄があった。
「長谷川さん、なんだけどさ」
音を発しない受話器からは、困惑するオーラが漏れ出していた。魅音が戸惑っている事
に気まずさを感じながらも、更に続ける。
「本当に、アルバイトとしての契約でいいのか? やっぱり、親御さんにちゃんと挨拶し
た方が良いんじゃないかな」
『うん…………でも』
魅音が何かを言いかける。急かさないよう、言葉を選ぶ時間を静かに待った。
『閑葉ちゃんのお家は厳しくて…………彼女の話から、お父さんはとても許してくれるよ
うな人じゃないわ。それにもし、閑葉ちゃんが楽器を弾いてるって、ご両親に知られたら
…………』
魅音から改めて言葉にされ、押し黙る。
先日、柚姫の両親へ挨拶した久人は、最後に残る閑葉の両親へ面会したいと、本人へ申
し出た。しかし、閑葉は久人の提案に対して、異様な様子で拒絶したのである。
詳しく話を聞けば、閑葉の両親、特に父親が厳格で、閑葉は法学部へ入る為毎日勉強漬
けの生活を送っているとの事だった。
そのような親に対して、不安定な音楽の世界に連れて行きたいと伝えた所で、説得する
事は至難の業である。何より、久人にはアロイをステージに連れて行くと言う目標がある。
それを実現させる為にも、閑葉の契約に関しては妥協せざるを得ないと判断していた。し
かし、その場の選択が間違っていたのではないかと、不安から言葉が出てしまったのであ
る。
久人は考えを纏めた上で、小さく息を吸う。
「そう、だよな。一先ず今は、これで行こう。連絡、待ってるぜ?」
『うん! また、ね』
会話が終了した後、たっぷり三秒の沈黙を経て、通話が終了する。
通話終了の音を確認した久人は、携帯のボタンを押し、書類仕事を再開する。問題が一
つ片付いた事は前進ではあるも、一つのグループをステージへ上げる難しさは、今までの
仕事で嫌という程思い知っていた。経験した失敗の中には、本当に些細な見落としや失敗
が引き金となって全てが瓦解した事すらある。
それだけに、今回のプロモーションに関しては、慎重に慎重を重ねていたのである。
「よし…………やるか!」
身体中に気合を入れなおし、書類の作成に取り掛かる。
作業を始めてから、久人は完全に仕事に入り込んでいた。そのために、背後に近づく人
の気配に全く気づかない。
久人の頬へ、冷えた缶が触れた。
「う、おおおおお!」
飛び上がり、背後に立つ社長の姿を見ると、ほっと胸を撫で下ろした。
「社長…………勘弁してくださいよ。大事な資料が駄目になったらどうするんですか」
背中を丸め、半開きの目で非難する久人に、菊池社長は悪戯な笑みを浮かべた。
「ハハハッ。全然気がつかないものだから、つい、ね。俺が殺し屋なら、内藤君は既に血
の海に沈んでるな」
「社長は殺し屋なんて向いてませんよ…………あっ、すみません。小川さんもご一緒でし
たか」
気がついた久人が頭を下げた相手は、白髪の混じる小奇麗な女性。キクチレコードの事
務所を借りるビルの管理人である。
小川と呼ばれた女性は、菊池社長の横へ一歩歩み出ると、優しい笑顔で手に持った袋を
持ち上げる。
「今日は、ちょっと変わったお菓子を買ってきたの。菊池君も、内藤君も、一緒に食べて
くれる?」
これが、しばしば行われるささやかな茶会の誘い文句である。
「いつも、ありがとうございます」
「ご馳走になります」
菊池社長も、久人も、物腰柔らかな誘いを笑顔で受ける。
久人は事務所の端に設けられた小さな給湯室へ向かい、カップを三つ手に取ると、二人
の下へ戻った。そこでは既に菓子が広げられており、社長が買ってきたらしい冷えた緑茶
をカップへ注ぐと、テーブルへ並べてゆく。
全員が椅子へ腰掛けると、三人が静かに手を合わせ、茶会が始まった。
久人は、自分の小皿に分けられた黒い饅頭を手に取り、一口齧る。外の皮は油で揚げら
れ香ばしく、それに粒餡と黒蜜が包まれていた。
その甘さに、頬を緩める。
「これ、美味しいですね。餡子と……黒蜜ですか」
久人の指摘に、小川は微笑した。
「そうなの。揚げ饅頭のなかでも、特に評判だって」
二人のやり取りを見ていた菊池社長が、饅頭を飲み込むと改めて謝意を示す。
「本当に、いつもご馳走になってばかりですみません」
「いいのいいの。貴方たちが頑張っているのを見るだけで、私も頑張れそうな気がするか
ら」
恐縮です、と一言返す社長に、久人も一言、感謝を伝える。そして小川は同じように、
久人へ返答した。
「――ところで、最近また忙しくなっているみたいね。凄い新人さんでも見つけたのかし
ら?」
小川の質問に、久人は強く頷いた。
「はい。今の音楽界に大津波をもたらすバンドだと、俺は確信しています」
自信過剰とも取れる久人の言葉に、菊池社長は笑いながら会話を繋げる。
「ああ、そうだな。内藤君に貰った音声データを聞かせてもらった限り、とてもアマチュ
アレベルの腕じゃない。上手くお披露目できれば、本当にビッグウェーブが起こるかもし
れないな」
「起こして見せますよ。他社への営業は、社長が回ってくれてますからね。きっと凄いス
テージを用意してくれる筈です。ですよね?」
意地の悪い久人の物言いに、社長はニヒルな笑みで応えた。
「ああ。実は今日、若手アーティストが多く参加するコンサートの営業に行ってきたんだ
よ。何だと思う?」
菊池社長が見せた、自信のある笑みに、久人は表情を引き攣らせる。
「まさか。でも、あれは参加枠が決まってるんじゃ――」
自慢げに、鼻で笑う社長。
「ふふん。内藤君の考えている通りで間違いない。俺も、駄目で元々、なんて気持ちで向
かったんだが、きちんとアポを取っておいたお陰で門前払いされずに済んだ。そして、企
画部の担当者に、早速演奏を聴いてもらったんだよ」
お茶を一口含んだ社長が、嚥下の後、大きく息を吸った。
「そうしたら、さ。参加枠を一つ用意してもらえる事になったんだ! 営業に行った俺が
一番驚いたよ! そこからは笑っちまうくらいアッサリ話が進んでさ。作曲家の手配まで
してもらえそうだぞ」
喜ぶ社長に、久人は僅かな不安を覚える。あまりにも上手く行き過ぎている事に恐怖を
感じ始めていた。
それを見透かしたかのように、菊池社長は久人の肩を叩く。
「心配しなさんな。理由はどうあれ、内藤君の掘り出した人材をデビューさせるチャンス
なんだぞ? 資金的に苦しいウチからすれば、これ以上の舞台なんてない。レッドトラッ
クス主催のニューウェイブコンサートなんて、またとない機会さ!」
「そう、ですね」
期待される、という事は、他社から注目される可能性もある、という事である。誰かが
金の卵を持っているのならば、如何にしてそれを奪い取るかを考えるのが、大企業の手口。
資本力に決定的な差がある現状ではキクチレコードにはなす術が無かった。
しかし、不安がある事は前進できる事の裏返しでもある。久人は自分にそう言い聞かせ、
仕事の話を続けた。
「それと、社長。曲に関してなんですが…………どうやら、魅音達もオリジナルで何か書
いているようなんです。今週末に一度聞かせてもらえそうなので、作曲と作詞の手配はそ
れからでも構いませんか?」
「ほう、そうなのか。勿論、構わないぞ? その子たちが作った方が、自分たちの音楽に
近いだろうからな」
久人は、菊池社長の持つ、クリエイター優先の思想に苦笑した。本来の企業ならば、ミ
ュージシャンに売れる音楽を書かせるのが仕事。しかし菊池社長はそれを良しとせず、ア
ーティストの表現したい音楽を優先するスタンスを取っている。その経営方針が株主に許
されてしまっていた事もあり、キクチレコードの現状は必然と言えた。
会話を黙って聞いていた小川が、久人に笑いかける。
「新しく契約したのは、どんな子達なの? もしかして、この間まで、内藤君が熱心に見
ていたあの子?」
久人が頭に手を当て、恥ずかしがりながら答えた。
「実は…………バンドマスターが俺の妹だったんです」
小川は、口に手を当て声を上げる。
「まあ。そんな事、あるのね」
お互いに言葉無く、笑い声だけが漏れ出る。
「それなら、今度ここへ来た時に、私も誘って頂戴ね?」
久人は満面の笑みで頷いた。
「はい。きっとあいつらも、喜びます」