チャプター 03:「遭遇」
チャプター 03:「遭遇」
「ふう。ごちそうさまでした」
午前七時五十分。母の作った朝食を平らげた久人は、満足した様子で息を吐いた。彼が
口にしたのは、鯖の味噌煮と大盛の白飯、具沢山の赤だし味噌汁に根菜の漬物である。様
々な理由から食事をおざなりにしてきた久人だが、実家の味を口にして、改めて食の重要
性を思い知らされる。
「あっ…………」
満腹になった腹をさすりながら声のした方へ視線を向けると、鞄を背負い、学校のブレ
ザーを着た魅音と目が合った。久人と視線が交差したのは一瞬で、直ぐに視線が落ち、右
往左往する。
「おはようさん」
「え? あ…………お、おはようござ、ございます」
昨夜の勧誘が後を引いているのか、ぎこちなく応える魅音。いつもならば、この様をか
らかう久人だが、その衝動を抑え、静かに笑むのみに留める。それが、この場に於いて最
良の選択だと判断した。社会へ出てから鍛えられた直観と、忍耐力の賜物である。
お互いに無言のまま相対する。リビングでは、朝食を終えた父母がソファへ腰掛けてい
たが、二人はテレビの占いコーナーを熱心に見つめていた。
久人の見る魅音の唇が、僅かに動く。
「あの、えっと。バンドのみんなにも、話して、みる」
「お…………う、うん。ありがとう」
驚きながらも感謝する久人に、魅音は顔を赤らめ背を向ける。そして、背中越しに「い
ってきます」と小声で呟き、玄関へ向かって行った。久人も、口の中で「いってらっしゃ
い」と小さく呟く。
そして、玄関の扉が閉まる音が聞こえると、右手に精一杯の力を込め、ガッツポーズを
取っていた。
新たな目標へ向けて、第一歩が踏み出せた事への喜び。何も見えない世界を放浪し、つ
いに見つけた宝物。
「よし、よし…………よし!」
無意識に声は大きくなり、椅子に座ったまま、両手で何度も拳を振り下ろして見せた。
「魅音をスカウト…………したんだな」
頭上から掛けられた声の発生源へ視線を向けると、そこには微笑する父の顔があった。
そして、それが不思議でも何でもないような素振りに、久人は確信した。
動画の投稿主が誰であるのか。
「完全にやられたぜ。あの動画…………作ったのは親父なんだろ? 全然気がつかなかっ
た」
父は目を閉じ、ふふん、と鼻で笑った。そして、いつの間にか入れられていた緑茶を久
人の前へ置き、自らも対面へ座る。
「はは…………そうか、そうかよ。あの投稿主のスペル、何か違和感があると思ってたん
だ。考えてみれば、親父の名前のアナグラムじゃないかよ」
すする湯のみをテーブルへ置くと、父が再度笑う。
「遠くを見ているほど、足元が見えないもんさ。誰だって、自分のよく知っている人間が
そうだなんて、夢にも思わない。誰だって、人を驚かせるような何かを持っているかもし
れないのにね」
「ははは。だからって、一緒に育った実の妹が…………なんて、誰にも想像なんて、さ。
できるわけないよ」
久人の正直な意見に、父はお茶をすすりながら苦々しく笑う。
「そう、だな。僕もつい最近まで気がつかなかったんだ」
父の奇妙な言い回しに、久人は首を傾げる。
「うん? どういう事だよ、それは。上手いと思ったから他人に見せようとしたんじゃな
いのかよ」
「まあ、そうなんだけどさ。久人と違って、僕は家で、魅音のギターをずっと聴いてたん
だよ? 本当に毎日毎日、ね。だから、遅々とした、けれども大きな変化に気がつかなか
った」
「それなら、どうして気がついたんだ?」
父は口を離した湯のみを指で遊びながら、視線を落とし応えた。
「仕事場でね。やってくるプレイヤーを聴いたから。聴いてしまっていたから、かな。初
めは、最近は刺激的なギタリストが居ないな、くらいにしか思ってなかったんだよ。でも、
そうじゃなかったんだ。彼らだって素晴らしいプレイヤーの筈。それなら、どうして良い
と感じないのか。もしかしたら、僕の娘は、凄いギタープレイヤーなんじゃないか、って
ね」
優しさの滲む、穏やかな視線が久人を捉える。
久人は父を、同じような目で見た。
「なるほど、な。自分ではもうわからないから、誰かに聴いてもらおうって事か。だから、
一回だけ、って」
「うん。でも、ここまで反応があるなんて、僕自身も考えてなかったんだ。反応が多かっ
た事も驚いたし、実際に何人か、レコード会社のスカウトマンらしき人間からもメッセー
ジがあった」
久人は小さく噴き出し、ちらりと父を見た。
「その中に、俺も含まれてたんだぜ?」
「ははは…………そうだったのか。まあ」
父が急須から茶を継ぎ足し、それを置いた後、息を吸う。
「本当にギタリストとして活動できるだけの能力があるなら、久人がきっと目をつける筈
だ、って。まさか、こんな早く…………なんて思わなかったけどな。それに、あの子の性
格からして、久人以外の人間には任せたくなかったんだ。だから、顔も知らない人間から
の勧誘は全て無視してるのさ」
納得した様子で、久人は何度も頷いた。そして、この、穏やかに見える父の計算高さに
思わず邪悪な笑みを浮かべた。
「全く…………全くやられたぜ。まんまと掌の上で遊ばれてたのかよ」
結局、社長の言うとおりになってしまったと、自嘲気味に頭を掻いた。そして内心、や
はり父なのだと諦観する。父も、久人にあわせるように口を閉じ、お茶をすすった。
僅かな静寂のひと時を終わらせたのは、背後から掛けられた母の声だった。
「ねえ、久くん。今日はどうするの? 魅音が帰ってくるまで返事は聞けないし…………
何か、予定はあるのかしら?」
おっとりとした母の言い回しに、久人は微笑を浮かべる。
「今日は、この辺を散歩したりしようかな、って。仕事に必死だったせいで碌に帰ってな
かったし、どんな風になってるのか気になるからさ」
父の、「この親不孝者め」などという茶々は、華麗に無視した。
「そう」
母は同じように、穏やかな様子で短く応える。そして、やはり同じように、穏やかに笑
って見せた。
最後の一口を飲み込むと、久人の湯のみが空になる。
「よし…………それじゃあ、行ってくるかな」
久人は立ち上がり、玄関へ向けて歩き始める。母は僅かに頷き、父は自分の見ていた新
聞へ目を落としていた。
移動した玄関で、すっかりくたびれた自分のスニーカーへ足を滑り込ませると、玄関の
扉へ手を掛けた。
ふと振り返り、いつの間にか出てきていた母と目が合う。
「行ってきます」
扉を開けて家を出発する久人を、母は手を振って送り出した。
「うわあ…………」
家の小さな門を開け、顔を上げた先には、見たこともない家が立ち並んでいた。元々、
倒産した大きな工場跡だったそこは、たった3年の間に住宅地へと姿を変えていた。
久人はノスタルジーを感じざるを得ない。子供の頃はそれが当たり前で、好きなのか、
など考えた事もない。しかし、知る風景が無くなって初めて、それが好きだった事を思い
出すのである。
「ふう…………そうか。まあ、そうだよな」
しかし久人も、大人へ近づいている自覚はあった。理不尽に感じていたことも、いろい
ろな都合が絡んだ結果であると理解もできるようになってしまっていた。
それでも消えない寂しさを感じながら、高校生であった頃の通学路を辿る。それは、久
人が最も多く目にした景色で、最も変化を感じる道程だった。
ぼんやりと辺りを眺めながら、笑み、懐かしむ。消えた景色もあれば、時間が止まった
ようにそのままである場所もある。久人は見たことのある建物や自然を目にするたび、気
持ちが解れていった。
「う、うおうっ!」
気ままに歩をすすめる久人だが、曲がり角から出てきた小さな少女が彼へ衝突する。可
愛らしい、短い悲鳴を上げ、その場でよろける少女。体重差もあってか、相手のはよろめ
き、久人の身体へ抱きつく。
相手が小柄な事もあり、それ以上体勢を崩さないように、久人はそっと身体を支える。
「ご、ごめん。大丈夫?」
相手にも言えることだが、注意力散漫であった責任は年上の自分にあると考え、先に謝
罪する。
しかし、久人が優しく覗き込んだ青髪少女の顔は、血の色も淡いといわんばかりに赤く
染まっていた。視線を右往左往させ、身体を強張らせた少女は、その場から微動だにしな
い。
「あ…………えっと。突然触ってごめん――」
「この変態がああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
青髪の少女を何とか落ち着けようとしている久人の顔面に、格闘競技者も真っ青のハイ
キックが飛来する。受ける体勢が整っていなかった事もあり、久人の身体は投げ捨てられ
た人形のように吹き飛び、未だ収集の行われていない可燃ゴミの山へ突っ込む。
「何だ。何が、起こった」
混乱する脳と、激しい痛みをそこへ送りつける鼻や首筋。久人はゴミの山から上体を起
こしてたっぷり4秒間、その場に固まり、状況を整理する。
自宅から朝の散歩へ出掛ける。
曲がり角で少女がぶつかってくる。
可燃ゴミから身体を起こす。
「どういう事だ」
状況整理を行っても理解が追いつかない久人は、視線を漂わせた。
ふと、左手前方で揉めている様子の少女二人が目に映った。
「エリカ、待って」
「ま! た! な! い!? アンタ危ない所だったのよ? 私の足が遅れたら、どこか
暗い所に連れて行かれて乱暴されてたかもしれないのに! どうしてそんなに暢気でいら
れるの?!」
先程まで目にしていなかった事から、揉めているらしいうちの一人、金髪のツインテー
ルを靡かせた少女が犯人であると予想し、久人が上体を起こし二人へ近づく。
しかし、接近していくと金髪少女の鋭い碧眼が久人を睨みつけた。
「アンタまさか、二人同時にさらうつもり?! こんな朝から大胆な奴ね!」
「はあ?! さらうとか…………何の話だよ」
ため息交じりに話す久人を、尚も青い瞳が睨み続けていた。
金髪が揺れ、少女が鼻で笑う。
「フン! 性犯罪者は皆そう言うのよ。男なんてどうせ、女を性欲の捌け口くらいにしか
見てない癖に!」
酷い決め付けに、久人は辟易した。
「いや、だから…………本当にそんな事」
「絶対に逃がさないんだから! 直ぐに通報してやる! アンタみたいな奴は――」
「違うのエリカちゃん!」
突然発せられた悲痛な叫びに、久人と金髪の少女は声の発生源を見た。
声の主は、久人がぶつかった青髪の少女だった。
「ち、違うって…………」
「この人は、私がぶつかって転びそうになった身体を支えてくれたの。いやらしい事は何
もされてないわ。エリカちゃんの早とちりよ」
エリカと呼ばれた金髪少女は、狼狽しながらも久人へ人差し指を突きつける。
「で、でもね柚姫! こいつがアンタの身体をまさぐりたくてやった事かもしれ
ないんだよ?!」
青髪の少女、柚姫は静かに首を振る。
「多分、違うと思う。私の背中を支えてくれ、た時、凄く気…………を遣ってくれていた
のがわ……かったから」
柚姫の指摘に、久人は驚いて見せた。実際に数度、アイドルの現場を手伝った時期があ
った久人は、怪我をさせないよう配慮する癖がついていたのである。
猪が猛進するかの如く鼻息を荒げていたエリカも、柚姫の言葉に勢いを失っていた。
「ア、アンタがそう言うのなら…………まあいいわ。けど!」
エリカの目が、再度鋭く煌く。
「もう二度と近づいてこないでよね! 柚姫、行こう!」
言い捨てるなり、早足でどこかへと歩き出すエリカ。
「何なんだよ…………」
納得できない間に終わってしまった事へ愚痴を零すも、目の前に柚姫が立ったままであ
る事に気がつき、視線を合わせた。
「あ、あの。ありがとうござい、ました。エリカちゃん、の、事はごめんなさ、い」
目を伏せたまま、たどたどしく話す柚姫に、久人は苦笑した。
「まあ正直納得いかないけど…………いいよ。小さな子が怪我したら大変だからさ」
その一言に、柚姫は顔を赤らめ、鞄を持つ両手が落ち着きなく動く。
「あ、あの――」
「柚姫! 早くしなさい!」
口を開きかけた途端、エリカから催促され、口を止める。
小声で「失礼します」とたどたどしく口にすると、エリカを追いかけてその場から離れ
ていった。
その場に残された久人はふと冷静になり、身体がゴミで汚れていないか確認する。その
日が生ゴミの収集日でなかった事が幸いだった。
しかし、その場を離れようと歩き始めた瞬間、足が空中で制止する。
「アレ? この町って…………こんなに殺伐としてたっけ?」
初日から遭遇した災難に、久人は残りの休暇に不安を覚えた。