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チャプター 02:「咆哮」

チャプター 02:「咆哮」





「おっ。お帰り」

 久人は笑みと共に、帰宅した妹の顔を見た。久人の妹、魅音と言えば、驚いているのか、

その場に硬直し口を大きく開けている。

「ああ…………た、ただいま。お兄ちゃん、帰ってたんだ」

「おう」

 久人の返事を聞いた魅音は、慌てた様子で2階へ上がっていった。それを眺めながら、

準備が出来ている食卓へ向かい、自分がいつも座っていた椅子へ腰掛けた。他に、誰にも

座られなかったのか、その椅子は久人の好みどおりの癖がついたままだった。

 静かに息を吐きながら、母が用意してくれた夕食を眺める。魚介の刺身に、鯖の塩焼き、

根菜の筑前煮。どれも、久人の好物ばかりだった。直ぐにでも食べたい衝動に駆られたが、

内藤家のルールに則り、妹の魅音を待つ。

 そしてその魅音は、慌てた様子でダイニングへ降りてきた。

「お、おま、たせ。しました?!」

 妹の様子に、久人は苦笑する。」

「ははは……お前、飯食うだけなのにさ。どうしてそんなに挙動が不審なんだよ」

 久人がからかうと、自分の席に就きながら、魅音は顔を紅潮させた。

「だ、だって、その…………久しぶりで、どう話せばいいのか。わ、わからな、くて」

「まあいいや。頂きます」

 どもる妹を無視し、久人は自分の茶碗を持った。家族全員が揃った所で、全員が米のよ

そわれた茶碗を乾杯のように持ち上げ、食事を始めた。

 如何なる時でも、夕食だけは揃って摂ろうという、内藤家のルールの一つである。

「うっ…………うめえ」

 少しだけ薄味の、懐かしい母の手料理に、久人は泣きそうになる。例えではなく、久人

は就職してから、魚や野菜を年単位で食べていなかったのである。

 人並以上に美味い飯に飢えていた久人は、あっという間に米を平らげ、自分の小皿へ分

けたおかずを口へ放り込む。

「ふう。ごちそうさま…………ああ、のんびり食べてくれ。俺はお茶でも淹れてるから」

 自分だけ食事を済ませると、同じように茶碗を頭上に捧げ、席を立つ。その速さに、両

親は苦笑し、魅音は唖然としていた。

 5分にも満たない久人の食事の早さは、最早職業病と言っても過言ではないレベルであ

る。

 キッチンへ移動すると、勘を頼りに急須と茶葉を探す久人。そしてそれは、記憶どおり

の場所に収まっていた。

 湯を沸かしながら、目分量で茶葉をこし網へ放り込み、沸騰した電気ケトルから湯を注

ぐ。

「ああ、そうだ。あいつは確か――」

 濃い目が好きな両親と久人だが、魅音は苦いお茶が好きではなかった。急須の中を覗き、

十分に色がついたと判断すると、魅音の分だけを先に湯のみへ注ぎ、急須と3人分の湯の

みを盆へ乗せる。

 それを持って食卓へ歩き始めると、立ち上がった母と目が合う。

「ごめんなさいね。でも、貴方はお客さんなんだから。はい、頂戴」

「あ……うん」

 笑顔でお盆を受け取ると、それを食卓まで運んでゆく母。反抗的な時期もあったが、や

はり母には勝てないな、と久人は思った。

 自分の席へ戻り、母から差し出された暖かいお茶を受け取ると、改めて妹を見る。決し

て容姿が悪いわけではない。しかし、小さな背と童顔が相まって、17歳になったとはと

ても思えないような容姿である。

 自分の知る、3年前の姿と何も変わっていない事に、久人は思わず噴出した。それを見

た魅音は、久人へ訝しげな視線を送る。

「な、なに?」

「いや…………相変わらず、ちんちくりんだなと思って」

 久人の本音が漏れた途端、魅音は顔を茹で上がらせたように赤らめ、視線を落とす。

「わ、私だって。もっとスタイルの良い身体になりたいよ…………」

 魅音を溺愛する父はもとより、普段は温厚な母すら、困った顔で久人を見ていた。

 その空気に、久人はたまらずフォローを始める。

「ま、まあまあ! ち、小さな子が好きな男だって大勢いるからな! 全然気にする事じ

ゃなかったな!」

 本当かな、とでも言わんばかりに、ちらりちらりと視線を投げてくる妹に、もう一押し

だと追加の弾丸を用意する。

「そ、それにさ! ギターも上手いんだってな? 親父が昼から、お前の事褒めちぎって

たぞ」

 その一言に、色味が引き始めていた魅音の顔が、元に戻る。魅音は酷く興奮した様子で、

父へ身を乗り出した。

「お、お父さん?! 余計な事言わないで! わ、私は別に、う、上手くなんて――」

「いやいや、お前は上手いよ!」

 必死にフォローしていた久人だが、父の自信を持った一言に、邪悪な笑みを浮かべた。

「ほら。音響屋の親父にコレだけ言わせるんだからな。俺にも、是非是非聞かせてくれよ。

うちの会社と契約してもらいたい」

 もう一度からかい始めた久人に、魅音は厳しい視線を向けた。赤い顔のままで。

「お、お兄ちゃんの意地悪! そんな事少しも思ってない癖に!」

 遂に怒ってしまった妹に、久人は自分の頭に手を乗せ、苦笑した。

「わ、悪い悪い。久しぶりだから、どこまでいいのかちょっと思い出せなくてさ」

「少しでも駄目!」

 立場が逆転し、腰に手を当て主人公を見る魅音に、久人はヘコヘコと頭を下げる。

 その光景を、両親は微笑ましく眺めていた。

「…………でも、さ。本当に、親父がここまで言う事って滅多にないからさ。一度聞きた

いな、魅音のギター」

 からかいのない、久人の正直な言葉に、魅音は息を呑み、視線を落としながら、椅子へ

腰掛け直した。

 そして、両手の指先で遊びながら目を右往左往させる。

「そ、そんなにいいものじゃない、し。そ、それに、その…………恥ずかしい、し」

 恥ずかしがる妹に、久人は声を出して笑う。

「いいっていいって。誰でも最初は上手く弾けないんだからさ。下手だから、とか、変だ

から、なんて理由で笑ったりしないさ。俺だって、一応その道の人間なんだから」

「だ、だから…………恥ずかしい……のに」

 久人と目を合わせず、辛うじて聞き取れる程度の声で呟く魅音。中々首を縦に振らない

魅音に、久人は父へ視線を移した。

 仕方がない、とでも言わんばかりに、父は自分の前髪をかき上げた。

「魅音。一度、久人に聞かせてやってくれないか。僕は魅音のギター、本当に上手いと思

うから」

「で、でも…………」

 拒否する魅音に、父は不敵に笑む。

「もし、弾いてくれたら。魅音が欲しがってたあのアルバム、手に入れてくるぞ」

 父の一言に、魅音はバネ仕掛けの人形のように視線を跳ね上げた。

「う、嘘だよね? …………だってアレ、輸入量が少なくてもう売ってるところがないん

だもん。インターネットでも散々調べて――」

「実はね。輸入業やってる僕の友達に取っておいて貰ってるんだ。ただ、限定盤は数が少

ないから、一枚しか確保できなかったけどね」

 魅音は、眉をひそめ、頬を膨らませた。

「お、お父さんだけ……コッソリ買おうとしてたんだ」

 娘から向けられた厳しい視線に、父は視線を落とし、自分の頭を撫でて見せた。

「ご、ごめんごめん。だけど…………それを譲る代わりに、久人に聞かせてやってくれな

いか」

 父からの要求を聞いた魅音は、頭を動かさず、目だけでチラチラと久人を見た。化粧気

はないながら、その仕草も相まってコケティッシュな雰囲気を持つ妹に、久人も僅かに赤

くなる。

「わ、わかった。だ、だけど…………一回だけ、だからね」

「おう。ありがとうな」

 椅子から立ち上がった魅音に続き、久人は2階へと上がっていった。実家の2階は子供

部屋が二つと、両親の寝室がある標準的な構造である。階段を上り、右へ伸びる廊下の右

手に、魅音の部屋はあった。

 部屋の前へ到着した魅音が振り返り、頭一つ分、下から、上目遣いで久人を見た。

「あ、あんまり綺麗じゃないから。笑わないでね」

「はは。いいっていいって。気にするなよ、そんな事」

 小さな声で頷き、部屋のドアを開けた魅音は、室内へ入っていった。久人もそれに続き、

妹の部屋へ入る。

 室内は、暖色系の柔らかな雰囲気を持つ、少女然とした雰囲気の部屋だった。綺麗では

ないと表現していた魅音ではあるが、整理された部屋を見渡した久人は、それが兄弟には

必要ない社交辞令的な断りだと直ぐに理解した。

 そして、部屋の隅、左角に立てかけられていたのは、自分が彼女に譲ったギターである。

魅音はそれを手に取り、ストラップを肩に掛ける。

「へえ…………」

 久人は、一連の動作を眺め、感心した様子で頷いた。魅音が、思った以上にギターへ慣

れている事に対する感心である。

「ど、どうぞ」

 そして、ギターを担いだままクローゼットから小さなスツールを出し、それに腰掛ける

よう促す魅音。されるままに、久人はそれへ腰を下ろした。

「………………えっ?」

 顔を上げた久人は、ベッドへ腰掛けた魅音を見た瞬間息を呑む。

 フラッシュバックしたのは、穴が空くほど見続けた、あのギター少女の部屋の光景。完

全に同じではないため確証は持てないものの、一変して、落ち着いていた心臓が強く脈打

ちはじめる。

 目を見開いた久人の様子を気にしてか、魅音は目を伏せたまま、穿いているスカートの

裾をしきりに気にしていた。

 お互いに目が合うも、久人は一言も口を開かない。ただ、魅音へ鋭い眼光を向けている

だけである。

「そ、それじゃあ…………始めます」

「ああ。頼む」

 恥ずかしがりながら、魅音は掌よりも一回り大きなアンプの電源を入れる。そして、弦

へのタッチノイズや、空ピックで音量を調整し、顎で拍を取りながら静かにコードを押さ

える。そして、軽やかに振り下ろされた右手が弦を弾くと、安物のアンプからギターの音

が発せられた。

「あ、ああ…………?!」

 久人の思考が停止する。否、思考する事を許さない。音の濁流が、久人の身体を、精神

を押し流し、かき乱す。音塊による暴力が、耳を、意識を翻弄する。

 圧倒的な威圧感。

 しかしそれだけではない。思考力を削り取っていたモノの正体は、何も考えられなくな

るまでに強烈な音。それによって久人の脳からあらゆる麻薬成分が噴き出し、刺激された

神経系が滅茶苦茶な感触を身体中へ走らせる。それらが鋼糸のように四肢を縛り上げ、指

先、声帯すら。

 微塵も動かせない。

 数多のプレイヤー、久人本人も目指した、ギタートーンの、一つの到達点。

 音による空間掌握。

 久人が固まっている間にも、魅音はギターを弾き続けていた。先程までの恥ずかしげな

様子は一切なく、ギターを持った事でスイッチが切り替わっていた。

 自然に、流れるように。右手がその場所にあるべきビートをかき鳴らし、それに追従す

るように、左手が上下にスライドする。

 久人と部屋の空気は、その主に完全支配されていた。

「――にいちゃん。お兄ちゃん?」

 久人が意識を取り戻したのは、演奏が終わってから14秒後だった。

「い、いくらつまらなかったからって。考え事するのはちょっとひどいな」

 魅音に話しかけられた事で思考力を取り戻し、金縛りが解け、胸の奥から湧き上がった

衝動が、身体を動かした。

「きゃあ! な、何? 何? 何?」

 久人は息を荒げ、ギターを担いだ妹の肩を掴みベッドに押し倒した。両肩を押さえたま

ま、覆いかぶさるように魅音へ顔を近づけた久人は、興奮した様子で口を開く。

「魅音! 頼む! うちの会社に来てくれ!」

 衝動的に魅音へ迫る久人。しかしそれは、魅音の平常心を崩壊させるに足る行動だった。

「ちょ、ちょっと待って!? 意味わかんない! と、とと……とにかくどいて!」

「あ…………ああ……」

 現状を確認し、威圧的であったかもしれないと反省した久人は、ゆっくりと身を引き、

妹の身体から手を離す。兄が離れた後も、魅音は顔を真っ赤に赤らめたままだった。

 途端に気まずくなった二人は、視線を落としたまま口を噤む。

 重い空気のなか、先に口を開いたのは魅音だった。

「――そ、それで、さ。会社に来てくれ……って?」

 魅音の声に、久人は顔を上げ、相手の顔を見る。そこには、声は発したものの、身をよ

じりながら、視線を漂わせる妹の姿があった。

「あ、ああ。それは、さ。俺の勤めてるレコード会社の、契約アーティストになって欲し

いって事だ」

「…………へ?」

 素っ頓狂に応えた魅音は、首を傾げた。そして、その意味を理解し、眉をひそめた。

「それって、つまり…………私にプロの演奏者になれ、って事?」

「そうだ」

 ようやく久人を見た魅音の目には、激しい失望感が漂っていた。

 魅音が、大きくため息を吐く。

「お兄ちゃん。からかってるなら、私だって怒るよ?」

「からかってるわけじゃない! 俺は本心で――」

「もし本心だとしたら、それこそ残念だよ。今の音楽業界がどれだけ厳しいかくらい、私

だって知ってるつもりだよ? お兄ちゃんわかってる?」

 久人は、苦笑いを浮かべながら自分の後頭部を掻いた。

「俺もわかってるつもりだぞ? 一応業界人だし」

 魅音は口を開き、焦燥感を露にする。

「そ、そうでした…………で、でも。どうして私なんか」

 久人は苦味を超越した、空笑いで自嘲する。

「実は、さ。俺がずっと探してた天才少女がいるんだ。初めて見た瞬間、『ああ、こいつ

はスゲービッグなギタリストになるな』って思った。そいつの映ってる動画を、俺は毎日

毎日、画面に穴が空くくらい見てたんだ。こいつは絶対に俺が捕まえたい、ってさ………

…それが今、俺の目の前に居る」

 魅音の両頬が、燃えるように赤く紅潮した。

「うそ、うそ、うそ!? お、お兄ちゃんまさか! アレを見たの?!」

「ああ、見たよ。何回も」

 即答する久人に、魅音はギターを持ったまま自分のベッドへ顔を埋める。身をよじり奇

妙な声を出している事から、妹は恥ずかしがっているのだと判断する。

「ははは。お前、そんな恥ずかしがる事ないだろ? こんなに弾けるのに」

 久人は純粋に賞賛しようと笑っただけだったが、それを嘲笑と取ったのか、魅音が鋭い

目つきで顔を上げた。

「う、上手いわけない! それに、ちゃんとできてるかどうかなんて関係ないよ。 知っ

ている人に見られるだけで恥ずかしいもん」

「でも、動画を投稿したって事はさ。誰かに見てもらいたかったんだろ?」

 何とか説得しようと言葉を繰る久人だが、魅音は力一杯首を振る。

「ち、違うの。お父さんがどうしても、って言うから。一回だけって約束で…………」

 魅音の一言に久人は全てを察し、恨めしく笑った。

「親父め…………さては、全部わかってやがったな」

 ブツブツと恨み言を呟く久人だが、はっと我に返ると、本来の目的であった魅音のスカ

ウトを再開する。社運が掛かっている、という事もあるが、久人は純粋に、魅音の演奏を

もっと聴きたかった。

「なあ、魅音。一度だけでも、やってみるつもりはないかな。それに専念しろとは言わな

いし、学業だとか、他にやらないといけない事が疎かにならないようにするから」

 魅音は俯き、両膝の上に乗せられた自分の両手を握る。

「そんなの…………無理だよお兄ちゃん」

 頑なに拒否する魅音。

 しかし、押す久人にも、強い意志があった。通常ならば使わないような脳の力を総動員

し、説得の台詞をはじき出す。

「…………それじゃあ、さ」

「うん」

 大きく深呼吸する。

「お前は、あの動画についたコメント。見たことあるのか?」

「そんなの、怖くて見られないよ…………自分の映ってる姿だけでも恥ずかしいのに」

 久人は、縮こまる妹の肩へそっと手を置いた。

 手が触れた瞬間、魅音の身体が大きく強張った。

「一度見てみるといい。殆どが、お前への賞賛ばかりだ。全員が全員って訳じゃないけど

な。それに、俺と同じような事を考えてる奴だってちらほら居たんだ」

 久人の言葉を聞いても、魅音は俯いたままだった。それでも、久人は忍耐強く、沈黙を

守り続けた。

 ヒスノイズしか聞こえない、静かな部屋。

 小柄な魅音が小さく息を吸い、上目遣いで兄を見ると、顔を赤らめたまま静かに呟いた。

「…………少しだけ、考えさせて」

「うん」

 返答も静かだった。久人は、ここで舞い上がってしまい空気を壊す事は避けたかった。

 腰掛けていたスツールから静かに立ち上がると、部屋のドアを開け、外へ半歩身体を出

す。

 そして、頭だけで、僅かに振り向いた。

「ずっと…………待ってるからな」

 まるで、恋人への囁きのような久人の声。

 魅音は咄嗟に視線を落とし、目玉を右往左往させる。

 それ以上言葉もなく、バタリ、と、ドアの閉じられた音が響く。

 一人になり、縮こまった魅音が、床を見つめたままギターを抱きしめていた。





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