チャプター 01:「秘事は睫」
チャプター 01:「秘事は睫」
動画の少女を見つけてから2週間。結局、その日から有効な情報は何も得られず、久人
は探す手段を模索し続けていた。当然ながら動画の投稿者にアポイントメントを取ったが、
久人のアカウントどころか、動画のコメント蘭にすら返信がない。動画のIDを頼りにそ
れらしい情報を検索してみるのは勿論の事、類似する検索結果まで丹念に調べ、僅かな手
掛かりでも見落とさぬよう、必死に正体を探る。
それでも、有効な情報は一切手に入らなかった。
インターネットの進歩によってあらゆる情報が手に入るようになった現代は便利と言え
るが、莫大な情報の中に自分の欲しいものがあるかどうかは別問題である。幾ら探しても
正体の見えない少女に、久人はどうするべきか途方に暮れていた。
そして、根を詰めている事を察した社長が有給を取って帰省でもしてみたらどうだと言
い出し、久人もその意見を承諾する。
しかし、どうしてもギター少女を獲得したかった久人は、帰省する準備を持ったままオ
フィスへ顔を出したのである。目的は、社長の伝手から得られたかもしれない情報である。
「しかしまあ…………内藤君も熱心というか、何というか。有給使って帰省ってのに……
……何も、休みの日に顔を出さなくても、さ。根を詰めすぎてるからこそ、有給を消化し
て欲しいって言ったのに」
「す、すみません」
苦笑しながら話すのは、白いワイシャツを着た角刈りの男。久人の上司であり、キクチ
レコード代表取締役の男、菊池緋人である。
菊池社長は恐縮して見せる久人に手を挙げ、更に笑う。
「いやいや。内藤君のお陰で、畳む覚悟をしていた会社を存続させる事ができたんだ。君
のやる気はとても頼もしい…………ああ。彼女、例のギター少女の情報だったね」
「はい」
もしなにも有用な情報が無い場合、真っ先に否定の意思を表示するのが菊池という男だ
った。それが無いとなると、何か手掛かりが得られたのではないかと期待を膨らませた。
手を組んだ社長が、静かに息を吸う。
「……これは、漠然とした情報なんだがね。波形を専門に扱う人間に音を聴いてもらった
結果、どうやら動画の投稿主は、音の知識を十分に持ったプロである可能性が高いという
話だ。こっちの世界でミキシングやマスタリングを行うような人間か、コ
ンサートホールで勤めるような音響技師か。どちらにしても、音を綺麗に、最適な状態へ
加工する技術を持った人間である可能性が高い」
社長からもたらされた情報に、久人は机に身を乗り出して喜ぶ。
「凄いじゃないですか! なら俺は、早速その手の知り合いに――」
「お、おい内藤君。君は今日から休暇なんだぞ? いや…………むしろ」
苦笑いを浮かべていた社長が真剣な表情で手を組み直し、静かに久人を見た。
「君は少々、仕事に入れ込みすぎる。今日から1週間、キッチリ休暇を取ってくれ。それ
まで、仕事に関わるのは禁止だ。勿論、あのギター少女を探すのもな」
「ま、待ってください! 折角手掛かりが掴めたのに! 今やらなくて……いつやるんで
すか! もし俺が休んでいる間にどこかのスカウトマンが――」
更に熱くなった久人は、社長に噛み付くような勢いで顔を近づける。目上、それも、社
の長に対する態度としては失礼極まりないものだったが、菊池はそれに対して咎めようと
はしなかった。代わりに、久人の前に手を挙げ台詞を制止する。
「だからこそ、だよ、内藤君。君は今まで十分に頑張ってきた。だが、仕事ばかりで身体
や心を労わっていないんじゃないのかい? そのままでは、いつか倒れてしまうぞ」
社長の指摘に、久人は閉口せざるを得なかった。先日までの仕事内容から、それは激務
と表現して差し支えないような過酷な労働を強いられてきただけに、開放された瞬間には、
僅かな安堵を感じたのも事実である。
しかし今は、自分の身よりも欲しいものが出来てしまっていたのである。
「それでも…………俺は、彼女を何としてもこちらの世界に、うちの会社に迎え入れたい
んです。それまでは――」
「駄目だ」
有無をいわせぬ社長の一言に、久人の口は開いたまま言葉を発する事ができない。たっ
た二名の会社ではあるが、菊池という男は社長に足る、久人を黙らせるだけの威厳を持っ
ていた。
「今までの君の仕事ぶりをみていればわかるさ。もしも目当ての子をスカウトできたとし
て、だ。君はそこで満足するのかい? いいや、しないね。次はそれに相応しい仲間を、
その次は、その子たちが立つに相応しい舞台を…………際限がない。それこそ、過労で倒
れるか、マネジメントしきれずに空中分解するか、だ」
社長の言い回しに、久人は用意していた台詞を捨てざるを得なかった。確かに、今まで
担当していたバンドが解散した原因の一端は自分にあると十分に理解している。
鋭い視線を向けてくる久人に、社長は苦笑し、ため息交じりに口を開く。
「ふふ…………そう、怖い顔をしなさんな。こればかりは時の運もある。内藤君がのんび
り休暇を取っていても、どのレコード会社も捕まえられないのさ。もし…………その子が
内藤君の下にやってくる運命ならば、ね」
「で、ですが」
言いかけた台詞も、再度社長の右手で止められた。いつもならば、新米である久人の話
にも耳を傾けてくれる菊池社長だが、今日は全く聴く耳を持たない様子である。それだけ、
自分の身を案じてくれている事は嬉しいが、今はその気遣いすら悔しかった。
「それに、ね。実は、俺はもう、この会社を畳もうかと考えていたところなんだ。どうや
ら、僕は社長は向いていない人間のようだと…………最近ようやく気が付いてね」
「そ、そんな」
呆然とする久人に、社長は苦笑しながら続けた。
「だからさ。もう、仕事の事なんて忘れて、ゆっくりしてきて欲しいんだ。もし…………
内藤君が仕事に戻ってきてくれた時、その女の子を捕まえてうちへ来てくれるようなら。
最後に、もう一回頑張ろう」
「は、はい……それでは、失礼、します」
労いの言葉を掛け送り出してくれた社長に頭を下げながら、久人は事務所を後にする。
その脳内には、会社を止めると言い放った、社長の声だけが反響していた。
「クソッ……なんだよ、それ。あんまりだぜ社長」
ほぼ無意識に歩いていた久人だが、過酷な仕事を経験している為か、その身体は迷いな
く目的の駅へと到着していた。口から悔しさを吐き捨てつつ、身体だけは機械の様に切符
を購入し、目的の電車へ乗る。
平日の昼。乗客もまばらな車両へ乗り込んだ久人は、人の少ない座席へ腰を下ろし、窓
の外を眺めた。ほどなくして車両が発車するも、ぼんやりと風景を眺める久人は、風景の
変化を楽しめるような心境ではなかった。その脳内では、入社してから現在に至るまでの
仕事の風景が流れていたのである。
食事すらまともに取れないスケジュール。
山積する手続き書類。
メンバー間の諍い。
無力感。
「はあ…………」
負の感情にまみれたまま、用意していた飲み物にすら手をつけず、ただただ、陰鬱な気
持ちが溜まってゆく。
「――ああ、ここか」
実家の最寄駅であるアナウンスが耳に入った事は幸いだった。急いでボストンバッグを
担ぎ、駅へ降り立つ。
幽霊のように改札を通った久人は、3年ぶりに目にする故郷の風景に、不可思議な感動
を覚えた。
「は……ははっ。なんていうか。何なんだろうな」
未だ、空き地や田畑が見える生まれ故郷は、久人の気持ちを少しだけ軽くした。心の弛
緩から、久人は気を取り直し、確たる足取りで生家へと歩き始める。
見慣れていた(・・・・・・)道を数分歩くと、生まれ育った久人の家へ到着する。
「変わって、ないな」
引け目を感じながら、そっとインターホンを押す。
「はあい。あら…………おかえり」
顔を出したのは、久人の母だった。社会へ出てから一度も連絡しなかった不精の息子に
も、優しい笑みを返す。
「うん。ただいま」
玄関前の小さな柵を開け、開かれたドアをくぐる。久しぶりに嗅ぐ実家の匂いは違和感
を感じたが、それもすぐになくなり、久人は懐かしい気持ちになった。
母に続き、玄関から一直線に伸びるフローリングの廊下を抜け、自宅のメインルームで
あるリビングへ通される。
そこには、ソファへ腰掛け、雑誌を読む父の姿を見つける。
久人の気配に気が付くと、振り向き、愛嬌のある笑みを作った。
「おっ…………お疲れさま」
「うん。久しぶり」
不精な息子にも、何も変わらない応対。久人は改めて、今日は帰って良かったと感じ、
自然な笑みを浮かべる。
「疲れてるだろう? まあ、座りなよ」
「うん」
父に促されるまま、座りなれた、少し汚いソファへ腰を下ろすと、何とも言えない安堵
感がある。久人は、学生であった頃に、何か悩み事があると決まってリビングへ降り、そ
こへ腰掛けていたのである。モケット地のソファに深く掛けながら天井を仰ぐと、全身の
筋肉が緊張を忘れていった。
「仕事。大変だっただろう?」
父からの質問。
「うん、まあ。でも…………楽しかったよ」
そうか、と、一言答えたきり、父は何も聞いてこなかった。大変であっただろう内容や、
何故、過去形になっているのかも。
そして久人も、それが無粋であると、気になっても聞いてこないのが父だとよく理解し
ていた。
内心、親父には敵わないなと苦笑する。
「はい、お茶。どうぞ?」
「ああ。頂きます」
つい、口から出てしまった敬語に恥ずかしくなるも、父や母は全く気にしていない様子
だった。背中を預ける背もたれから身体を起こし、母の入れた緑茶を啜る。
玄米の良い香りに、久人は感嘆のため息を漏らす。夏にも関わらず、熱いお茶からは湯
気が立ち上る。数口飲むと、湯飲みを下ろし、ぼんやりと湯気を見つめた。
気持ちが落ち着いた事で、一番に思い浮かんだのは仕事の事だった。社長に仕事中毒だ
と言われた事もあながち間違いではないな、と久人は自嘲した。そして、父が音響技師と
して地元のコンサートホールに勤めている事から、何か知っているのではないかと、内容
を話してみる気になった。
「あの、さ」
「……うん?」
ちらりと視線を上げた父に、久人は1ヶ月前に突如現れたギター少女を探している事を
話す。
久人の説明に、父は何度も相槌を打ち、口を開く。
「…………そう、だな。知り合いにミキシングが得意な奴が何人か居るから、そいつらに
話を聞いておこうか」
「ほ、ほんと? ありがとう、親父」
「それぐらい、いいって」
父の言葉を最後に、再度会話が無くなる。しかしそれは、久人にとって心地良い静寂だ
った。
ようやく冷めてきた湯飲みを持ち、口へ近づけると、ふと、父が視線を上げた。
「そういえば。魅音もギター上手いぞ? あの子も、結構なもんだと思うが」
「へえ………………魅音が、ねえ」
父の口から零れた妹の名前に、久人は興味が無さそうに答えた。確かに、自分が高校生
の頃使っていたギターを譲った記憶はあった。しかし久人には、音楽に大して興味のなか
った妹が上達していると想像できなかったのである。
「お前にギター貰ってから、ずっと夢中なようだ。バンドもやってるみたいだしな」
「へえ」
父の評価に、久人は意地の悪い笑みを浮かべた。自分の父親が妹を溺愛している事を知
っており、それを種に、久人は妹をからかっていたのである。
「そこまで言うなら。魅音にじっくり、聞かせてもらおうじゃないか」
邪悪な笑みを貼り付けた久人に、父は苦笑した。