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チャプター 00:「理想と現実」

チャプター 00:「理想と現実」





「すう………………はあ」

 小さなレコード会社に勤務する男、内藤久人は大きなため息を漏らした。電車内が空い

ている事もあり、その音は車両内へ静かに響く。電車の走行音以外はほぼ無音の車両内で、

久人は背中を丸めて座席に座り、視線を床へ落としていた。彼の悩みは世間から見ればな

んてことのない、会社へ抱いていた理想と現実の食い違いである。レコード会社へ入り、

様々なアーティストをプロデュースする事で音楽への夢を叶えたい、などと、少年のよう

な夢を見ていた久人にとって、それはあまりにも地味で過酷な毎日だった。プロデューサ

ーやスカウトマンと言えば聞こえはいいが、中小のレコード会社にもなれば、担当アーテ

ィストのスケジュール管理、関連企業への売り込み、果てには、会場への機材搬入、設営、

撤去までもが仕事になる。ほぼ全ての仕事を一人でこなさなければならず、身体的負荷は

想像を絶するものとなった。

「ははは。まあ、いいか。当分は身体だけでも休める」

 少しでもストレスを軽減させようと、久人は独り言を呟いた。身体が暇であると言う事

は、仕事が無い事を意味する。彼がプロデュースしていた唯一のバンドが先日解散し、久

人が勤める会社は、所属アーティストが一人も存在しない、未曾有の事態へ陥っていたの

である。原因はバンド内での揉め事、音楽性の違いなど、ありきたりなものだった。敏腕

のプロデューサーならばそれもケアできたのかもしれない。しかし、その道に入って僅か

3年、その上、雑務を全て引き受けていた久人がそれらに気を配る余裕などある筈もない。

 結果、バンドそのものが空中分解し、メンバーは新しい道へ別れていった。

「何がやっていけない、だ。クソッタレめ」

 目的の駅へ到着した車両から降りる為、久人は悪態をつきながら立ち上がり、電車のド

アをくぐる。降り立ったホームには、初夏の生温い空気が流れていた。

 慣れた足取りで駅の構内を歩き、改札へ定期券を通すと、霞がかった空を見上げながら

夜道を歩く。少年の頃から身なりだけは正していた久人だったが、夏の空気や、精神的な

息苦しさに我慢が出来ず、胸元のボタンを外し、ネクタイを僅かに緩める。

 久人の借りるアパートは駅から徒歩7分の場所に立っていた。僅かな天体観測で気を紛

らわせながら自宅の扉を開けると、帰り際に夕食を買い忘れていた事に気がつく。だが、

もはや久人には買いに出掛けるだけの気力が残っていなかった。

 玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てると、着込んでいたスーツを手早く脱ぎ捨て、万年床になっ

ている布団の上へ放る。そして、炊飯器をセットしつつ、風呂場へ向かいシャワーを浴び

た。蒸し暑い季節だが、暖かなシャワーを浴びると不思議と気持ちがほぐれる。風呂場は、

俺に残された唯一の癒しだな、と久人は思った。

「ふう…………」

 のんびりシャワーを浴びた久人が脱衣所から出ると、まるで合わせたように炊飯器が炊

き上がりを知らせた。久人は電子音が鳴り終わらない内に蓋を開け、炊き上がった米を丼

へよそう。そして、冷蔵庫から取り出したマヨネーズをたっぷりとかけると、それを勢い

に任せて掻き込んだ。付け合せの惣菜も無い、栄養補給以上の意味を持たない夕食である。

「ふう……ごちそうさん」

 簡素な食事ではあったが、それでも、久人は十分に満足していた。勤める会社の経営が

厳しい事は今に始まった事ではなく、入社した時には既に経営が危うくなっていた。人件

費を捻出する事も難しかった当時、久人は新人という事もあり、給料は生活ができるギリ

ギリのものしか受け取る事ができなかったのである。久人の努力の甲斐あって、会社の経

営も僅かに上向き、ようやく腹を満たせる程度の給料を受け取れるようになっていた。

「ああ、けど。どう…………すっかな」

 しかし、プロデュースしていたバンドがようやくメジャーデビューまで漕ぎ付け、軌道

に乗り始めた矢先の解散。必死にやってきた事が全て無に帰し、会社の経営も入社当時の

状態へ逆戻りしてしまっていた。

 それは、久人の自信を折るのに十分な理由だった。

「ああ、やめよう」

 丼へ箸を放り込み、畳へ仰向けに寝転がってあれやこれやと考えていた久人は、苦笑し

ながら身を起こした。半ば自棄になった事で、彼の心も少し軽くなる。そしてふと、趣味

の動画探しでもしようとコンピュータの電源を入れた。

「さて、新着は……っと」

 元々音楽好きな久人は、動画サイトで新しい音楽を探すのが趣味だった。プロモーショ

ンが閉鎖的な日本とは違い、アメリカやイギリスのアーティストは積極的に新譜を公開し

ている為、それらを目当てに大手の動画サイトを巡回する。自称洋楽マニアの久人は、こ

うして新曲の情報を仕入れていた。

 そして、目的はもう一つある。

「へえ。結構上がってるな」

 呟きながら、新着の動画を順に再生してゆく。一通りの新譜チェックを終えた久人が次

に見始めたのは、アマチュアの音楽家達がアップロードしている動画だった。各々の得意

楽器を手に、好きなアーティストのプレイを真似る。レベルはピンからキリまでだが、そ

のどれもがエネルギーに満ちており、プロのプレイヤーとはまた違った魅力があった。そ

して、もしも気になるようなプレイヤーやバンドが居るならば、そのままスカウトする事

もできる。実益を兼ねた趣味である。

「これ…………何だ?」

 久人がふとクリックしたのは、彼の大好きな洋楽アーティストのギターパートをコピー

したらしい動画だった。カメラが下向きに設置されており顔は映っていないが、身体の大

きさは小学校の高学年程度に見える。対して、持っているギター大人用のものであり、一

昔前の入門用モデルによく見られたタイプ。アンプも抱き合わせで販売されているような

小さなもので、それらを見た久人は、小さく鼻で笑う。プロの音響機器や楽器、アンプを

毎日見てきた久人にとって、それは既におもちゃのような代物であり、本人が如何に優れ

たプレイヤーであっても、その全てをスポイルしてしまうような道具である。他に動画を

アップロードしているアマチュアでも、上手いプレイヤーは決まって最低限必要な良い道

具を持っていた。

 嘲笑しながらも、それらの道具でどれだけできるのか見てやろうと、あえて再生を続け

る。

 しかし、動画に映し出されている本人は緊張しているのか、身につける服の乱れを細か

く直しており、中々演奏が始まらない。

「チッ。早くしろよ」

 悪態をつきながらプレイを待っていた久人だが、いつまで経っても始まらない事に苛立

ち、遂に他の動画へ移動しようとマウスポインタを移動した。

 その瞬間。

「なっ…………にっ!?」

 旧式のコンピュータに搭載されている安物スピーカーから飛び出したのは、耳を疑うよ

うなギターサウンドだった。それを耳にした瞬間、久人の思考は停止する。

 自分の知っている曲。自分もコピーした曲。多くのプレイヤーがコピーした曲。驚く要

素は少ない筈である。しかし久人は、名も知らぬ少女の演奏する曲に釘付けだった。胸を

突き抜けるような痛快なディストーションサウンド。それは、あらゆる賛美を駆使しても

不足するだろうと感じさせる程素晴らしい音だった。久人も、意味の無い言葉が口から零

れ落ちるのみで、頭の中から全ての思考力が吹き飛ぶ。

「あ…………終わった、のか」

 曲の終了に気がついたのは、動画の再生が終わってからたっぷり7秒経った後。ゆっく

りと戻ってきた思考力が、次に行うべき行動を思案し始める。

 やることは一つしかない。

「な、何なんだこいつ!? 一体誰だ? プロのミュージシャンか?!」

 我に返った久人は、アップロードされた僅かな情報を頼りに、謎のギター少女の情報を

必死に探した。もし、どの会社にも所属していないギタリストならば、絶対に取得したい。

彼女の成功を、間近で見ていたい。

 そして、何よりも。

「こいつの…………彼女の演奏を、生で聴いてみたい!」

 その日、久人の憂鬱な未来に確かな希望が見えた。





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