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富樫君編 11




翌日、早朝から出てきて、とにかくがむしゃらに働いた。

お陰で残業はほとんどなく、6時半までにはスタバに到着できそうだ。


俺はホッとして、肩の力を抜いた。

冬の寒さがコートを通して凍み込んでくるほど寒い一日だったのに、額にうっすらと汗が滲んでいるほど体が火照っている。


すでに日が落ちて真っ暗になり街灯と電飾が輝く街を、行き交う人を避けながら黙々と歩いた。

笹原は…瞳は、もう来ているのだろうか?

心臓がバコバコ鳴っているのは、勝手に足が動いて小走りになっているだけが理由ではないだろう。



今日、昼休みに杉田が激励の一口チョコを持って来てくれた。

「糖分摂っといた方が、血行の悪い脳みそに血が巡りやすいかもよ?」って台詞は、彼女なりの励ましの言葉だったのかもしれない。

たとえからかわれたかバカにされたように感じたとしても。


終業間近には、今度は樋口さんが「ま、今日はがんばれ。もし君がダメだったら、僕がもらうから」と背中を叩いていった。

反射的にイライラッときたが、この場合我慢すべきことだろうと思い直して堪えた。




これだけ励まされていると推測されるのだから、確実に結果を残す。

そして、期待以上のものを上げてくる…仕事ではそう考えて努力してきた。

瞳のことは言うに及ばず、だ。

絶対に、誰の目からも明らかなぐらい、誰もが羨むぐらい、幸せにしてやる。

杉田の電話の向こうの灼熱のような関係以上に熱く、樋口さんが神経性胃炎を患うほどに甘い関係を…。




見えてきたスタバのウィンドウに、一人座っている瞳を見つけた。

窓の外に顔を向け、頬杖を付いたまま目を閉じる彼女。

まるで大切な何かを諦めたような表情に、一気に胃が冷たく縮み上がった。



もしかして、手遅れだったのか?

もう、間に合わないのか?


まるで転がり込むかのように、俺は店に飛び込んだ。






オレの顔を見た瞬間、瞳はあんぐりと口をあけて停止した。

…こいつ、どんな時でも驚くとこんな顔になるんだな。

いつもと変わらないところが見つかっただけで、安堵感で体の力が抜けそうだった。



大丈夫。

まだ何も終わっちゃいない。


だから。

絶対に、逃がさない。



俺は気合を入れるべく、コーヒーを買いにカウンターへ向かった。





テーブルに戻ってみると、わずかにショックから立ち直っている瞳はちょびちょびとミルクがたっぷり入ってそうなコーヒーを飲んでいた。

ケーキはまだ食べかけのまま残っている。


…相当苦しんで、いたんだろうな。


目のふちが腫れぼったそうにむくみ、心なしかげっそりした頬に気付き、自分の愚かさを見せ付けられた気分になった。

杉田にどやされるのは当然だ。

俺は胸の痛みを紛らわせるように、コーヒーを口の中に流し込んだ。

殴られて切れた唇に、ちりっとした痛みがしみる。



「どっ、どうしたのっ!?怪我してるよ?」


突然、瞳のほっそりした手が俺に向かって伸びてきた。

どうやら、殴られた後に気付いたみたいだ。

自分がどれほど落ち込んでいても、辛くて苦しくてどうしようもなくても、相手を気遣い、心配してくれる彼女の優しさに触れ、胸が切なくなる。

当たり前のように向けられる心配そうな目と伸ばされる指先が愛しい。


”その綺麗な指先で、優しく触れて欲しい…”


湧き上がる期待に心臓が高鳴る。

なのに、触れようとする直前、びくん、と震えた指の動きが止まった。

瞳は、まるで自分の身体に俺と同じ傷があるかのように、痛そうに顔を歪めた。

届かなかった指の代わりに、彼女の優しさが心のずっと深いところに触れ、痛みが和らいだように感じた。



けれど。


お預けを喰らった犬の気持ちが、今分かった気がする。

正直、痛い場所でも何でもいいから、彼女に触れて欲しかった。

もっと言うなら、自ら手を伸ばし、好き放題に彼女を撫で回したい。

これまで押さえつけていた猛獣が、彼女を求めて暴れ出しそうだ。

俺はぐっと歯を食いしばり、自分の感情を押さえ込んだ。



けれど瞳は俺が怒ったと勘違いしたみたいだ。

目が切なそうに揺れ、ゆっくりと彼女の手が遠ざかろうとしている。


くそっ!

日ごろのポーカーフェイスはどこにいたんだっつーのっ!


俺は逃がさないとばかりに、素早く瞳の手を握った。


柔らかくて小さな手だった。

愛しさが後から後から湧いてきて、心が満たされていく。

こんなにも激しくも優しい感情は、一体どこから生まれてくるのだろう?


怖くなった俺は瞳の温もりを心地よくももどかしく思いながら言った。


「この怪我は……大丈夫、たいしたことないんだ。

 むしろ必要だったし、受けて当然の報いだ。

 だから、おまえが気に病むことなんて何もない」



瞳の頬がぼっと赤らむのを見て、青臭さ丸出しの台詞が勝手に飛び出してしまうほど真剣な自分をさらけ出してしまった事に気付いた。

恥ずかしくなって、勝手に頬が熱くなる。


…向かい合って頬を互いに赤らめるって…一体いくつだよ?


当初の”かっこよく決めるぞ”作戦が、瞳の純粋さの前でもろくも崩れ去ったことを知った。

そして、生まれて初めてつっかえながらたどたどしく、女を食事に誘うこととなったのだ。



瞳の目が期待と喜びでキラキラと光った。

つられるように、俺の口元が緩んだ。



が、次の瞬間、彼女は息を詰めた。

俺は、綾のことを思い出したに違いないと確信した。


”ここまできて、断らせるかっ!”


俺は強引に約束を取り決め、遅々として減らない瞳のケーキを一口で食べてから、彼女の手引いて店を出た。

必死だった。

彼女がうろたえているのは分かっている。

けれどこの機会を逃してしまったら、きっと2人の溝が埋まるには、長い時間がかかることになるだろう。

もしかしたら、埋まらないまま瞳の心からフェイドアウトだ。

それにぼやぼやしてたら、魅力的な彼女は横からかっ攫われてしまうかもしれない。

焦りが焦りを呼び、不安の波が絶えず押し寄せる中、彼女の手の温もりだけを支えに、俺は歩き続けた。



目的地は、電車で何駅か先にある。

俺たちが再会した、記念すべき場所。

ここから全てを始めたいと、柄にもなく感傷的な気分になっていた。


駅のホームに立った時、少し呼吸が乱れた瞳をちらりと盗み見した。

駆け抜けるように駅まで引っ張ったせいで上気した頬と乱れた髪…無性に抱きしめたくなった。


電車に乗ったら、満員なのをいいことに、瞳を柔らかく抱きしめた。

甘く優しい瞳の香りが鼻をくすぐった。

たまらなく愛しくて、全身全霊で守りたくて、耐え難いほど欲情した。


本当は潰れるぐらいに強く抱きしめたい。

瞳の身体の隅々に、俺という証を刻み込みたい。

でも、その前に彼女に話すべき事があるんだ。


俺は必死になって逸る自分を押さえ込んだ。





ようやく目的の駅について、再び強引に瞳の手を握って歩いた。

出来るだけくっついていたかったから、手のひらを合わせるようにして指を絡めた。


時々親指で手の甲をなで、彼女の柔らかさを堪能した。



”コイツはオレの気持ちを、ちゃんと受け入れてくれるだろうか?”…なんて、気を許すとひたひたと押し寄せてくる不安と戦うために。



「…ねぇ、富樫君、どこに……」


瞳は不安そうな目を俺に向けた。

誰も連れていったことのない行きつけの家庭料理の店だと答えようとした。


なのに。

響いてきたのは、あの忌々しい声。


「雄大君っ!」



媚びた甘い声でも、顔は般若のような激しい怒りを隠し持っていることを物語っていた。

いくら彼女が名女優でも、俺の目はもうごまかされやしない。

…ってか、もう飽き飽きしてるからな。



瞳との大切な時間を邪魔されたのには腹が立ったが、丁度いい。

ここでまとめて決着をつけてやる。



俺は冷めた目で綾を真直ぐに見た。

…瞳を恐ろしげに睨みつけているのも気付いた。

まさしく、日本のホラー映画の恐怖そのもの。

まったく……変わらねぇな、昔っから。


「ねぇ…雄大君…今日は私…すっごく嫌な事があって…

 …どうしても雄大君にお話聞いてもらいたくて…。

 そうしてもらえなきゃ、私、立ち直れそうに無いの…苦しくて。

 お願い。いつものお店で相談に乗ってくれない?ね?いいでしょ?」



芝居がかったポーズと純情可憐風な台詞、それに歌うように甲高い声。

なのに、彼女の心の中はそれらの全てに対して真逆だ。


積もり積もった鬱憤と共に、俺の中で何かがぷつん、と切れた。

もう、我慢できない。



俺は腹の中に溜まった怒りを吐き出すために、ふぅ、とため息をついた。



「やめてくれ」


言うと同時に、胸に置かれた彼女の手を払いのけた。

今まではっきりと拒絶された経験のない綾は、心底驚いたような顔をしていた。

そこで、もう一発先制攻撃の爆弾を落としておくことにした。



「俺は、コイツと結婚を前提に付き合ってんだ。誰にも邪魔はさせない」

「な…っ、なんですって!?」



目が飛び出すんじゃないかと思うほど、綾は目をひん剥いて叫んだ。

言葉も出ないほど驚いているのが分かる。

けど…こういう表情って、ホラーマンガでよく出てくるよなぁ?

意地が悪いとは思うが、思いついた途端笑がこみ上げ、何となく気分が良くなった。


少しだけ出来た心の余裕から、俺はちらりと瞳の方に目を向けた。

こっちはぽっかりと口を開いたまま固まっている。

…ん、かわいい。

どっきりを仕掛けた後に見たい顔ベスト1だ。

これからは時々サプライズを用意して、この表情を楽しむのもよさそうだ。


近い未来の予定表に書き込みをして一人で満足していると、綾がパニックなりに正気に返りつつあったらしい。


「何言ってるの!?正気なの!?こんな女とっ!?」



正気かって?

瞳を手に入れたいという欲求が狂っている証というなら、愛し合うカップルは全員手に負えない狂人だ。


こんな女だと?

この一言が一番許せない。

瞳にはそんな呼び名は似合わない。



どす黒い感情が再び俺の中から沸々と湧きあがり、もはや周囲に駄々漏れだ。


「綾…今すぐ彼女に謝れ。そしたら君のその失礼な態度もなかったことにしよう」



こいつを傷つけることだけは、許さない。

俺は綾をまともににらみつけた。


それでかえって冷静になれたのか。

綾はうろたえながらも以前のペースを取り戻し、傲慢にも言い放った。



「…ごめんなさい。でもそれは、雄大君が悪いのよ?

 だって、おじさまもおばさまも私がお嫁に来るのを楽しみに

 してるって仰って下さってたのに、

 突然結婚を前提にしたお付き合いをしてる人が居るなんて…」



…楽しみにしてるのは、お前とお前のお袋だろーが!



「私のことっ!好きって言ってくれたじゃないっ!」



…ガキのたわごとが契約として有効なら、大人になる頃には重婚罪に問われる人間で裁判所はおおわらわだ。




「それはガキの頃の話だろ?大体、君はずっと兄貴に夢中だったじゃないか。

 それに、子供のおままごとのような話を今まで信じているほど、

 俺たちの仲が幼馴染以上に発展したことなど過去一度も無いじゃないか。

 …そうだろ?」


綾は紙みたいに真っ白な顔で、息を呑んだ。

力を入れて噛まれたグロスでツヤツヤと光った下唇にめり込む前歯が、わずかにぎりぎりと左右に引かれている。

ようやく悪い頭に血が巡ってきたようだ。


上等。

やっと本題に入れる。




「ね、あの、2人とも、ちょっと落ち着いて…人目もあることだし、ね?」



戦闘態勢に入っていた俺は、瞳の声ではたと気付いた。

周囲を見回してみると、通り過ぎていく人たちが面白そうにちらちらとこちらを見ている。


これじゃ、瞳が可愛そうだ。

俺は場所を変えることをそっけなく告げると、瞳の手を握って歩き出した。

綾の恨めしげなヒールの音が、背後から響いてきた。












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