富樫君編 10
内心焦れながらも、杉田が口を開くのを待った。
よほど気が立っているようで、未だに肩で息をしている。
どうやら数発は殴らないと気がすまないところを、必死になって1発で我慢しているようだ。
「……あんた、私の忠告、聞いてなかったね?」
奥歯をぎりりとかみ締めながら発せられた言葉は、怒りで震えていた。
よっぽどの事があったのだろうと、俺は眉間に皺を寄せた。
「何のことだ?」
「とぼけんじゃないわよっ!このクソやろうがっ!!
よくも…っ!よくも私に嘘付いた挙句、瞳を傷つけてくれたわねっ!」
「だからっ!何の事だって聞いてんだよっ!」
「ふざけんじゃねーよっ!
アンタ、女と関係ないとか言いながら、裏では結婚の準備進めてたんだって?
この、鬼畜野郎がっ!
あんた信用して瞳を託した私が馬鹿だったわよ!」
「結婚っ!?なんで俺が知らないとこで、結婚話なんて進んでんだよっ!」
「とぼけんなっ!
アンタの女が瞳にわざわざ電話かけてきて、そう言ったんだよ!
年末の30日にっ!
あの子が一体どれほど傷ついてるか…」
あの女が!?
瞳にっ!?
俺はカッとなって杉田の両腕を掴んだ。
そんなこと、俺は一切知らないっ!
「ちょっと待て!…おい、詳しく話せ、それ」
「偉そうにっ!話の腰折るんじゃないわよ!」
気が強い杉田は、まだ俺に噛み付いてくる。
いい加減、我慢も限界を越えた。
「いいから話せっつってだろっ!」
イライラした俺は、怒りに任せて腹の底から叫んだ。
それが功を奏したのか杉田は、少々ではあるが落ち着きを取り戻した。
「だっ…だから、30日に、アンタの幼馴染の…なんだっけ?
…まぁ、いいや、から電話があったのよ。
アンタの携帯から。
その女が瞳に言ったのよ。
今アンタと婚約中で近々結婚するし、邪魔になるから近づくな。
アンタが瞳に近づくのは、瞳の事が哀れだからだって」
「はぁっ!?なんだ、それっ!」
「嘘じゃないわよ!
アンタから連絡あった後、携帯に電話してもメールしても全然だしさぁ、
実家の方に電話したらもう、ぼろっぼろだったんだからっ!
事情聞いて、それで私、アンタに一発お見舞いしないと気が済まないって…
…そうよ、アンタ、自分の履歴見てみなさいよ!」
そう言われる前に片手で携帯を取り出し、発信履歴を調べた。
すると…あった、30日、してもいない電話の発信履歴が。
笹原に連絡したくてもなんだかこっ恥ずかしくてどう言えばいいのかわからない…などと柄にもなく乙女モードに入っていた頃だ。
悔しすぎて、携帯を壊れそうになるほど握り締めた。
「…あった。この日、実家に行ってたんだよ。
ほんの一時間ぐらい携帯放置してたから…その時使われたんだな」
「ってことは、アンタは無実だって言いたいのね?」
「言いたいんじゃなくて、無実だよ…っ!あのクソ女がっ!!」
大人になってから初めて、腹の底から巨大な怒りが湧き上がった。
綾の顔を思い浮かべただけで、腹立たしさからむしょうに何かを殴り倒したくなる。
怒りが大きすぎて力加減ができなかったようで、杉田が「痛いわよっ!」と今だ彼女の腕を掴んでいたオレの左手を払った。
そこではっと我に返った。
これ見よがしに腕をさすっている杉田は、どうやら俺への誤解を解いてくれたようだ。
俺は深呼吸して息を整え「悪かった」と謝った。
「…わかった。アンタは嘘をついてない。
で、これからどうするつもり?
同じような事が起こるなら、もうアンタに瞳は任せられないわよ」
「アイツ、いつ帰ってくるんだ?」
「明日、朝、実家から出勤するって。
携帯は電源入れるように言っといたし、何なら実家の電話番号も
教えられるわよ?」
「…いや、いい。明日直接会って話がしたい。
ちゃんと顔を見て、くだらない誤解を解いておきたいんだ」
「了解。だったら明日の瞳とのデート、譲ってあげるわ。
就業後、駅前のスタバ。6時半までには駆け込むように」
「…ありがとう」
願ってもないチャンスを与えられたことにほっとして、素直に心からの礼を言うと、照れたのか、杉田が唇を尖らせた。
「別にアンタのためにってわけじゃないわよ!勘違いしないでよね?」
「だったら、僕にその時間を譲ってくれよ」
突然割って入ってきた声。
忘れてた、樋口さんがいたこと。
「げ…」っと小さく呟いたところを見ると、杉田も樋口さんの事が目に入っていなかったようだ。
…ま、避けて通れる道じゃねーわな。
俺は腹を括って、樋口さんと向き合った。
「樋口さん、それは無理です。絶対に出来ません」
「なぜ?君はどんな形であれ、笹原さんを傷つけたんだろう?
杉田さん、確か、笹原さんにアプローチするなら、
絶対に傷つけない事が条件だって言ってたよね?」
「はい…確かに」
「だったら、君の基準からしても、既に富樫に
その権利はないってことじゃないのかい?」
「…樋口さん、いくら樋口さんでも…っ!」
かっとなった俺は、肩を怒らせて殴りかからんばかりの勢いで言った。
笹原だけは譲れない。
アイツは俺だけのもんだ。
誰にも渡せない…っ!
戦闘態勢に入った俺を杉田は冷静に片手で止め、樋口さんを真直ぐに見た。
「確かに、私は傷つけるのは言語道断だと、今でも思ってます。
瞳に近づく男は、彼女を傷つけない人間って事が最低条件の一つです」
「だったら、明日僕が彼女を慰める時間をもらっても
いいってことにはならないかい?
そこから恋が芽生えるって可能性は、ないわけでは、ない」
「そんなことっ!!」
「富樫、黙れっ!」
杉田がぴしゃりと言った。
しぶしぶ口を閉じた俺をひと睨みしてから、再び樋口さんに向かった。
「無いわけではないでしょうね」
「じゃあ、僕に君の時間を譲ってくれないかい?」
「だめです」
杉田は、潔いきっぱりとした口調で断った。
俺は心の中で拍手を送った。
不服そうに眉を上げた樋口さんは、「なぜ?」と優しく問いかけた。
優しげな口調と違い、目はいつになく鋭かった。
「傷つける人間は、言語道断です。
ですが、瞳を心の底から傷つけることの出来る人間は、例外です。
だって、あの子の精神までずたぼろに出来る人間は、
あの子が心の底から愛した人間以外にいませんから」
杉田が言葉を切ると、三人しかいないフロアに、コンピューターが作動する音だけが響いた。
「私は、あの子の気持ちを無視することは、絶対にしません。
私にとって一番大切なことは、瞳が心の底から幸せになることです。
それが私が瞳の幸せと想像していたこととは全く違う形であったとしても、
たとえ私がそれに不満を感じていたとしても、
あの子が一番笑顔であの子らしく生きていけるようにしたい。
瞳以外の人間の価値観なんて、あの子の人生にとってはくそくらえなんですよ。
だから、その可能性を邪魔する人間とは、障害物として、全力で阻止します」
直立不動で言い切った杉田は、男の目から見てもめちゃくちゃかっこよかった。
…これでは、杉田に笹原を持っていかれるかもしれない。
そんな下らないことを考えていたら、樋口さんがくつくつと笑い出した。
「最強のブロッカーだね、杉田さんは。
本当は富樫君と直接対決したかったんだけど、それすら許されないらしい」
「杉田がいようがいまいが、俺はアイツを誰にも渡しませんよ」
唸るような声で言うと、樋口さんはにんまりと笑った。
「おっと、こちらも手ごわそうだな…笹原さんが小さい頃から恋し続けるはずだよ」
「…気付いてたんですね、瞳の初恋の人がコイツだって」
杉田が顔を顰め、俺の肩を拳骨で殴った。
「そりゃ、気付かないわけないよ。
あの宴会の時、富樫君が現れた途端、全てが彼女の顔に出ていたんだから。
それに、富樫君の様子を見ていたら一目瞭然。
普段のポーカーフェイスなんて跡形も無かったからねぇ」
ニヤニヤと笑いながら話す樋口さんは、それはそれは楽しそうだった。
考えてみれば、そりゃそうだろう。
あの時はもう、周囲の事なんて何にも考えられなかったんだから。
「なんで…黙ってみてたんですか?
私に…あの、頼みごとまで、してたのに…」
杉田が、珍しくためらいがちに聞いた。
すると樋口さんは一瞬哀しそうな目をして、それからきっぱりと言った。
「君と同じ理由だよ。僕ではだめだと、あの瞬間にはっきりわかったからさ。
彼女の初恋は憧れとかそんな軽いものじゃないと、涙で語っていたじゃないか。
そして、富樫も同じぐらい彼女の心を真直ぐに見ていた。
いくら僕がアプローチしても、ちっとも振り向いてくれなかったのに。
付け入る隙もないって感じだったな」
「樋口さん……俺…」
「謝るなよ、ばーか!完全に吹っ切って許したってワケじゃないんだから。
杉田さんがやってなかったら、僕がその頬を殴ってたよ。
…けど、げっそりやつれるほど痩せた理由がわかったら、
その気も失せたけどね」
やっぱりいい男だ、樋口さん。
俺は彼の目を真直ぐに見て、真摯な態度で誓った。
「俺、彼女を絶対に幸せにしますから」
杉田がひゅう、と口笛を吹いた。
「その言葉、忘れないように」
樋口さんに恥じないように、彼女を愛し続けよう。
俺は決意を新たにした。