富樫君編 6
翌日、得意先回りを順調にこなした俺は、明日の残業付き休日出勤を覚悟の上で定時に退社した。
もちろん、笹原に謝り、許してもらうためだ。
今日は都合のいいことに金曜日だ。
彼女は明日休みだし、お詫びがてら夕飯でもご馳走できればいいと思う。
一緒に飯を食ったら、それなりに緊張もほぐれるはずだ。
うまく緊張がほぐれたら、一歩でも二歩でも関係を前進できる下地ができる…はず。
正直言って、あんまり自信がない。
まともな恋愛などした事がないだけに、何が正しくて何が間違ってるのかなんて見当が付かない。
彼女の会社の前に馬鹿みたいに突っ立ってるのも、ただ彼女を捕まえなければという気持ちだけ。
何の計画も策略もない。
勝負師とまで言われたこの俺が…情けないったらない。
彼女は1時間は残業するらしいが、もしも早く終わってしまったら会うことすら出来ない。
俺は辛抱強く、ガードレールにもたれながら彼女を待った。
女を待ったことなど、これまでの人生であっただろうか?
不思議と苦にならないのは、きっと相手が笹原だからだろう。
張り込むこと1時間10分。
携帯に入ってきた仕事に関するメールに返事をしている時、笹原が会社から出てきた。
俺に気付いて目を擦り、もう一度俺をガン見したかと思ったら、真っ青になって硬直した。
それほど俺に腹を立ててるのか?
そんなにも傷つけてしまったのか?
もどかしいさと切なさでどうにかなりそうだった。
けれど何とか自分を取り繕い、勇気を出して彼女の前に歩み出た。
「よぉ」
極度に緊張したため、気のきいた挨拶一つ出来ない俺を心の中で罵った。
そんな俺に愛想を付かしたのだろうか、笹原からは「あ…ども」と何とも気の抜けた挨拶が返ってきた。
もう、修復不可能なところまできてるのか…?
不安が一気に増した。
いや、ここで引いてはいけない。
ちょっと強引にでも引っ張っていったら、人のいいコイツは温情を与えてくれるかもしれない。
愛用の重たいビジネスバッグをぐっと握り締め、出来る限りさりげなく聞こえるように、それでも当たり前のようにメシに誘ってみることにした。
彼女はかなり戸惑っているようで、行くとも行かないとも取れない返事を繰り返していた。
突っ込んで聞いてみると、これから一人で馴染みの店に行くことに決めているらしい。
俺は杉田に言われた『おかしのおなら』を思い出した。
ここは彼女の領域で話をしたほうがよさそうだ。
…と考えていたにもかかわらず、煮え切らない彼女に業を煮やした俺は、強引に一緒に行くことを了承させた。
決意を変えないうちに移動せねばと焦った俺は、一歩も動かない笹原の手首を手に取った。
細い。
一方的で色気のない触れ合いなのに、俺の心はまるでガキのように躍った。
俺は照れ隠しに、ワザと乱暴に彼女を引っ張り続けた。
最初は目を白黒させていた彼女も諦めがついたのか、ふっと肩の力を抜いた。
「と、富樫君、その食堂、私の家の最寄り駅で…
各駅停車しか止まらない小さな駅なんだけど…
それでも…大丈夫?」
上目遣いにこちらの様子を窺う彼女は、凶暴なまでに可愛かった。
カッと身体が熱くなり、心臓がものすごいスピードで脈打った。
「…大丈夫」
喉がからからで、かすれた声しか出なかった。
コイツは何でこんなに心を乱してくれるんだろう?
そんな俺の気持ちを弄ぶかのように、笹原はそれはそれはうれしそうに微笑んでから俯いた。
街灯やイルミネーションの溢れる12月の夜でも、耳や首筋がうっすらと赤く染まっているのが分かる。
なんだか妙に恥ずかしくて、うれしくて、ムズムズした。
こんなにも初心な反応を見せられて、心抉られない男がいるだろうか?
俺は中学時代に天然・笹原の後ろに倒れていった男たちの屍を思い出し、初めて同情を覚えた。
うれしそうにこれから行く予定のいきつけの店の話をしている彼女は生き生きとしていて、とても愛くるしかった。
コロコロと変わる表情とくるくるとよく動く目。
体の芯がきゅっと締め付けられ、愛しいと思う気持ちがどんどん湧いてくる。
もっともっと近づきたい。
彼女を独占し、この腕に抱きたい。
彼女の全てを、そしてこれからの時間を。
熱い想いを心の中にぶちまけていた俺の思いの丈は、約10秒後に粉砕したのだが…。
笹原の行きつけの店は、昔ながらの寂れた食堂だった。
客はガテン系やしょぼくれたサラリーマンなど、男ばっかり。
テーブルに並べられた丸いすは穴が開いて中のスポンジが顔を出してるし、テーブルも年季が入っている。
なにより、この店のおばちゃん!
まるっきり、ドラマかなんかで描かれる典型的な”食堂のおばちゃん”そのものだ。
最初は戸惑ったけれど、でもあったかいおばちゃんとのやり取りを見ているうち、なぜ笹原がこの店を気に入っているのか分かる気がした。
まるで家族といるような空間。
どんな時でも受け入れてくれる寛大さがあった。
リラックスした笹原の笑顔。
来てよかった。
よかったけど…いつになったら俺と会うだけであんな笑顔を見せてくれるんだろう?
彼氏かとおばちゃんに聞かれて速攻否定されたせいもあり、正直凹んでいたりする。
難題だ。
おばちゃんとの会話を終えた笹原は、おそるおそる何を注文するのか聞いてきた。
んだよ…そんなに怯えることねーじゃねーか。
やっぱり面白くない。
どんなものがあるのかよくわからないので、笹原のオススメメニューを聞いてみた。
すると彼女は”ほっけ焼き定食”を上げた。
あまりにもおっさんくさい選択に驚いて声を失ったのに、どうやら俺がムッとしたと思ったようだ。
彼女は必死になって定食の美味しさについて早口で語り始めた。
真面目な顔で納豆談義って…俺の事、心の底から論外だと思ってるのだろうか?
かなり不安が残る。
けれど、再会したあの日から見ても、徐々に二人の距離が縮まっている気がする。
構えることなく笑顔で話をしてくれているのがうれしかった。
もっと距離を縮めたい。
彼女が好きなものを食べてみたくて、俺なら決して選ぶことはないだろうほっけ焼き定食を注文した。
彼女の顔がぱっと輝いた。
同じものを注文したってだけでこれだけ喜んでもらえるのは、かなり気分が良かった。
定食は、笹原がオススメと言うだけあってめちゃくちゃうまかった。
ほっけは優しく端で突付くだけでぽろりと身が離れるほど鮮度があり、身も肉厚。
いくらでもご飯が進む。
ちらりと向かいに座る彼女を見ると、それはそれはおいしそうにパクパク食べている。
なにをアピールしたいのか、ちまちま食べる女たちに慣れていたせいか、そんな姿が新鮮だった。
箸使いや魚の食べ方がとてもきれいなことも感心した。
こういうところに育ちのよさや人間性が出てくるもんだとしみじみ思った。
彼女との食事で、不愉快に思うところは一つもなかった。
女性との食事がこんなに楽しくて、リラックスできるものだとは思ってもみなかった。
きっと彼女となら毎日3食一緒に食べても、飽きることも呆れることもないだろう。
長い時間、彼女を待っていてよかった。
愛想をつかされることなく受け入れられた俺がいかにラッキーだったか、改めて実感した。
この調子でこいつに俺の存在になれてもらおうと、俄然やる気が出てきた。
次の週は毎日彼女が退社の時間を狙って、彼女の会社や駅周辺をうろついていた。
杉田のくれる情報の賜物だ。
…後が怖い気がしないでもないが。
仕事を途中で抜け出したり、営業帰りの時間に合わせるようにしたり、タイムスケジュールを調整するのが結構たいへんだった。
が、彼女と顔をあわせ言葉を交わし、愛くるしい笑顔を見るだけで、疲れも苦労も全て吹き飛んでくれる。
俺には精神的疲労に良く効くリラクゼーションタイムというワケだ。
彼女にパワーをもらったら速攻会社に戻り、遮二無二仕事した。
半分否定しつつも残りは肯定しているプチ・ストーカー生活は、案外と時間を削られるのだ。
わずかな時間を有効に使わねば、絶対に定時で上がりたい金曜日にまで残業せねばならなくなる。
それだけは困るのだ。
なにせ先週と同じく彼女を待ち伏せて、強引に夕食を食べに行く予定だからだ。
杉田の話だと、彼女は毎週金曜日に外食をする習慣があるらしい。
おそらく今週もまた一人外食を楽しむつもりなんだろう、と。
「何で杉田が一緒に行かないんだ?」と聞くと、彼女はいやらしいとしか表現できない顔でにたぁっと笑った。
…あんまり聞かない方がよさそうだ。
こいつのこと、魔王か何かと間違えてしまいそうだから。
努力の甲斐あってか、彼女との距離はさらに縮まっている。
出来ればクリスマスまでに鈍い彼女にオレの気持ちを伝えたい。
簡単にいくもんだろうか…?
百戦錬磨のつわものだったはずなのに…笹原には狂わされてばかりだ。