富樫君編 5
何気にだるい、木曜日。
恐怖の宴会は昨日のことだったというのに、もうはるか昔のことだったような錯覚を覚える。
昨日は案の定2次会、3次会へと引っ張りまわされ、朝から精神的にも肉体的にも疲弊しきっている状態だ。
天国から地獄へと続く道は、どうやら滑り台だったようだ。
定時まではいつもと変わらない業務をこつこつこなし、18時頃外回りから戻り、報告書の作成と本日の必要経費の計算に取り掛かっていた。
今日は何とか9時頃には退社できそうだと考えていた時、殺気で背中がざわりと粟立った。
と同時ににゅっと後ろから伸びてきた手が、机の上に一枚の付箋紙を貼り付けた。
腕を辿って見上げると、そこにはまるで仁王像のような杉田が立っていた。
生きとし生ける者全てが縮み上がってしまいそうな恐ろしげな目でぎろりと俺を睨みつけて、そのまま歩き去った。
怖ぇ…。
背中に一筋の冷たい汗が伝った。
恐る恐る付箋紙に視線を落としてみると、女性にしては角々した字で『9時。公園に来い』と殴り書きしてあった。
最後に果たし状をもらったのは一体いくつの頃だったか…頬が思いっきり引きつった。
仕事をさっさと終わらせ、俺は約束の時間に間に合うように会社を飛び出した。
杉田はまるで赤い布を見せられた闘牛のように怒り狂ってるし、ここで遅刻してさらに不興を買うのは得策ではない。
彼女の様子からしてきっともう笹原本人から事情を聞いているだろうし、それは本人から直接事情を知らされるほど笹原と仲がいいということだ。
既に評価は絶悪だろうが、これ以上敵視されても困るのだ。
いや、ここはもっと積極的に、敵意を好意に変えなければならない。
なにせ杉田はキーパーソンだ。
彼女が味方についてくれたら、これほど心強いことはない。
ここはプライドを捨てて、何とか彼女の怒りを鎮め協力を求めるべきだ。
俺は善後策を練るべく、頭をフル回転させた。
平日夜9時の公園は、ほとんど人気がなかった。
だからすぐに気付いた。
公園の真ん中にある時計台にもたれて、おどろおどろしいオーラを放っている杉田に。
俺はごくり、と唾を飲み込んだ。
深呼吸をして決意を固め、杉田に近づいた。
俺が公園に入ってきたときから真直ぐに俺を見ていた彼女は、開口一番に言った。
「…アンタ、確かなんか武道習ってたって言ってたわよね?少林寺…だっけ?」
予想外の質問に「あぁ」と素直な答えが出たと同時に、杉田の鋭い拳が腹に入った。
コイツ、強い!
無駄のない動きとスピード、溢れんばかりの闘志に、驚きが隠せなかった。
とっさに腹筋に力を入れて身を引いたから良かったものの…なんて挨拶だ、コイツ。
痛みに顔を歪めたが、俺がしたことを考えれば彼女の気持ちはよくわかる。
だから一切抵抗も抗議もしない。
ここは潔く怒りの拳を受け止めるべきだ。
拳を引っ込めた杉田は目を閉じ、気を統一させようと何度も深呼吸をした。
再び目を見開いた時には怒りを封印し、冷静に話し合う体勢に入った。
さすがだ。
「で、アンタが当の”富樫君”だったってわけね?…何で嘘ついたの?」
「アイツの事が知りたかったし、
ちょっとでも関心を持ってもらいたかったからって言ったら…驚くか?」
「マジで?」
「マジで」
杉田が不快そうにぎゅっと眉を寄せた。
「だってアンタ、めちゃくちゃかわいい彼女いるんでしょ?」
「誤解だ。
あれは幼馴染で、親同士が仲いいから今も付き合いがあるだけだ。
確かにガキの頃は好きだった時もあるが、
幼馴染以上の関係になったことなど一度もない」
「じゃあ、アンタにとって瞳って何?」
「笹原との関係を未来に繋げたいと思ってる。真面目に」
「嘘」
「こんなことで嘘は付かない。
なんなら笹原のイニシャル入りの指輪を今すぐ買いにいってもいい。
杉田が彼女の左指のサイズを知っているのなら、だけど」
杉田の瞳がきらりと光った。
言葉の一つ一つに込めた俺の本気は伝わったようだ。
今まであんまり付き合いがなかったが、そこらの男より潔いヤツだ。
「…なんだ、瞳のヤツ、片想いじゃなかったんじゃん」
杉田は心底うれしそうに笑った。
その笑みにつられて、俺も心からの笑みを浮かべた。
からかうようににやりと笑った杉田は、オレの肩を拳で一度軽く打った。
どうやら誤解は解け、平和的解決へと向かったようだ。
「瞳ってホント鈍くてさ、一途で、純粋で…とにかく放っておけないのよね。
高校の時は可愛いし騙されやすそうだから変な虫が付かないように
見張ってたけど、最近になってちょっと甘やかしすぎたんじゃないかって
悔やんでたのよ。
だから、性格にも将来性にも問題ない樋口さんを密かに応援してたんだけど
…瞳の気持ちを考えたら、ここはアンタのために一肌脱ぐのが一番みたいね」
「ちゃんと理解してもらえたようでうれしいよ」
いい感じだ。
「ちょっと確認だけど、アンタ、再会は映画館のショップでわずか1分足らず、
だったんでしょ?
昔告った時は断ったのに、どういう心境の変化?」
「俺もよくわからないが、昔のあれこれもプラスに働いた結果、一瞬で落ちた」
「…落ちた、ねぇ…」
気持ちはよくわかると杉田が頷いた。
変わったやつだな、コイツって。
彼女の中で俺の壊滅的な印象が修復されていくのはありがたいことなのだが。
そんなことよりも、この機会にまずは基本情報の収集だ。
現在の彼女のことは赤の他人といっていいほど知らないんだから。
こんな調子じゃ、これからの戦いに勝ち残っていけない。
「ところで、なんで昨日の宴会に笹原が来てたんだ?」
「瞳、宝製菓の販売促進担当なのよ。宝はずっと樋口さんが担当してたでしょ?
樋口さん、一目ぼれしたみたいで、ずっと瞳を狙ってきたのよ。
田口さんも産休前に瞳に会いたいって言うから、私が誘ったってわけ」
「へぇ~…」
やべぇ、イライラしてきた。
樋口さん、立場を利用して”営業外営業”してたってわけだ。
「でも安心して。
瞳ってあの鈍さでしょ?もの凄くアプローチされてたにも拘らず、
未だに樋口さんの気持ちに気付きもしないのよ。
樋口さん、瞳の気持ちに合わせてじっくり長期戦を展開してたんだけど、
昇進したと同時に焦ったみたい。
内勤だと、そうそう会えなくなるからね。
で、私に泣きついてきたからちょっとだけ協力したのよ」
「なんで協力なんて……」
「だって、このままだったら中坊のアンタの幻影に囚われたまま、
オールドミスになっちゃいそうだったんだもん。
樋口さんはすごくいい人だし、もしかしたら瞳も前向きに
恋愛してくれるかなぁって」
「……」
「だいたい、初恋を引きずって10年って…幻に恋してるだけって
可能性が高いじゃない。
自分の心の中に作り上げた理想の富樫像にいつまでもしがみついてるなんて、
はっきり言って不健康よ。
でしょ?」
「まぁ…な」
「言っとくけど、あの子の”富樫君”とアンタの本性との溝が深すぎて
あの子がアンタのこと拒否ったら、ストーカー行為に走るんじゃないわよ?
潔く身を引きなさいよ。
傷つけたり泣かせたりしたら、容赦なくボコすからね」
「…りょーかい」
何気に傷つく言葉があったりしたが、どれもこれも事実だし、笹原のためには一番いいことだったのでぐっと堪えた。
俺って案外健気だったんだな。
そんな俺を見て、杉田は満足そうに頷いた。
そのあと30分も杉田から笹原の取り扱い上の注意を伝授頂き、絶対に実行しなければならない”決まりごと”を守るよう脅迫…いや約束させられた。
杉田曰く、笹原と付き合う上で必要なのは”おかしのおなら”なのだそうだ。
お…押し捲らない
か…隠し事はせず、はっきりと分かりやすく事実を伝えること
し…しつこく聞きだそうとせず、怯えたら落ち着くまでじっとこらえること
の…のんびりペースに付き合い、決して焦らせない
お…襲わない
な…泣かさない
ら…乱暴はしない
あまりの過保護ぶりにあきれ返った。
話を聞いているうちに始まった頭痛が酷くなってきたので、こめかみをぐりぐりと揉み解した。
杉田は憎ったらしくふん!と鼻を鳴らし、ギロリと睨みつけてきた。
「言っとくけどねぇ、瞳はアンタの周りにうようよしてる女とは違うのよ?
取り扱いを間違ったら、アンタ一生”瞳ちゃんのお友達”よ?
もしくは、瞳の前に二度と出てこられないように闇に葬られるか。
どっちにしろ、私が脅さなくてもアンタは自然と”おかしのおなら”を
実行するでしょうけどね。
私の経験上、瞳に好意を持った男は漏れなく実行すること間違いなし、よ。
特に2つの”お”は絶対無理ね!」
…俺が一番守れそうにない項目じゃないか。
それなのに、杉田は自分の勘に絶対の自信があるようだ。
今でも俺の顔を意味ありげにニヤニヤ笑って見てる。
なんかの罠か?
「今月、瞳は大体1時間ぐらい残業してから帰るから、
出来る限り毎日顔を見せるようにしなさい。
それぐらい自己アピールしないと、あの子、何にも気付かないわよ。
とにかく鈍いし、自分の魅力について全く理解してないから。
それから、昨日のことは地面に頭こすり付けるぐらいの勢いで謝っときなさいよ?
今日だって、会社休んで泣いてるぐらいなんだからね」
そうか…泣いてるのか。
一人で膝を抱えている笹原を想像して、心臓が切り刻まれたように痛んだ。
本当に馬鹿なことをしてしまった。
俺は俯いてぎゅっと拳を作った。
杉田はため息を一つ吐き、「まったく…」とブツブツ小声で悪態を吐いていた。
「私だってまだ腹立ってんだから。
…でも、ま、とにもかくにも、健闘を祈るわ。
瞳の幸せのためでアンタのためにやってんじゃないって事、
ちゃんと理解してなさいよ?」
俺は力なく頷いた。
それから携帯番号とメアドとを交換して、作戦会議は終了となった。
杉田は懐の広いやつだ。
お陰で光明が見えた気がする。
知りたい情報は手に入った。
あとは樋口さんを出し抜いて、笹原を手に入れるだけ…。
そのためには許しを乞うところから始めねば。