16
「何言ってるの!?正気なの!?こんな女とっ!?」
正直すぎる木本さんの台詞に、私も心の中で大きく頷いた。
そうそう、私なんて誰からも覚えられていない、超・地味キャラなのだ。
わかっちゃいるけど…かなり傷ついたんですが。
木本さんにぶったぎられた傷がずきずき疼いて心が麻痺しそうな私。
そんな状態なのに、悲鳴を上げてしまいそうなほど、おどろおどろしい富樫君の低音が響いた。
超ホラー。
「綾…今すぐ彼女に謝れ。そしたら君のその失礼な態度もなかったことにしよう」
コワイ…っ!!
たちまちびびってしまった、チキンな私。
対してさすがの木本さんは、一瞬鋭く刺すような視線で私を見て、ふんと鼻で笑った後
くるりと大きな瞳をさらに大きく見開いてから、媚びるように富樫君を見つめてため息をついた。
「…ごめんなさい。でもそれは、雄大君が悪いのよ?
だって、おじさまもおばさまも私がお嫁に来るのを楽しみにしてるって
仰って下さってたのに、
突然結婚を前提にしたお付き合いをしてる人が居るなんて…」
「楽しみにしてると言ったのは君のご両親であって、俺の両親じゃない。
俺の父も母もちゃんと俺の意思を尊重してくれている。
なにより、俺は君と将来を誓い合ったことなど一度も無い」
「私のことっ!好きって言ってくれたじゃないっ!」
「それはガキの頃の話だろ?大体、君はずっと兄貴に夢中だったじゃないか。
それに、子供のおままごとのような話を今まで信じているほど、
俺たちの仲が幼馴染以上に発展したことなど
過去一度も無いじゃないか。…そうだろ?」
「……っ!それはっ!…雄大君が、私のこと大切にしてくれて…」
「大切?危険のないように処理してたって言う方が近い。
そう思うだろ?」
悔しそうに唇を噛んだ木本さん…やっぱり本気で怖い。
彼女の中にある女のドロドロした感情を初めて見たような気がする。
どうにかこの場を治めなきゃ…と思うけど、こんなシュチュエーション初体験の私はオロオロするだけで、何の助けにもなりそうに無い。
…ってか、まるっきり役立たずだ。
逃げたい。
「ね、あの、2人とも、ちょっと落ち着いて…人目もあることだし、ね?」
ありったけの勇気を出して、ありきたりな言葉をかけてみる。
引きつる口角を必死になってあげて。
風水的にもスピリチュアル的にも、口角上げるって幸せ寄ってくるのに有効だって!
ビバ・平和。
けどこれが逆効果だったみたいで、木本さんがギッと怒り倍増の顔で睨みつけてきた。
ヒィィィッ!!
びくびくっと震えると富樫君が繋いでいる手に力を入れ、私を引っ張るようにすたすた歩き出した。
「…話はあっちで。確かにここじゃ、悪目立ちだ」
これでちょっとは安心できそうだ。
地味に生きてきた身だから、人に注目されるのには慣れてないというか…苦手だし。
……って、逃げ損ねた。
「それじゃ、後は二人で…」って言うつもりだったのに。
好奇の視線に晒されていた場所から移動した先は、海が一望できる広場。
ぽつりぽつりとカップルがいるけれど、プライバシーは保たれそうなほど人気がない。
一定の間隔で置かれたベンチが、やや薄暗いロマンティックな街灯と温かみのある色の照明に照らされている。
きりりとした冬のきれいな空気に、息を呑むほどに美しく輝く夜景。
こんな状況でなければ、絶対に感動で目がうるうるしてたことだろう。
…何でこんなことになってしまったんだろう?
海を背にしてくるりと振り向いた木本さんは、真直ぐに私の目を見た。
輪郭が夜景に光り、顔が陰になっているのが何とも迫力満点だ。
美人は怒るとそうでない人よりも余計に怖いような気がする。
「…あなたの目当てはなんなの?財産?それとも、雄大君の容姿に釣られたの?
善人面で私は何も知りませんって態度で、ほんっと、頭にくるわ!
いやらしい、最低の女ね!」
「綾!いい加減にしろ!」
「だってっ!私、雄大君だけなのに…っ!
絶対にこの女、雄大君のおうちがお金持ちだから近づいただけの女よ?
これまでずっとそんな女を軽蔑して、距離を置いたり切ったりして
きたじゃないの!」
富樫君の何かがぶちっと切れた音が聞こえたような気がした。
全身から恐ろしげな怒気が立ち上っているのは、錯覚?
目が怒りでぎらぎらしているところをみると、外れてなくも無い…のかもしれない。
口の端を上げて笑っているように見えるけど、目がちっとも笑ってない。
富樫君、お願いだからこれ以上木本さんの神経逆なでないで…。
しかし、こういう願いは得てして届かないものだったりする。
「…だから、君とも距離を置いたんじゃないか」
「…え…?」
「だから、俺が何も知らないと思ったら大間違いだってことだよ。
君の交友関係についてはおおよそ把握しているつもりだし?」
「…何のこと?」
「俺の両親や親戚が持っている財産や地位を狙っている女をリストアップしろと
言われたら、俺は真っ先に君の名前を書くよ。
それについては、反論の余地なし、だろ?」
「そんなっ!」
「それに、俺が結婚を急ぎたいと思うほどに惚れ込んでいるのは、
君じゃなくて瞳だ。
俺が選んだ相手に何故ケチをつける?君に決定権などないのに」
「私はっ!雄大君のことを考えて…っ!」
ヒステリックな叫びを片手を上げることで制した富樫君は、冷ややかな声で静かに告げた。
「俺の気持ちを考えてくれると言うなら…今すぐどこかに行ってくれ。
そしてもう二度とこんなことで俺たちを煩わせないでくれ。
俺が穏やかに話をしているのは、単に家族や瞳のことを考えてのことだ。
くだらない自分本位な理由でオレの大切な人たちを苦しめるのであれば、
誰であろうと許さない。
親父と君の父親の関係がなければ、俺はこれまで言い寄ってきた女たちと
同じように君を切ると断言するよ。
これ以上、どういえばわかってもらえるんだ?」
ショックで青ざめた木本さんは口元を手で押さえ、よろよろと後ずさった。
ぶるぶる震える両手で持っていたバッグをきつく握り締めると、思いっきり振り上げて街灯を殴りつけた。
それから高いヒールの音を響かせながら、駅に向かって走っていった。
彼女には街灯が私に見えたことだろう。
木本さんから向けられた怨念じみた感情に背中がひやりとして、胃がムカついた。
やばい…吐きそう…。
私はその場に座り込んだ。
「おい!大丈夫か!?」
富樫君の慌てた声が耳のすぐ側で聞こえた。
さっきとは全然違う、本気で心配している声…。
富樫君の大きな手のひらが私の両頬を覆った。
その温もりに緊張で固まった心がすっと柔らかになった。
途端、目の奥が熱くなり、意に反して涙がどっと溢れた。
緊張の糸が切れたとは、こういう状態のことを言うのだろう。
喉の奥に大きな塊が出来たようで、声が出ない。
「…怖がらせて、悪かった。
こんなことになるなんて、思ってもみなかったんだ…許してくれ」
彼の柔らかい唇が私の額に小さな音を立てた。
それから溢れ出した涙をすくい上げるように、目じりに向かって私の頬に唇を這わせた。
突然過ぎる展開に驚いた私は、ひゅっと息を吸い込んだ。
もちろん、涙はぴったりと止まった。
両頬を同じように唇で撫で上げた後、かちこんと硬直した私に気付いた富樫君は
最後に額にキスをしてから唇を離し、私の目を覗き込んでくすりと笑った。
顔が熱い。
きっと体中が真っ赤になっているに違いない。
この寒い季節だってのに、耳だって熱いもん。
富樫君がくれた恥ずかしくもうれしいような甘ったるい沈黙の間、これまでの人生であり得なかった経験について思い返すことが出来た。
…確か、結婚を前提に付き合ってるって、言ってたよね?
…私のこと、好きってこと?
惚れ込んでるって…言ってくれたよね?
やっぱり、その場限りの言い逃れ…?
頭が情報処理に付いていけなくて、ぽ~っと富樫君を見つめ返した。
と、偉く真剣な顔になった富樫君の顔が徐々に近づいてきて、彼の唇が一度、私の唇にやさしく触れた。
この年でファースト・キス……他人の唇がこれほどまでに柔らかいとは思ってもみなかった。
…なんてことをぼんやりと考えていると、突然ぐっと抱き寄せられ、もう一度唇をふさがれた。
さっきとは全然違う、荒々しくて生々しいキス。
こんなの、初めてだった。
苦しくなって薄く開けた唇の間から、彼の舌がぬるりと入り込んでくる。
しばらく中を探っていたと思ったら、突然私の舌を弄ぶように絡み付いてきた。
口内を縦横無尽に味わいつくそうとする舌はかなり強引で、恋愛初心者の私があっけなく無防備で無力な抜け殻になってしまっているうちに、唇を舌先で舐められ吸い上げられた。
苦しくなって一度話された口を開いて深呼吸すると、再び唇を押し付けられ舌が挿しこまれた。
口内を我が物顔で動き回る舌の動きに翻弄され、身体の奥から不思議な熱が生まれてきた。
感情が焼け焦げてしまいそうな、切ない気持ち。
何かが足りない、けどその正体が分からない。
もどかしい気持ちに後押しされて、必死になって絡み付いてくる彼の舌の動きをぎこちなく辿った。
富樫君の両手が私のお尻を包み、ぎゅっと鷲掴みにした。
これ以上はと思っていた2人の距離が、驚くべきことに更に縮んだ。
両足の付け根に何やら堅いものが押し付けられ、それが刺激となってさらに心臓がばくばくと全力で動き、下腹がきゅっと切なげに疼く。
自分が自分ではなくなっていく、コントロール不可能な状態。
生まれて初めての感覚が急に怖くなって、私は富樫君の背中をぎゅっと握り締めた。
いつ終わるとも知れないほど長いキスは、余韻を残したままゆっくりと終わった。
大人なキスは恋愛初心者にとって高度すぎる技だという事を身をもって理解した。
こんなんで怯んでたら、きっと真世が楽しみにしている”ホットな週末”など、私にはしばらく無理!だろう。
すっかりがくがくと震えている膝を支えるように、富樫君の胸に頬を寄せて落ち着こうとした。
あれだけ緊張してたのに、彼の体温と吐息を感じるだけで安心できるなんて不思議だ。
「…なぁ、瞳、結婚しよ?」
うっとりと彼の胸に甘えていると、彼の口からぽろりと落ちた一言。
私は驚きのあまり目を見開いて、富樫君を凝視した。
え?なんで?
「俺、やっぱりオマエと居るとすっげぇくつろげる。
素のままの俺を見ても本音言っても、自然に受け入れてくれるお前が
生涯必要だって、わかったんだ。
中学校の頃から俺を見捨てず、想っていてくれてたことがうれしかった。
…それが分かった時、もう気持ちが止まらなくなったんだよ」
「でも、結婚って…富樫君、後悔しないの?」
「あぁ?何で後悔?
ここで結婚しなきゃ、それこそ後悔してもしきれねぇよ。
俺だって人生の中でいろいろなことを学んできたんだ。
だからこそ、お前が必要なんだと確信したんだ。
お前だって俺のこと想ってくれてるって言ってただろ?」
「けど!けど…全然違うじゃない…」
なんだかがっくりと肩が落ちた。
…必要だから結婚する。
それはお互いの愛情を「好き」から「愛してる」になるまで深めて初めて成り立つんじゃないかな?
私は富樫君のこと、一生を共にしたいと思うぐらいに愛してる。
でも富樫君は?
これまで登場しなかった毛色の変わった女に対する好奇心と愛情を取り違えたりしてない?
…なんて、これは逃げ口上。
ホントは、彼の本当の気持ちが掴めないのが不安なんだ。
私のこと、愛してくれてるの?
「だって、結婚するって事はお互いに…」
「ストップ!」
「でも、これは…っ!」
「だから聞けって!
打算や妥協で結婚するんじゃないんだ。
…俺はお前が好きだ。愛してる。
これからは毎日一緒に夜を過ごし、朝を迎えよう」
真直ぐに私の心に向けられた、真剣な瞳。
富樫君は、私のこと、本気の本気で想ってくれてるんだ…。
ようやく私は何の疑いもなく確信できた。
瞬間、私の心の中からたくさんの色とりどりの花があふれ出したような気がした。
怖いぐらいに幸せで、胸がきゅんきゅんと痛んだ。
頬が熱くなり、止まったはずの涙が再び溢れた。
「…泣きすぎ」
優しい、優しい声で囁いた富樫君は、ぎゅっと力を込めて私を抱きしめた。
ちょっと痛かったけど、その痛みがうれしかった。
私と同じぐらいのスピードで打つ富樫君の鼓動が心地よかった。
私よりもずっと硬い富樫君の胸にほお擦りし、ぎゅっと彼の背中を抱きしめた。
いつまでも味わっていたい、癖になりそうな温かさ。
中学生の時に夢中になった、あの少女漫画。
もう一度読んでみたいなぁ…なんてぼんやり考えていたら、富樫君が頭のてっぺんに小さな音を立ててキスした。
うれしくて、うれしくて。
涙でぐちゃぐちゃで顔が見れる状態ではないことも忘れ、彼の顔を見上げてにっこりと笑って言った。
「私もね、富樫君のこと、愛してるの!」
「知ってる」
偶然なのか必然なのか、富樫君の答えはあのマンガのラストシーンと同じだった。
そしてその後は……
夢にまで見たハッピー・エンディングがあった。
<完>
瞳視点はこれで終わりです。
この後、富樫君視点のお話となります。