15
「…ちょっとオレ、コーヒー買ってくる」
そう告げてふいと行ってしまった富樫君の後姿をただ呆然と眺めた。
…なんで?
…真世は?
…どして?
いろんな疑問がぐるぐるぐるぐる頭の中を駆け回った。
1週間以上ぶりにあった彼は、どことなくやつれていた。
お正月の挨拶周りが大変だったのだろうか?
…もしかしたら、結婚式の準備とか、そういうのだったのかもしれない。
結婚話が本格化したんだったら、富樫君の家みたいな格式ある大きなおうちはさぞかし慌しくなることだろう。
心臓をぐにゅりと捻り潰されたような気分だった。
このまま何も言わずに立ち去るのが一番いいのかもしれない。
…と思うものの、店を出ようとすれば富樫君のそばを通る事は避けられない。
なんせ出入り口はカウンターの前一つだけ。
ここに来たと言う事は、きっと私に何らかの話があるに違いない。
だから逃げたらきっと引き止められるだろう。
木本さんから話を聞いて、改めて説明しようとしてくれているのかもしれない。
私の妄想と現実との差について。
だとしたら、罪な優しさってもんだと思う。
無視してくれたらいいのに。
惨めな思いはもう十分味わった。
重いため息をついてぬるくなったカフェラテをちびりと飲んだ。
緊張で口の中がべたべたする。
もう一口ごくりと飲み込んだ時、富樫君がカップを持って戻ってきた。
どうやら本日のコーヒーを選んだ模様。
ブラックコーヒーの色は彼のイメージにぴったりだ。
一見真っ黒に見えて、その実深くて複雑で、きれいだ。
正面に彼がいる事が気まずくて、視線をテーブルに落とした。
彼と同じく浮かんで空気を吸っているだけで、なんだか居心地が悪い。
悪いことを悪いとわかってやってる小学生みたいな気分。
思い切っておそるおそる顔を上げてみると、不機嫌そうにむっつりと唇を結んでいる顔が見えた。
しかも唇の端は切れてるし、頬の辺りが何となく赤黒く腫れている。
「どっ、どうしたのっ!?怪我してるよ?」
驚いて立ち上がりテーブルに身をのりだすと、真直ぐ彼に手を伸ばした。
痛そうな唇…触れるのが怖くて、ぴくんと身をひいてしまった。
富樫君がわずかに顎に力を入れた。
…また嫌な思いさせちゃったのかな?
再びドツボにはまった。
のろのろと手を引っ込めようとしたら、突然がしっと手を握られた。
温かそうに見えた大きな手は、以外にも冷たかった。
「この怪我は……大丈夫、たいしたことないんだ。
むしろ必要だったし、受けて当然の報いだ。
だから、おまえが気に病むことなんて何もない」
私の目を真直ぐに見つめ、真剣に話をしている富樫君。
顔がぽっと赤らみ、心臓がバコバコと激しく動いた。
私の無に等しい恋愛遍歴を暴露するかのような反応に触発されたのか、富樫君の頬もほんのり赤く染まった。
…びっくり。
大人っぽい富樫君が、急に少年のように見えた。
「…ま、その、なんだ…今日はおまえに話があって。
それで、この時間を杉田に譲ってもらったんだ。
こんなとこでじゃなくてもっとゆっくり話したいから、
これからメシでも食いに行かねーか?
今度はオレのオススメの店に…もちろん、おまえが嫌じゃなかったら、
だけどさ…」
歯切れの悪い富樫君。
いつも自信満々で堂々としているのに…。
なんだか見慣れないせいか、こっちまでそわそわしてきた。
でも、いいのかな?
お食事なんて。
一瞬の逡巡後、木本さんの言葉が頭にぱっと浮かんだ。
ダメダメ!
引きずられてばっかりじゃん!
こんなことじゃ、ずっと未練タラタラで生きてかなきゃいけなくなっちゃう!
誘惑に負ける一歩手前で立ち直りお断りの言葉を口にしようと小さく息を吸い込んだ時、慌てて富樫君が遮った。
「おまえがなんと言おうと、メシ食いに行くのは決定事項だから。
さっさとそのケーキ食っちまえ」
…私が嫌じゃなければとかなんとかって選択の余地のあるような言葉は、一体なんだったんだろう?
手のひらを返したかのように強引になったのは、なぜ?
頭を捻ってみるものの、何にも浮かぶはずが無い。
ここで一つ二つ理由に思い当たれるぐらいなら、こんなに不器用な生き方はしてないのだ。
優柔不断は昔から専売特許だった私は、うっかりこくんと頷いて残りのケーキに取り掛かった。
目の前では富樫君が難しい顔をしてコーヒーを飲んでいる。
眉間に皺寄っててもカッコいいなぁ…。
こんな時にも見とれている私は、究極のお馬鹿さんだ。
そのせいでぴったりと私の動きだけが止まっていたようだ。
何かに強烈に惹きつけられているのと同時に別の事が出来るほど、器用な人間じゃないわけで……
結局、5分後には店を後にしていた。
右手首をしっかりと彼に握られた状態で、必死になって歩いている。
まるで”ドナドナ”で歌われている子牛のよう。
別に売られるわけじゃないけどさ。
食べることを停止しつつある私に業を煮やした彼は、私から奪ったフォークで残ったケーキをぐさりと刺し、一口で食べてしまった。
あっという間の出来事だった。
唖然としている隙に、あっさり彼に右手を拘束されていた。
スタバを出たら有無を言わさず帰宅!…を計画していたというのに。
所詮私が立てた予定など、昔からうまくいったためしがないのだ。
私よりも半歩先を歩く富樫君の横顔を見ても、彼の心は覗けなかった。
今どんな気持ちでいるんだろう?
なんで私なんかに構うんだろう?
木本さんとの結婚する予定なのに、なんで?
木本さんに誠実であることとこうして私を連れて歩く事は、富樫君の中では両立してるの?
…私のこと、どう想ってるの……?
たくさんの質問が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
駅の改札を通り抜け、電車に乗った。
新年初出勤を終えて帰る人たちで混雑している電車の中では、まるで頑強な壁のようになって私を守ってくれた。
電車独特の臭いの中にいても、富樫君の男らしい香りが漂ってくる。
わずかに残っている洗濯した後の清潔感のある匂いや、富樫君がつけている甘めの香水の香りよりもずっとずっと強烈に私にアプローチをしかけてくるみたいに。
…私、欲求不満?
自らの欲求を不満に思うほどの経験は無いんだけどなぁ。
近すぎるぐらいに近い2人の距離。
すごくドキドキして胸が疼いているのに、なぜかとっても安心できた。
富樫君の全てが心地よくて、離れたくなくなってくる。
優しい人。
優しくて、罪作りな人。
勘違いしそうになる馬鹿な女の子のことなんて、ちっとも考えてくれないくせに。
降りたのは、彼と再会した映画館がある大きな駅。
彼はよどみない足取りで歩いていった。
いつの間にか、指を絡め、手のひらをぴったりとくっつけるように手を繋いでた。
まるで恋人同士みたいに。
「…ねぇ、富樫君、どこに……」
一言も話をしない彼に、堪えきれずに話しかけた時。
鈴のように高らかな声が響いた。
「雄大君っ!」
お砂糖たっぷりのミルクみたいに甘い声。
間違えようもなく、木本さんだった。
どきん!と心臓が跳ねた後、頭の天辺からさっと血の気が引いた。
緊張しすぎて気分が悪い。
この状況を彼女にどう説明すればいいんだろう?
私の人生において、こんな修羅場に身を置くことなど想定外だ。
とにかく誤解の無いようにしたい。
慌てた私はしっかりとつながれていた手を解くべく引っ込めようと努力した。
けれど、何を思ったのか、富樫君は反対にぐっと力を入れて私の手を離そうとしない。
パニックに陥っている私を他所に、富樫君はとっても冷静だった。
心もち、目が厳しい。
そんな彼に気付かないのか、木本さんは困ったように眉を寄せて、お色気たっぷりのすがるような瞳で彼だけを見つめた。
もちろん、繋がれた手に気付いた瞬間怒りが燃え上がり、私をギロリと睨みつけてきた。
当然の反応だと思うけど、怖い。
「ねぇ…雄大君…今日は私…すっごく嫌な事があって…どうしても
雄大君にお話聞いてもらいたくて…。
そうしてもらえなきゃ、私、立ち直れそうに無いの…苦しくて。
お願い。いつものお店で相談に乗ってくれない?ね?いいでしょ?」
富樫君の正面に移動した彼女は、女性的で甘く優美な仕草で彼の胸の上に指を這わせた。
あの天使のように愛くるしい木本さんが、富樫君の前ではこんなにも艶やかに微笑むんだ…。
2人の親密さを見せ付けられたような気がして、がん、と金槌で殴られたような気分になった。
部外者丸出しの私は、おそるおそる2人の様子を交互に観察した。
女の私でも見惚れる彼女の表情を見た途端、富樫君は心底嫌そうな顔でため息をついた。
……なんで?
今日最大の謎が目の前に展開していた。
「やめてくれ」
感情を抑えようとして失敗した低く響く声で、富樫君は胸に置かれた華奢な手を払いのけた。
木本さんが息を呑んだ。
「俺は、コイツと結婚を前提に付き合ってんだ。誰にも邪魔はさせない」
「な…っ、なんですって!?」
驚いた木本さんは、ぎゃっと叫ぶように言った。
信じられない、と顔に描いてあった。
それは私も同じだ。
きっと彼女以上にびっくり顔だろう。
きっぱりと言い切った彼は男らしかった。
けれど、内容がいただけない。
富樫君は木本さんと婚約しているはず。
私のこと迷惑だって思ってたはず。
なにより、そんな話聞いてないっつーの。
っていうか、付き合ってもいなけりゃ、彼の私に対する気持ちを聞いたことすらない。
頭がずきずきと痛み始めた。
天地がひっくり返りそうとはこういうことをいうのだろうなぁと、まるで人事のように考えた。