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1月4日。
自営業を営む両親と両親の仕事を手伝っているだい兄ちゃんは、朝からお店と事務所で忙しそうに働いていた。
お父さんが趣味が高じて脱サラして始めた、アウトドア専門店だ。
アウトドアグッズだけにとどまらずお母さんが仕切っているカフェも隣接していて、ダッチオーブンやアウトドア気分が味わえる料理なんかを出している。
中でも、お父さん特製の燻製を使ったオープンサンドが大人気だ。
だい兄ちゃんはお父さんを手伝いつつ、インターネットショップを開いたりしてお店を大きくしていた。
お店の事はあんまり分からないけど、結構繁盛しているようだ。
お正月休みにも飽きた人たちがたくさんやってきて、繁忙ランチタイムに間に合うようにカフェのお手伝いに行くべく「よっこらしょ!」とすっかり重たくなったお尻を上げた時、家の電話が鳴った。
電話の側には私しか居ないので、受話器に素直に手を伸ばした。
「もしもし、笹原です」
『ひとみぃっ!!!あんたねぇっ!!!!…っざけんじゃねーよっ!!!!!』
耳の奥でキーン、と音がした。
怖い……真世…。
「あ、あの、あのね、あの…」
『何で携帯に何度電話してもメールしても無反応なわけ!?
私がどれだけ心配したことか…っ!!!』
あ、そうだ。
私携帯の電源切りっぱなし……。
真世は昨夜合宿から帰って来たはずだから、きっと何度も連絡をくれたに違いない。
「…ごめん」
ぽつりと呟いてから、しばらくの沈黙。
真世が気持ちを落ち着けようと、深呼吸しているしているようだ。
『…で?何があったの?吐きな、全部、包み隠さず』
台詞に似合わぬ優しい声ですっかり気持ちがほぐれてしまった私は、泣きながらこれまでのことを真世に話した。
きっとしゃくりあげる音と混乱した内容で、話の半分は訳が分からなかっただろうに、それでも真世は
何も言わずに話を聴いてくれた。
『……辛かったわね』
全て話し終わった後、真世が言った。
その一言が温かすぎて、心がじんわりと痛んだ。
「…うん、辛かっ…た、の…」
納まりかけた涙が、さらに溢れ出した。
やっぱり持つべきものは親友だと、心から感謝した。
『アンタに何があったのかも、アンタの気持ちも分かった。
明日、実家からそのまま出勤するんでしょ?』
「うん、その予定」
『だったら今はゆっくり休んで、気持ちを落ち着けなさい。
…ほんとは側に居たいんだけど…ごめん。
まさかこんなことになるなんて…ね』
「気にしないで?ね?だって、初めからわかってたことなのに、
私が勝手に突っ走ったから…」
『馬鹿ね。アンタは一つも悪くないわよ。気に病むことなんて一つもないのよ。
もっと堂々としてなさい!
アンタはとにかく自分に自信がなさ過ぎるのよ!』
「…ごめんなさい」
『はぁ…もう、謝らなくていいことで謝ってばっかりね!瞳らしいけどさ。
明日仕事終わってから、時間空けてなさいよ?
駅前にあるスタバに集合。わかった?』
「…わかった」
受話器を置いて、はぁとため息をついた。
怒ってたなぁ…真世。
きっと往生際悪く足掻いてる私に呆れてるんだろうなぁ~。
明日のお説教は長くなるかも。
でも長すぎるほど長いお説教の後は、不思議と心が穏やかになる。
それがわかってるから、早く明日にならないかなって願ってる。
真世の顔が見たい。
いつもの呆れかえった口調で「全くアンタって子は…」なんて言って欲しい。
そしたらきっと、いまよりもずっと笑いたくなるに違いないから。
私はお母さんのカフェのロゴが入ったエプロンを手にとって、のろのろと歩き出した。
初出勤の社内は、どことなく迎春モードで浮かれ調子だった。
事務所のあちこちに鏡餅が飾られ、花瓶の花も松やら葉牡丹が入っためちゃくちゃ豪華なものに変わっていた。
正月ボケが抜け切れないのか、長いお休みの後の出勤のせいで慌しい営業さん以外は全体的にのろのろと時間が進んでいる感じ。
それでも時間が進んで、あっという間に就業時間。
バブル期に作ったであろうまるで応援歌のような社歌が流れた瞬間、事務方の女性陣は一斉に片づけを始め、飲み会は最高のコミュニケーションと信じて疑わないおじ様連中は若い営業君たちを引きずり込んで隠し持っていたビールの缶を開けていた。
うっかり部長に引っかからないようにと、更衣室に足早に向かう女性に混じって逃げるように事務所を後にした。
17時30分。
かなり早い時間だ。
真世はきっと休み明けの注文をさばかなきゃいけないから、スタバにたどり着くまでにもう少し時間がかかるに違いない。
とりあえず大好きなカフェラテでも飲みながら、のんびり本を読むことにしよう。
うっかりつまらないことを思い出したら、ひとりでめそめそ泣いてしまいそうだし。
実際、今日一日、ふとした瞬間にいろんな感情が蘇ってきて、その度に目がちくちくして喉が潰れたように痛くなった。
一生分の瞬きして、深呼吸して、お茶を飲んで、何とか乗り切った。
…お陰で何度もトイレに通う羽目になった。
きっとおせち料理食べ過ぎて、おなか壊してるんだって思われたに違いない。
スタバについて店内を見回しても、案の定真世の姿はなかった。
時間が早かったからか、二人用の窓際のテーブル席が確保できた。
予定通りカフェラテと、ついでにレモンケーキも注文した。
夕食前にケーキは…とも思わなくもないけど、年末からこちら食欲がなくてろくに食べてなかったせいか、甘いものが恋しくて仕方なかった。
お行儀悪く文庫本を片手に持ち、ちびちびとケーキを食べ、時々ラテを啜った。
目が疲れてきたので本を閉じ、ぼんやりと窓の外を眺めた。
クリスマスイルミネーション以来そのまま電飾されている街路樹が、白と青のライトで輝いていた。
店先やビルの入り口に門松やしめ縄が飾られるだけでお正月モードになるんだからたいしたもんだ、などと、本当にどうでもいいようなことを考えた。
もうすぐ18時半。
もう30分以上ここに居る。
店内に空席は無くなり、おしゃべりの声がざわざわとかがやがやとかいう音になって低く響いていた。
人恋しい今、この音がしんみりと心に沁みる。
今は一人で居たくない。
人の気配が欲しかった。
頬杖を付いて半分だけ残っているケーキを眺めてから、そっと目を閉じた。
驚くほどたくさんの雑音が耳に流れこんできた。
目を閉じたまま雑音に耳を澄ましているうち、なんとなく惨めな気持ちが湧きあがり、心がしくしく痛んた。
女性の笑い声がする。
甘く誘うような、媚びるような弾むような。
きっと恋人と肩を寄せ合って笑っているんだろうな。
がつん、とハンマーで殴られたように頭が重く、痛かった。
たくさんの人がいるのに、人の気配がたくさんあるのに。
私は一人ぼっちだ。
25年間、ずっとずっと、馬鹿みたいに一つの想いに囚われたままで。
どこかで期待していた。
富樫君と再会して、そこから恋が始まるんだって。
そんなマンガみたいにうまくいくわけないのに。
今度こそ。
今度こそ真世に体中の毒を全部吐き出して、それから新しい一歩を踏み出そう。
素敵な恋をしたい。
お互いに想い合い、尊敬し合えるような恋。
一緒に笑って泣いて、時には喧嘩して仲直り出来る、心が感じた時に「大好き!」って笑いながら伝えられる相手を探そう。
そう決心した時。
私に誰かが近づいてくる気配を感じた。
真世が来たのかと思って目を開けたと同時に飛び込んできた人物は、さも当たり前のように私の前の席にどかりと使い込まれた大きな黒いカバンを下ろした。
そして私は、同じ人物に目を見開きあんぐりと口をあけた馬鹿面を晒すことになった。
真世ではなかったその人物は、富樫君、その人だった。