10
あの日、ラーメン店の前に立った富樫君の顔は、ちょっとした見ものだった。
愕然と見開かれた目。
あんぐりと開いた口。
店の汚さ加減にかなり面を食らったようだ。
…麺食べる前ってのにさぁ~…などとくだらないダジャレが頭の中に浮かび、思わずうひゃひゃと笑ってしまった。
「…何笑ってんだよ」
冷ややかな富樫君の声。
…お、お、怒った?
一瞬、冷や汗が全身に滲んだ。
強張った笑顔を返すと、はぁと盛大にため息をついた彼は「本当にここ?」と再度確認した。
こくこくと頷き返す私を見てじと目で睨んできたと思ったら、「入るぞ」と言って常連の私を差し置いて入っていってしまった。
そりゃ驚くだろうさ、この店見たら。
本当に食べ物を出してくれるのか?と呟いてしまいたくなるほど、年季が入りすぎている。
真世の好奇心に付き合わされて始めてこの店の前に立った時、カンベンしてって思ったもん。
でも一度入ってみたら、もう、病み付き。
戦後すぐ掘っ立て小屋を手直ししながらずっと営業してきたお店らしく、味にも歴史がうまみ成分と一緒に溶け込んでいるようだった。
正直、ぜひともこの味は富樫君に試してもらいたい。
この味を分かち合い、激ウマによって生まれる興奮を共有したいというか。
きっと気風のいい大将の人柄も、富樫君なら気に入ってくれるに違いない。
今の大将は3代目。
50代で、背が低いのにがっちりした体格の持ち主だ。
なんでも空手の有段者なんだそうで、その繋がりもあって真世とはもの凄く話が合うのだ。
そして2人して私をお子様扱いして……くそぅ。
…って、こんな話じゃなくて。
一見潰れそうなお店だけど、時期4代目が大将の元で現在育ちつつあるほどの有望店だ。
大将の甥っ子さんである未来の大将は、勝司君と言って、まだ23歳。
初めてアルバイトとしてお店に来た時は若干19歳だった。
逆立てられた金髪と数を数えたくなるほど開けられたピアスホールが目立つせいで見かけは派手だけれど、外見とは裏腹な彼の志の高さとラーメン作りへの熱意は、とにかく感心せずにはいられない。
大将の容赦ない鉄拳にめげることなく、ひたすら修行している姿は見習いたいぐらいだ。
彼の必死の努力が実り、今ではダシ作りの秘伝を教えてもらうまでに成長した。
蛇足ながら。
彼をこんなにも手放しで褒めるのは、決して来るたびに煮卵や手作りギョーザをサービスしてくれるからではない。
決して。
「らっしゃい!」
暖簾をくぐると2人の男の野太い声が飛んできた。
富樫君の大きな背中の後ろからちょこんと顔を出すと、大将と勝司君の目が見る見るまん丸になった。
体格が全然違うくせに、こういう仕草に血の繋がりを感じる。
ちょっと笑えて、にんまり。
「え!瞳ちゃんっ!?珍しい、男連れなんてさ!」
大将が独特のだみ声で叫んだ。
えへらと笑顔で返してから、たまたま二つ並んで空いていたカウンター席に二人並んで座った。
ラーメンとギョーザを二人前注文し終えると、大将は興味深々で近づいてきた。
いつも口悪くも愛想良く話しかけてくれる勝司君は、なぜか睨みつけてくるばかりで鬼気迫る勢いで注文をこなしている。
…なんか、あったのかな?
「なんだよ、瞳ちゃんも隅に置けねぇなぁ~。彼氏かい?」
珍しく、大将がわざわざカウンター越しの目の前に立った。
大将の小さな瞳が、抜け目なくきらりと光る。
わわわっ!誤解されたままじゃ、富樫君も迷惑に違いない。
私は慌てて訂正した。
「違う違う!彼、富樫君って言ってね、私の幼馴染、なの。ね?」
「まぁ、そうです…どうぞ、よろしく」
大将に笑顔で挨拶を返す富樫君に、ちくりと胸が痛んだ。
ただの幼馴染なんだから、彼がそういうのは当然のことなのに…何期待してんだ?
馬鹿瞳めっ!!
「幼馴染だってよ!良かったな、勝司!!」
大きな声で熱心に仕事中の勝司君に大将が声を掛けたら、「うっせぇよ、くそじじぃ!」とドスの聞いた声が返ってきた。
何が良かったのか分からないけど、いつもの勝司君に戻っててほっとした。
「ま、ゆっくり食ってってくれや!」
がははと笑いながら麺をゆでる大鍋の前に戻っていく大将に、笑顔で手を振った。
その後、富樫君に方に体を向き直すと、何故か彼の眉間にはくっきりと深い皺がよっていた。
…何か、機嫌の悪くなるようなこと、あったっけ?
「…あの、富樫君?」
「…んだよ」
「…なんか、腹が立つことでも…あった?」
「………」
「ねぇ?」
「……別に」
「………」
はっきり、怖い。
きっと今私がマンガの中の登場人物になったら、次から次へと汗を流している絵になるに違いない。
会話を探すも、頭の中が真っ白で何も思いつかない。
富樫君は考え込んでいたかと思ったら、何故か厨房で動く勝司君を睨みつけている。
ラーメン屋さん開業を将来的に夢見てるから、プロの技を盗もうとしている、とか?
富樫君に限って…ありえない。
「ラーメンとギョーザ、おまちっ!!」
天の声ならぬ、大将の声!
この声が天使の囁きに聞こえてしまうほど、私は進退窮まっていたのか!?
「とにかく、大将のラーメンはすっごくおいしいの!熱いうちに食べよ?ね?」
えへらと笑って富樫君に勧めたら、心もち頬を染めた富樫君が「…おぉ」と返事してくれた。
…ん?なんか、目つきが違うっていうか…なんていうか…。
……セクシー?
ラーメンの湯気のなせる業だろうか?
さっきとは別の意味で気まずくなった私は割り箸に手を伸ばし、一つを富樫君に渡してからぱちん、と割った。
きれいに真ん中で割れたから、きっといい事があるに違いない。
大量に乗っかったチャーシューともやしとネギを掻き分け、卵色よりも黄色い太麺をすくい上げた。
豪快にずるずるっとすすり上げると、奥行きのある汁の味が口の中一杯に広がり、かみ締めるといつもと変わらぬもっちりとした歯ごたえがした。
「おいしいっ!!」と満足して叫ぶと、「ホント、うめぇ…」と富樫君が呟いた。
見ると、その表情には満面の笑顔。
そうそう、旨いラーメンはイライラ腹立ちを全て追い払ってくれるものなのだ!
さっきまでの気まずい空気はすっかり浄化されていた。
「…なぁ」
あらかた食べ終わったところで、富樫君が言った。
富樫君はもう既に完食している。
やっぱり、男の人は食べるのも早いなぁ。
ギョーザを一つ口に入れたところで返事が出来ず、代わりに首を傾げてみる。
わずかに頬の血色が良くなった富樫君は、咳払い一つしてから話し始めた。
「おまえさぁ、来週のも…」
「瞳!これ食え!!!」
富樫君の台詞と被るように、どん!と目の前に置かれたキムチセット。
置いたのは、気持ち悪いほど笑顔いっぱいの勝司君だった。
…いつもはもっとぶすっ!としてるのに…どうしたんだろう?
会話を遮られた富樫君はむっと口をへの字に曲げ、勝司君をにらみつけた。
2人の男の視線から火花が飛んでいる感じがするのは、気のせいよね?
「あ、あの、勝司君、ありがと、いつも。大将、頂きますっ!」
「あいよ!勝司のおごりだしさぁ、遠慮なく食ってよ!」
「はい!」
大将にも一言お礼を言ってから、大好きな大根のキムチ”カクテキ”を一つぱくりと食べた。
やっぱりおいしいっ!
笑顔で今度は白菜をつまむと隣から端がにゅっと伸びてきて、富樫君が皿にあったキムチを全てすくい上げて食べてしまった。
驚いた私は、あんぐりと口をあけた。
「てめぇ、何一人で食ってんだよっ!」
富樫君は怒鳴りつけてくる勝司君を涼しい顔で無視し、まるで頬袋に向日葵の種を溜め込んだリスみたいに食べている。
…そんなに、キムチが好きだったのか…?
知らなかった。
「…ところでよ、瞳、おまえさぁ、来週のの木曜日、会社帰りにこれねぇ?」
「え?木曜日…って、24日?」
「おぉ!どうせ予定なんてないんだろ?な?いいだろ?」
隣で富樫君が、ごふっと変な音を立てた。
どうやら何かいいたけれど、口の中一杯で話が出来ないようだ。
勝司君がふふん、と意地悪く笑っている。
なんか、不穏な空気…。
おろおろしていると、勝司君が答えを催促してくる。
でもこの日は…
「ごめん。12月23日は両親の誕生日で、22日会社終わったらすぐに実家に帰るんだ。
24日は朝かなり早くに実家から出勤することになるし、夜は家に帰って休みたいの」
本当にごめんね、ともう一度ちゃんとあやまると、勝司君と一緒に何故か富樫君もがっくりしていた。
なんだなんだ!?
「あ~…でも、もしさぁ、体調悪くなくて寂しくなったらさ、
絶対に来いよ!な?」
「あ、うん。でも勝司君、期待しないでね?」
「わぁーった」
「勝司、いつまで油売ってんだ!」と大将に怒鳴られた勝司君は、ブツブツ言いながら仕事に戻っていった。
頬杖を付きながら彼の後姿を見送っていた富樫君が、恨めしそうな低い声でぼそりと言った。
「…お前、あちこちに出世欲の強いオトモダチ、作ってんな」
「へ?なんのこと?」
「…分からなかったら、別にいいよ」
「はぃ?…って、私の友達の中でも一番出世してるのって、富樫君だよ?」
「…それ、意味分かってて言ってるワケ?」
「え…と」
「……天然も、ここまで来ると犯罪だよな。
杉田の言いたいこと、いまよくわかったよ」
「え?真世?」
「……早く食え」
富樫君は私に残りを食べるように促してから、一言も話さなかった。
水をちびちび飲みながら、ぼんやりと考え事をしている様子。
何考え込んでいるんだろう?
悩ましげに瞳を細める富樫君の横顔を見てから、名残を惜しみつつ極上のスープの最後の一口を飲み込んだ。
そういえば…
来週24日と言えば、言わずと知れたクリスマス・イヴ。
富樫君は木本さんと2人きりのディナーでも楽しむのだろうか?
恋人同士肩を寄せ合い、笑いあい、触れ合って……
そんなことを考えていると、胸がちくちく痛み出す。
私はただの幼馴染。
恋人である木本さんに嫉妬するなんて、おかしな話なのに。
今年も、例年の一人ケンタッキー決定。
空しさを抱きしめながら、はふっとため息をついた。
やっぱ、辛いなぁ…。