↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「検品しかできない役立たず」と婚約破棄されましたが、辺境都市を救った私は元婚約者の工房を再検査しません

作者: 抑止旗ベル
掲載日:2026/09/12


「検品しかできない役立たずは、もう必要ない。今日限りで工房を出ていけ」


 婚約者のヴィクトルは、職人たちの前でそう告げた。


 その隣には、新しい魔法陣を生み出したことで評判の魔術師令嬢ミレーユがいる。


「君との婚約も解消する。これから工房を支えるのは、線をなぞるしか能のない君ではなく、ミレーユだ」


「承知しました」


 私は十年間使ってきた作業机へ、鍵を置いた。


 指先が離れた途端、胸の奥が鋭く痛んだ。


 いつかヴィクトルの妻となり、この工房を支えていく。そのために覚えた仕事も、積み重ねた年月も、彼にとっては何の価値もなかったらしい。


「ただし、検査途中の製品が二百四十七個あります。出荷前に再点検してください」


「最後まで大げさだな」


 ヴィクトルが鼻で笑う。


「君がしていたのは、完成した魔法陣を原図と見比べるだけだ。見習いでもできる」


「工房長、せめてセシリア様の検査記録は引き継いでください」


 職人長が口を挟んだ。


「事故につながる欠陥には、すべて赤い印が――」


「線の太さや交点のずれを数えただけの紙だろう。古い記録を読む暇があるなら、一つでも多く作れ」


 ヴィクトルに遮られ、職人長は唇を引き結んだ。


 ほかの職人たちも目を伏せる。


 彼らも私が細かな修正をしていることは知っていた。けれど、その修正がなければ何が起こるのかまでは知らなかった。


 失敗する前に直すのが、私の仕事だったからだ。


「分かりました。今後、私が工房の製品に触れることはありません」


「引き継ぎも必要ない。今日中に私物をまとめろ」


「はい」


 夕方、私はヴィクトル魔道具工房を去った。


 背後からミレーユの明るい声が聞こえる。


「すべてを調べるなんて非効率ですわ。最初の一つだけ検査して、あとは開発へ時間を回しましょう。生産量を倍にできます」


「さすがミレーユだ。これで工房はさらに大きくなる」


 私は振り返らなかった。


 二百四十七個の製品が事故を起こしませんように。


 そう祈ることしか、もう私には許されていなかった。


 ◇


 翌朝、私は王都を離れた。


 向かったのは、黒霧の森に接する北方辺境都市グランツ。


 都市全体が巨大な結界に守られており、その管理を担う魔法技術院が検査官を募集していた。


 七日後、技術院の採用試験を訪れた私の前に、暖房用魔道具が十二台並べられた。


「この中に、正常に動かないものが一台ある」


 説明したのは、黒髪に青灰色の瞳を持つ青年だった。


 北方辺境伯ルシアン・グランツ。二十七歳で領地を継ぎ、魔法技術院の総責任者も務めている。


「技師十二人が三日間調べたが、原因を特定できなかった。今日中に見つければ採用する」


「分解してもよろしいでしょうか」


「構わない。故障品がどれかは教えないが」


「十分です」


 私は一台ずつ外板を外し、刻まれた魔法陣を原図と照合した。


 七台目を開いたところで、手を止める。


「こちらです」


「もう分かったのか?」


 試験開始から、まだ二十分もたっていなかった。


「故障ではなく、安全装置によって停止しています。火属性を示す第五文字の下に、細い傷があります」


 ルシアン様と三人の技師が集まる。老技師が拡大鏡を取り出した。


「これか? 製造時についた傷にしか見えんが」


「傷だけなら問題ありません。ですが、文字の終点に接しているため、魔力が蓄熱の術式へ流れています」


「測定値に異常はなかったぞ」


「一度の使用では、ほとんど変化しないはずです。十回、続けて動かしてください」


「なぜ十回だ?」


「以前の工房で、同じ程度の傷を三度見ました。どれも一度では異常が出ず、八回から十一回の連続使用で停止しています」


「十年前の記録を覚えているのか?」


「事故につながる傷は、次に見落とさないよう記録していましたので」


 老技師は半信半疑のまま測定器を接続した。


 一回目、異常なし。


 二回目も、針は正常範囲にある。


 しかし七回目、針がわずかに揺れた。


 八回目には黄色の範囲へ入り、九回目に警告音が鳴る。


 十回目。


 安全装置が作動し、暖房用魔道具は停止した。


「本当に熱が蓄積している……」


 若い技師が測定結果を見直す。老技師も原図と傷を何度も見比べた。


 別の技師が最初から再計算したが、結果は変わらなかった。


「我々は十二人で三日調べたんだぞ」


 老技師が拡大鏡を置き、今度は私を見た。


「それを二十分で見つけたうえ、何回目に止まるかまで予測したのか」


「過去に似た製品を検査していただけです。一度ずつしか動かさなければ、見つけにくい欠陥ですから」


「それを見つけるのが検査官だろう。その検査官が十二人いて、誰も気づかなかったんだ」


 室内から言葉が消えた。


 ルシアン様は自ら停止した魔道具を調べ、原図と製造記録に目を通した。


「この傷は、どの工程でついたと思う?」


「刻印具の先端が欠けている可能性があります。同じ工具で作った製品にも入っているかもしれません」


「今月、同じ刻印具を使った数は?」


 問われた老技師が帳簿を確認し、顔色を変えた。


「八百台です」


「すべて出荷を止めろ」


「辺境伯様、納期を過ぎれば違約金が発生します」


「火災を起こす可能性がある品を売るほうが問題だ。出荷停止の責任は俺が取る」


 迷いのない決定だった。


 ルシアン様は改めて私へ向き直る。


「セシリア・ノートン嬢。採用試験は合格だ」


「ありがとうございます」


「いや、検査官では足りない。品質管理主任として来てほしい。技師五名と、危険を発見した製品の出荷を止める権限を預ける」


「初日から、そのような権限を?」


「十二人が三日で発見できなかった欠陥を、君は二十分で見つけた」


 青灰色の瞳が、まっすぐ私を見る。


「その目を信じないほうが、責任者として無責任だ」


 欠陥を指摘すれば、細かすぎると叱られる。


 出荷を止めれば、余計なことをするなと言われる。


 それが当たり前だと思っていた私に、彼は仕事をするための権限まで与えようとしている。


「お引き受けします」


「よろしく頼む、主任」


 その日初めて、私は誰かの婚約者ではなく、自分の仕事の役職で呼ばれた。


 ◇


 同じ頃、王都のヴィクトル魔道具工房では、検査工程の見直しが行われていた。


「完成品の検査に二日もかけていたのですか?」


 ミレーユが呆れた声を上げる。


「セシリアが一つずつ原図と見比べていたからな」


「同じ型で作るのですから、最初の一つが正しければ十分です。半日で終わらせましょう」


 新規開発と販路拡大を得意とするヴィクトルには、魅力的な提案だった。


 検査工程は二日から半日に短縮され、生産量は一・七倍になった。


 三日後、一件目の返品が届いた。


 翌日は七件。


 その次の日には二十三件。


「生産量を急に増やしたせいで、見習いの作業が乱れたのだろう。交換すれば済む」


 ヴィクトルはそう判断した。


 この時点ではまだ、セシリアがいなくなったことと結びつけていなかった。


 ◇


 品質管理主任となって一か月後。


 都市結界に使われる部品の記録を確認していた私は、奇妙な偏りを見つけた。


「西区だけ、制御石の交換数が多すぎます」


 技術会議で報告すると、水路技師長が眉を寄せた。


「西区は古い区画だ。故障が多くても不思議ではない」


「ほかの区画は一年に平均二十個です。西区だけ百四十個。七倍あります」


「十年以上、同じ方法で整備している。紙の数字だけで異常と決めつけられては困る」


 私は過去五年分の記録を机へ並べた。


「故障箇所が毎年、北から南へ移っています。部品ではなく、壁の中の接続線に原因があるのではないでしょうか」


 技師長の表情が険しくなる。


「結界の内部は帳簿ほど単純ではない」


「では、現場で確かめさせてください」


 ルシアン様が私の資料を取り上げ、五年分の印を順に指で追った。


「確かに移動している。俺も行こう」


「辺境伯様まで地下水路へ?」


「彼女が正しいか、現場を見れば分かる」


 その日の午後、私たちは西区の地下水路へ入った。


 ルシアン様は護衛へ任せることなく、自ら制御石を外して裏側を確認する。


「セシリア。ここか?」


「はい。交換された石は正常です。壁側の接続線を測定してください」


 技師たちが十二か所を調べた。


 結果、壊れていたのは制御石ではなく、壁の中を走る接続線だと判明した。


 石を交換するたびに負担が隣へ移り、故障箇所だけが南へ逃げていたのだ。


「つまり我々は五年間、壊れていない石を交換していたのか」


 技師長が壁へ手をついた。


「七百個以上です」


「一個が金貨二枚だから……」


 若い技師が口を閉ざす。


「金貨千四百枚だ」


 ルシアン様の答えに、水路が静まり返った。


「私が見落としました」


 技師長が頭を下げる。


「いいえ。交換記録が残っていたから見つけられました。記録がなければ、私にも分かりませんでした」


「私を責めないのか?」


「原因が分かったのですから、先に直しましょう」


 技師長が驚いたように顔を上げる。


 ルシアン様は何も言わなかったが、その視線を感じた。


「改修方法は?」


「接続線を五区画に分け、負担を逃がす補助線を追加します。費用は金貨二百枚。十日ほど必要です」


「危険は?」


「工事に失敗すれば、西区の排水機能が三日止まります」


 雨季は一か月後だった。


 文官たちは反対したが、ルシアン様は私の図面を一晩かけて読み、翌朝には自らの名で許可書へ署名した。


「実施する。承認した責任は俺が負う。ただし、君一人には背負わせない。技師二十名と水路作業員五十名をつける」


「図面を、すべてお読みになったのですか?」


「分からない箇所が七つあった。これから教えてもらう」


 彼は笑うことなく、本当に七つの質問を書き出していた。


 工事は九日で完了した。


 十二時間の連続試験でも、制御石への負担は基準値の半分以下。


 西区で年間百四十個使っていた交換部品は、翌年から二十個以下で済む見込みとなった。


 結果を報告する発表会には、技術院の職員百二十名が集められた。


「今回の改修により、年間金貨二百四十枚の維持費が削減される」


 壇上のルシアン様が告げる。


「五年間見逃されていた原因を発見し、九日で改修を完了させたのは、品質管理主任セシリア・ノートンだ」


 一斉に視線が集まった。


 最初に拍手したのは、私の指摘に反対した技師長だった。


 若い技師が続き、やがて百二十人分の拍手が講堂を満たす。


「皆様が記録を残してくださったおかげです」


「主任」


 技師長が苦笑した。


「記録なら五年前からあった。それを意味のある情報として読んだのは、あなただ」


 ルシアン様が銀色の徽章を差し出す。


「今日から都市結界監査官を兼任してもらう。給金は現在の二倍。すべての公共魔道具について、出荷と稼働を止める権限を与える」


「二倍、ですか?」


「君が防いだ損失は、その給金を二十年払っても余る」


 講堂に温かな笑いが広がった。


 笑われているのではない。褒められて困る私を、皆が笑ってくれている。


「君は功績を、すぐ他人へ返してしまうんだな」


 壇を下りた私に、ルシアン様が小声で言った。


「一人でできた仕事ではありませんから」


「そのとおりだ。だが、君がいなければ始まらなかったことまで消してはいけない」


 彼は私の胸元へ銀の徽章を留めた。


「たまには受け取ってくれ。君が正当に評価されるところを見たい人間もいる」


「ルシアン様も、ですか?」


「ああ。俺は特に見たい」


 先に目をそらした彼の耳が赤いことには、気づかないふりをした。


 その数日後。


 夜遅くまで図面を確認していた私の机へ、ルシアン様が温かいスープを置いた。


「監査官には稼働停止権限を与えたが、食事まで停止する権限は与えていない」


「申し訳ありません」


「謝る前に食べてくれ。俺も忘れていたから、一緒に叱られる」


 そう言って向かいに座る彼を見て、私は初めて仕事とは関係のないことで笑った。


 ◇


 その頃、ヴィクトルの工房には返品された魔道具が山積みになっていた。


 点灯しない照明。


 設定温度を超えて熱くなる暖房器具。


 途中で止まる揚水器。


 一か月の返品数は三百八十一件。前年一年分の六倍だった。


「なぜ、これほど不良品が多い!」


 ヴィクトルが声を荒らげる。


 疲れ切った職人長が、静かに答えた。


「検査時間を四分の一に減らしたからです」


「同じ型で作ったものだぞ」


「魔法陣を手で刻む以上、線の太さも交点も一つずつ違います。以前はセシリア様がすべて確認していました」


「線をなぞっていただけだろう」


「違います」


 職人長は今度こそ、はっきり否定した。


「あの方は一日に二百個を確認し、平均十二か所を修正していました。我々が最初から正しく作れていると思っていたのは、出荷前にあの方が直してくださっていたからです」


「そんな報告は受けていない」


「問題が起きる前に直していたから、報告すべき事故が起きなかったのです」


 ヴィクトルは初めて、検査記録の保管庫を開いた。


 十年分、三万枚を超える記録。


 どの製品の、どの線を、どのような理由で直したのか。事故につながる欠陥には、赤い印がついている。


 一枚目をめくったところで、ヴィクトルの手が止まった。


 紙の束は、天井近くまで積まれていた。


 翌週、王宮へ納品した暖房用魔道具から火が出た。


 侍女がすぐに気づいたため、幸い負傷者はいない。


 だが、火元となったのは、私が最後に「要再検査」と記した二百四十七個のうちの一つだった。


 王立魔道具監査局による立ち入り調査が始まった。


 返品記録と短縮された検査工程が確認され、ヴィクトル魔道具工房には即日営業停止命令が下る。


 王室御用達資格は剥奪。


 王宮との五年間の大口契約も破棄された。


 違約金を支払うため、ヴィクトル家は王都本店と屋敷の一部を売却することになった。


 検査時間の短縮を提案し、技術責任者として承認書へ署名したミレーユも、一年間の工房勤務停止処分と、王宮関連事業への参加禁止を言い渡された。


「セシリアを呼び戻せ」


 ヴィクトルが言う。


 職人長は首を横に振った。


「あの方は、もうあなたの部下でも婚約者でもありません」


 ◇


 夏の終わり、北方一帯を記録的な豪雨が襲った。


 三日間の雨量は、例年一か月分の二倍。


 グランツを流れる川が増水し、都市の警報鐘が鳴り響く。


「西区水路を起動!」


 技術院の指令室に声が飛んだ。


 改修したばかりの水路である。


 もし設計が間違っていれば、西区の住宅六百戸が水に沈む。


「流量、基準の百二十パーセント!」


「補助線は?」


「正常です。しかし北水門に流木が詰まりました!」


 排水能力が一気に落ちた。


「現場班を出します」


「いけません。水門までの水位は腰を超えています」


 私が止めると、ルシアン様が外套をつかんだ。


「俺が騎士団を連れていく」


「領主自ら行かれるのですか?」


「水門を開けるには、土属性魔法で流木を固定する必要がある。現場で最も強い術者は俺だ」


「ですが、危険です」


「君が指令室で都市を守る。俺は、俺にしかできない仕事をする」


 ルシアン様は私の肩へ手を置いた。


「君の設計と判断を信じている。だから君も、俺が戻ると信じて指示をくれ」


 怖くないはずがなかった。


 それでも彼は、私へ安心させるための嘘を求めなかった。危険を理解したうえで、ともに最善を選ぼうとしている。


「北水門を開けた直後、東側へ水が集中します。三分遅らせて第二水路を開けてください」


「分かった」


「必ず、お戻りください」


「約束する」


 ルシアン様は騎士団を率い、豪雨の中へ飛び出した。


 私は指令室に残り、五区画の流量を監視する。


 やがて北水門が開いた。


「三分、数えます」


 東区の流量が上がる。


 まだ早い。


 南水路を半分閉じ、北から流れ込む水を分散する。


「三分です。第二水路を起動!」


 測定器の針が大きく振れた。


 一瞬、誰も息をしなかった。


「西区の水位、下がります!」


 職員が叫ぶ。


「毎刻三寸……四寸! 排水量が増えています!」


 北水門の流れも正常値へ戻った。


「領主様と騎士団の帰還を確認!」


 歓声が指令室を満たす。


 夜明けまでに、川の水位は危険域を脱した。


 西区六百戸。


 浸水被害、ゼロ。


 負傷者も、ゼロだった。


 翌日、中央広場に市民が集まった。


 ルシアン様は泥のついた外套のまま壇上に立つ。


「グランツが一軒の家も失わず、全員で朝を迎えられたのは、改修された地下水路が最後まで動いたからだ」


 そして、大勢の前で私の名前を呼んだ。


「改修を提案し、豪雨の間、すべての水門を指揮した都市結界監査官――セシリア・ノートンに、グランツ市民を代表して感謝する」


 広場を埋めた人々が振り返る。


 パン屋の夫婦。


 水路作業員。


 子供を抱いた母親。


「ありがとう、セシリア様!」


 一人の声をきっかけに、私の名前が広場を満たした。


「私は設計を確認して、水門を動かしただけです」


 思わずそう言うと、隣の技師長が笑う。


「六百戸を守っておいて、まだ『だけ』ですか」


「ですが、実際に水門を開けたのは、ルシアン様と騎士団です」


「だから俺たちの仕事だ」


 ルシアン様が隣に立った。


「君の功績を俺が奪うことはしない。だが、俺たちの仕事を君一人にも背負わせない」


 その言葉が、拍手よりも深く胸へ届いた。


 ◇


 式典が終わった直後、王都から二人の客が訪れた。


 ヴィクトルとミレーユだった。


 応接室へ入った二人は、私の胸元にある都市結界監査官の徽章を見て足を止めた。


「監査官、北水門の報告書です」


 職員が書類を差し出す。


「机へお願いします。技師長にも写しを。午後の再点検は、第二班を南水路へ回してください」


「承知しました」


 職員が一礼して退出した。


 窓の外では、十八人の技師が私の指示を受け、それぞれの持ち場へ向かっている。


「監査官……?」


 ヴィクトルが、私と徽章を交互に見た。


「現在、品質管理主任と都市結界監査官を兼任しています」


「君が、都市結界を?」


「昨日の豪雨で被害が出なかったのは、セシリアが改修した地下水路が機能したからだ」


 ルシアン様が答える。


「彼女は、この都市に不可欠な技術者だ」


 ヴィクトルの顔が歪んだ。


 以前なら、その顔を見ただけで、自分が何か間違えたのではないかと不安になっていただろう。


 今は、彼の表情と私の判断は無関係だった。


「セシリア。工房へ戻ってきてくれ」


 ヴィクトルが机へ両手をつく。


「営業停止を解除するには、すべての製品を再検査しなければならない。君なら直せるだろう」


「できるかどうかであれば、できると思います」


「なら――」


「ですが、お引き受けしません」


「なぜだ! 元は君の工房でもある。職人たちが路頭に迷うぞ」


「希望する職人には、王立監査局とグランツ技術院が再就職先を用意している」


 ルシアン様が書類を示した。


「グランツの製造所か、王都の提携工房を選べる。失われるのは、検査を廃止した責任者の地位と工房だけだ」


「これは私とセシリアの問題だ。辺境伯には口を出さないでいただきたい」


「彼女は俺の所有物ではない。決めるのはセシリアだ」


 ルシアン様は一歩下がった。


 私の答えを奪わず、けれどヴィクトルが私へ近づけない位置に立つ。


「婚約もやり直そう」


 ヴィクトルが焦った声を出した。


「君が全製品を再検査し、工房を再開できたら副代表にする。今度は仕事も認める。ミレーユとの婚約は解消する」


「ヴィクトル様!」


 ミレーユが声を上げた。


「仕方がないだろう! 新しい魔法陣を作れても、検査できなければ製品を売れない!」


「検査をなくすと決めたのは、あなたですわ! 私は効率化を提案しただけです!」


「技術責任者として承認書に署名しただろう!」


 二人が必要としているのは、伴侶ではない。


 自分の失敗を引き受けてくれる人間なのだ。


「ヴィクトル様」


 私が呼ぶと、二人は口を閉じた。


「私が十年間していた仕事を、今は理解していただけましたか」


「ああ。だから戻ってくれと言っている」


「いいえ。あなたが理解したのは、私を失った損失です」


 ヴィクトルの表情が固まる。


「工房には、三万枚以上の修正記録が残っています。あの記録を使い、今後はご自身で検査工程を作り直してください」


「それができないから、頼んでいるんだ!」


「でしたら、なおさら戻れません」


 私は胸元の徽章へ触れた。


「あなたの工房を再検査するつもりはありません。間違いを消して差し上げる仕事は、もう辞めました」


 応接室が静まり返った。


 私の後ろには、報告書を手にした技師たちがいる。


 誰も私へ答えを強要しない。ただ、私の判断を待っている。


 かつて工房の隅で一人、誰にも知られず完成品を直していた私には戻れない。


「王室御用達資格は、取り戻せないのか」


 ヴィクトルがルシアン様を見る。


「再取得には早くても五年かかる。王宮との契約も、すでに別の工房へ移された」


「五年……」


 ヴィクトルは力なく椅子へ腰を下ろした。


 やがて、絞り出すように言う。


「すまなかった。君の仕事を、何も理解していなかった」


「謝罪は受け取ります」


 私は一度だけ頭を下げた。


「ですが、婚約も仕事も元には戻りません。私を不要とした日のご判断を、これからはご自身で管理なさってください」


 ヴィクトルは、もう何も言わなかった。


 ミレーユとの婚約も、王都へ戻った後に正式に解消されたという。


 扉が閉まり、二人の足音が遠ざかる。


 胸の奥に十年間残っていた重いものが、ようやく消えた。


 ◇


「セシリア」


 二人きりになった応接室で、ルシアン様が私を呼んだ。


「無理をしていないか?」


「少し疲れました。でも、言いたいことは言えました」


「立派だった」


 そう言ってから、彼は困ったように笑う。


「いや、今日は仕事を褒めたいわけではないんだ」


「違うのですか?」


「ああ」


 いつも迷いなく命令を出す人が、珍しく緊張していた。


「君を監査官として必要としているのは、グランツだ。君の技術と判断を評価しているのは、技術院だ」


 彼は一度、息を整える。


「だが、仕事をしていない君とも一緒にいたいと思っているのは、俺自身だ」


 胸が大きく鳴った。


「功績を挙げた日だけではない。自信をなくした日も、間違えた日も隣にいたい。君が失敗した人間を責めるより、先に直そうとする人だから惹かれた」


「ルシアン様……」


「俺と、結婚を前提に付き合ってくれないだろうか」


 命令ではなかった。


 私が選ぶ時間を残し、答えを待っている。


 この人はいつもそうだ。


 私の説明を聞き、自分で現場を確かめ、決断の責任を引き受ける。


「一つ、確認してもよろしいでしょうか」


「何だ?」


「結婚しても、監査官を続けられますか?」


「もちろんだ。辞めると言われたら、領主として泣いて引き止める」


「では、夫としては?」


「毎日、食事と睡眠を取るよう、もっと強く引き止める」


 思わず笑ってしまった。


「お受けします」


「本当に?」


「はい。私も、あなたの隣で働きたい。仕事の外でも、あなたと一緒にいたいです」


 ルシアン様は安堵したように目を閉じ、おそるおそる私の手を取った。


「ありがとう。今度の判断だけは、測定器で正しさを確認できないから不安だった」


「私も同じです」


「それでも?」


「二人で確かめていけばよいと思います」


 彼の手が、私の手を優しく包んだ。


 ◇


 一年後。


 私はルシアン様と正式に結婚し、グランツ辺境伯夫人となった。


 都市結界監査官の仕事も続けている。


 職員は五人から十八人へ増え、私たちが作った検査制度は北方六都市で採用された。


 ヴィクトル工房にいた職人たちも、それぞれ新しい工房へ再就職している。


 ヴィクトルの工房は閉鎖されたままだ。


 小さな修理店で、製造と検査を一から学び直していると聞いたが、私が助言することはない。


 彼の仕事は、彼自身が立て直すべきものだから。


「監査官、西区の新しい制御陣を確認していただけますか?」


 技師が図面を持ってくる。


「はい。こちらへ」


 私は原図と完成図を重ねた。


 十年前と同じ、線を確かめる仕事。


 けれど、もう誰も「なぞるだけ」とは言わない。


「セシリア、昼食の時間だ」


 ルシアン様が執務室へ顔を出した。


「あと一枚だけです」


「昨日もそう言って三枚確認しただろう」


「今日は本当に一枚です」


「では、俺も見る。二人なら早い」


 彼は当然のように隣へ座り、図面を手に取った。


 私の仕事を奪わず、すべてを任せきりにもせず、同じものを理解しようとしてくれる。


「ここは少し細くないか?」


「よくお気づきになりましたね」


「毎日、最高の監査官に教わっているからな」


「まだ許容範囲です。ですが、念のため直しましょう」


「ああ。皆が困らないように」


 私は赤い筆を取り、未来の事故につながるかもしれない細い線へ修正の印をつけた。


 今度は、その線を一緒に見てくれる人の隣で。



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


「セシリアが正しく評価されてよかった」

「ルシアンとなら幸せになれそう」


少しでもそう感じていただけましたら、下の☆☆☆☆☆から応援していただけるとうれしいです。


皆さまからの評価が、次の物語を書く大きな励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。