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アナイアレーション

灰の海峡 アナイアレーション外伝2

作者: 灰色狼
掲載日:2026/04/14


 2167年7月9日 15時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 アンカラの空は東京よりは明るく、まだどこに太陽があるのかだけは確認できた。

 ここは「あれ」の落下の影響は限定的だ。

 東京とも、ロシアの奥地とも違う風が吹いている。


 この空の下では、少なくとも墜落地点の砂塵を気にしなくていい。放射線量を気にして服を着替える必要もない。通信が不安定になることも、砂嵐に視界を奪われることもない。

 その代わり、ここには別の面倒がある。

 笑顔で握手して、腹の中では相手の財布と後ろ盾を探る類の面倒だ。


「ようこそ、アンカラへ。高山少佐」


 流暢な英語でそう言いながら手を差し出してきた男は、私より三つか四つは上に見えた。

 濃い眉に、刈り込んだ黒髪。軍人らしい立ち姿だが、制服の着こなしだけが妙に柔らかい。

 ネクタイの代わりに笑みを締めているような顔だった。


「大尉で結構です。まだ少佐じゃありません」


「失礼。あなたの上司は、いずれそうなると言っていたので」


 最初から嫌な言い方をする。

 私は差し出された手を握った。


「その上司は、雑な未来予測が趣味なんです」


「なるほど。あなたは、確かにあの人の部下のようだ」


 明らかにリースウッドの匂いがする。こいつ、少し面倒だな。

 そう思ったが、顔には出さない。


「ファルザーン・デミル大尉だ。あなたの案内役で、監視役で、必要なら通訳もやる」


「正直で助かります」


「隠しても、どうせ気づく顔をしている」


 それは褒め言葉なのか、警戒なのか。

 たぶん両方だろう。


 車に乗り込むと、デミルはアンカラの乾いた街路を流しながら、必要最低限の説明を始めた。

 大使館、武官室、現地軍との連絡手順、非常時の避難ルート、接触していい相手とそうでない相手。話はよく整理されている。

 ただ、そのどれもが「ここまでは言っていい」という線で止まっていた。


「静かですね」


 私が窓の外を見ながら言うと、デミルが肩をすくめた。


「アンカラはそういう街だ。静かに見せるのが仕事みたいな顔をしている」


「中身は?」


「それを今から知るんだろう」


 面倒くさい。だが、返し自体は悪くない。


 車は大使館へと入る。

 デミルを車内に残し、大使館で行うべき公務を片づける。

 大使館で形式的な登録と辞令交付だけ済ませ、外に出る。

 仕事場は別だ。仕事の中心は大使館の外側にある。

 車に戻るとデミルは「これで少佐ですね」と小さく口に出してから車を出した。

 車で10分ほどの場所にある商業ビルの一室。ここが主な仕事場だ。

 

「普通のオフィスビルですよね。セキュリティは大丈夫なんです?」


「ここはあんたらの国の管理下に置かれている。これで意味は分かるな?」


 高山は頷くと、仕事に取り掛かった。机と金庫と通信設備を確認し、前任の置き土産のように残された最低限の資料に目を通す。


「時間だ、俺は帰る。明日の朝、またここに来る。

 これは忠告だが、暗くなってからは外に出るな。米軍の制服を着たままは、論外だからな」


 デミルは短く告げてからオフィスを後にした。

 高山も短く、「また明日」と返し、書類のチェックを続けた。

 ひとしきり書類に目を通して、大きく伸びをする。


「あ。宿泊先確認するの忘れてた」


 その日、高山はオフィスの椅子で眠ることになった。




 2167年7月10日 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 少し早い時間に目覚め、オフィスの窓から外を眺める。

 ここでも陽が射すことはないが、それでもわずかに太陽の気配が残っている。

 ほんのわずかな違い…それすら高山には大きな違いに思えた。

 制服からTシャツとコットンのパンツというラフな格好に着替え、簡易キッチンで顔を洗う。

 周辺を漁ると、使えそうなコーヒーメーカーに、封の切られたコーヒーが出てきた。

 さっと洗ってから、コーヒーをセットする。

 水道水でコーヒーを入れることに躊躇いがあったが、懸念は処理済みの棚に放り込んだ。

 端末の画面で連絡事項や、周辺のニュースなどをチェックしているうちに、豊かとは言えないが、十分主張する香りが漂い始めた。

 少量を紙コップに注ぎ、一口なめる。

 大丈夫と確信してからカップに注ぐと、再びデスクに戻った。

 民間放送のニュースを流しながら、連絡事項や資料に目を通す。

 ニュースは旧ロシア、旧中国の管理に関する協議を伝えていた。


 朝の9時を少し回り、2杯目のコーヒーが空になった時、デミルがオフィスにやってきた。


「おはようデミル大尉。良かったらコーヒーでも」


 それを聞き、デミルは紙の袋を掲げて見せる。


「なら、コーヒーは不要か。ああ、朝食にとパンを見繕ってきたんだが、それも不要か?」


「それは、現在の最重要案件だ。早速頂くことにするよ」


 高山はそう答え、事務所内の小さな応接に移動する。デミルもその向かいに座った。

 早々にデミルの持ってきた紙の包を開け、中から焼きたての輪形のパンを取り出して、噛り付いた。

 それを見ていたデミルが笑いながら話しかける。


「日本人は行儀が良いと聞いていたが?」


「緊急事態ですからね。生きるか死ぬかって時に、気にしていられません」


 パンについているゴマをボロボロと落としながら高山はそれを口に押し込む。

 コーヒーを一口含み、デミルが問い直した時には、高山は二つ目のパンに手を伸ばしていた。

 手にしたのは馴染み深い、あんパンを思わせる形状のパンだ。

 すぐに口へと運ぶ。


「これは親近感を感じますね。中に入っているのがチーズだけど、これはこれでアリだ。

 最初に食べた、パンとソフトクッキーの中間みたいなのも、おいしかった」

 

 食べながらしゃべる高山にデミルは苦笑しながら答えた。


「最初に食べていたのがシミット、トルコの伝統的なパンだ。今食べているのがポアチャ。伝統的とまでは言わないが、一般的なものだ。

 何にしても気に入ってくれて何よりだよ」


 高山はその言葉に無言で頷きながら、ポアチャを食べ終えて再びコーヒーを口にする。


「ふう、生き返った。ご馳走様でした」


 手を合わせて、ご馳走様は日本語で言った。


「ほう、生き返って日本人に戻ったんだな。急に敬虔になったように見える」


「習慣みたいなものですよ。敬虔かはともかくとして、礼儀作法を飛ばすことはあっても忘れることはない」


 デミルの言葉に、笑いながら高山はしれっと答える。

 それを見たデミルは、笑ってから、少し真面目な顔になった。


「早速だが、今朝、あんたに非公式の接触要請が来てる」


「私にですか? ここに、でしょ。ご指名を受けるには、早すぎます」


 高山がそう言うと、デミルは懐から折りたたんだパッドを取り出し、情報を確認しながら答えた。


「あなたがここに来たことは、必要な人間にはすぐ伝わる。必要でない人間にも、だいたい伝わる」


「嫌な街だ」


「都というのは、たいていそうだ。要請者は旧日本人会の世話人という事になっている。

 合衆国と話をするのは気が乗らないが、日本人が相手なら良いって事らしい」


 高山はその言葉を複雑な思いで聞いた。

 あの状況を見ていれば納得もできるだろうが、そうでなければ、アメリカが強権的に併合したように見えるかもしれない。

 …実際強権的ではあったと思うが。

 デミルは説明を続けていた。


「接触希望者は、日本人の運送手配業。黒海側から流れてくる貨物の確認に関わる仕事をしていたらしい」


 貨物の確認に関わる…なるほど、少しだけ話が見えてきた。


「会いましょう」


「そう言うと思った」


 高山はデミルの返答が意外に感じた。ストレートに尋ねてみる。


「止めないんですね」


「止めるさ。だが、止めても行くだろう?」


「ええ、多分」


「なら無駄な仕事はしない」


 高山はデミルを見る。

 最初の印象より、少しだけましだった。




 2167年7月10日 16時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 接触場所は、クズライ広場から少し外れた古い喫茶店だった。壁は黄ばんでいて、コーヒーは濃すぎる。そういう店だ。

 高山とデミルは普通に店に入る。もちろん、二人とも私服だ。


 指定の席には、既にコーヒーが二つ置かれていた。

 一つは手つかず。もう一つは半分ほど減っている。


「来ていたな」


 高山が小さく言うと、デミルは店の出入口と奥の非常口を確認に動く。


「十分前にはな。待って、消えた」


 当然そこにはいないようだった。高山はすぐに尋ねる。


「店員は?」


「覚えていない、だとさ。便利な記憶だ」


 デミルはお手上げのポーズをしながら答えた。

 高山はその席の周辺を確認する。

 テーブル上の少し減ったカップの下、カップソーサーの下に小さな紙片がある。

 手にして二つ折りの紙を開くと、貨物番号の一部らしい数字列と、港湾コードの断片が殴り書きされている。


「怖くなって逃げた?」


「違うと思う。怖かっただけなら、こんなものは残さないでしょ。

 残す必要があった。そしてすぐにこの場を去る必要があった」


「先回りされた?」


「そう考える方が自然ですね」


 紙片をポケットに入れて、コーヒーの支払いを済ませて外に出る。

 慌ててデミルが追いかけてきて、率直に言った。


「帰るべきだ。

 あなたはここに着いたばかりだ。現地の縄張りも、人の線も、何も分かっていない」

 

「そのとおりですね」


「理解が早くて助かる」


「でも、帰りません」


 真顔で高山がデミルに告げると、デミルは一瞬険しい表情を見せる。

 一拍置き、その表情を崩して言った。


「だと思った」


 高山はデミルに告げる。

 

「情報が消えたんじゃない。情報を持った人間が消えたんです。

 後で放っておく方が、必ず面倒になる」


「今でも十分面倒だ」


「今はまだ、追える面倒です」


 高山は少し笑いながらデミルに言った。

 デミルはその顔を見て、深く息を吐いた。


「あなたの上司は、人の選び方だけはまともらしい」


 あまり褒められた気はしなかった。





 2167年7月11日 9時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 正式な捜査権限はない。

 だから、やれることは限られている。限られているが、ゼロではない。


 日本人会の世話役、港湾関連の業者、大使館の事務方、運送手配会社の担当を順に当たった。

 相手ごとに言い方を変える。

 巻き込みたくない相手には「名前は伏せる」と言い、責任を恐れる相手には「今ここで教えてくれれば正式照会にしない」と言う。

 脅すのは最後だ。最初から脅すと、相手は閉じる。


 昼前になって、ようやく糸口が出た。

 消えた手配業者は、二日前にイスタンブールへ移動していた。表向きの理由は、積み替え貨物の最終確認。

 だがその貨物が妙だった。


 名目は医療機器。

 だが、保税倉庫での扱いは過剰に厳重だった。温度管理も、搬入ルートも、警備も、医療機器としては不自然だ。

 医療機器として…物は言いようだ。高機能医療カプセルだとか、移植用臓器か高密度電源材でも運ぶ時のそれに近い。

 さらに、同じ貨物番号が別名義で二重登録されている。


「雑な隠し方…と言うよりも隠す気があるのかな」


 高山の呟きに、デミルは椅子の背にもたれて言った。


「雑だから隠せる場合もある。完璧すぎると、逆に目立つ」


「経験談ですか?」


「一般論だ」


「便利ですね。その一般論」


「便利じゃなければ一般論にならない」


 失踪した男の最後の足取りは、ボスポラス海峡に近い保税ヤードで途切れていた。

 港の顔をした裏口。誰もが使うが、誰も責任を取らない場所だ。


「行ってみますかね」


 高山がそう口にすると、デミルは即答した。


「ダメだ」


「残念ですが、ここでは私がボスですよ。そしてあなたは協力者だ。来いとは言いません」


 高山の言葉に、デミルは少し強い調子で答える。


「もちろん私は行かない。あなたも行かせない」


 少し間をおいて、高山は尋ねた。


「管轄ですか?」


「そうだ」


「便利ですね、管轄って」


「便利だ。問題が起きるたびに、誰の仕事でもなくなる」


 高山は少し笑う。

 

「その理屈、嫌いじゃないです。でも今回は私の仕事にします」


「勝手だな」


「ええ、知ってます」


 デミルはしばらく高山を見ていたが、結局立ち上がった。


「いいだろう。勝手に死なれると、書類が増える」




 2167年7月11日 23時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 イスタンブール


 海峡の夜は、アンカラの夜と違って湿っていた。

 港の灯りが黒い水に砕けて、風が錆びた鉄の匂いを運んでくる。羽田の雰囲気と似たものがあった。


 保税ヤードの外れにある小さな倉庫。そこが最後の目印だった。

 表から入れば警備に止められる。だから裏から回る。

 こういう時は軍の訓練よりも、壊れたフェンスを見つける勘の方が役に立つ。


「軍人らしくない」


 フェンスを越えながらデミルが言った。

 

「褒め言葉として受け取ります」


「褒めていない」


「分かってます」


 倉庫の中は暗かった。だが、完全な無人ではない。

 足音を殺して進む。

 無人運搬機が倉庫内を移動し続け、コンテナの入れ替えを続けている。

 中には明らかに軍仕様小型コンテナなども混じっていた。

 コンテナラックの奥に事務スペースがあり、そこの机に開かれたままの端末が目に留まる。


 静かに、慎重に進む。

 端末に表示されているのは貨物記録。番号、経路、名義。

 端末の脇に、小型の記録媒体が一つある。

 それをポケットに入れた瞬間、金属音がした。


「動くな」


 低い声。

 振り向くと、三人いた。

 軍ではない。

 手には警棒を持っているが、腰には軍用ホルスター。

 警備会社の制服に似た服装だが、目が違う。

 仕事で銃を持つ目ではない。

 持っていても別に構わないと思っている目だ。


「民間警備にしては殺気が濃いですね」


 高山がそう口にすると、一人が鼻で笑った。


「観光客には見えんな」


「仕事で来ています」


「奇遇だな。俺たちもだ」


 その間に、デミルは半歩だけ私の斜め前に出ていた。

 撃ち合いになれば不利だ。数が悪いし、ここは相手の庭だ。


「荷物を置いて帰れ」


 相手が言う。


「それで済ませてやる」


 高山は返事をしなかった。

 視線だけを左へ流す。

 床の左奥に、人影があった。壁にもたれて座り込んでいる。

 失踪した手配業者だ。腹を押さえている。血が黒く見える。


 目が合った。

 その一瞬で分かった。もう長くはない。


「困ったな」


 高山は小さく言った。


「何がだ」


「持ち帰りたいものが増えた」


 高山はデミルの背をトンと叩き叫んだ。


「伏せろ!」


 そのまま手配業者の方へと飛び込み、デミルが横の照明を撃ち抜くと同時に机の陰に身を潜めた。

 暗闇。怒号。二発、三発。

 撃ち返すためじゃない。退路を作るための射撃だ。


 床を滑るように移動して、私は技術通訳の肩を掴んだ。軽い。軽すぎる。


「まだ話せますか」


 耳元で訊くと、彼は血の混じった息を吐いて笑った。


「遅いよ……」


「すみません」


「荷は……一つじゃない」


「何を運んでいるんです?」


「みんな……少しずつ持ち出してる……人も、記録も、部品も……」


「どこへ?」


「売れる所へ……」


 その言葉で十分だった。


「行きます」


 私が言うと、彼は首を振った。


「俺はいい……それより、データを……」


「ええ、テーブルにあったものは確保しました」


「なら……まだ、ましだ……」


 デミルが怒鳴った。


「高山!」


 私は歯を食いしばって立ち上がる。

 連れていけない。今ここで無理をすれば、すべてが水の泡になる。


 高山は彼の上着の襟を整えた。せめて、雑に放られた死体には見えないように。


「すまない」


 一言だけ残し、デミルの援護に向かう。

 ズボンの内側に仕込んだ小型の9㎜オートマチックを手に、敵の位置を確認しようとするが、見えない。

 デミルが、視線で一番近い窓を示した。

 高山が頷くと、デミルは窓枠に数発撃ち込む。

 高山は窓に駆け寄り、そこにあった事務椅子を掴んで叩きつけた。

 樹脂製の窓は割れない。だが、窓枠が外れかかっていた。


「急げ!」


 デミルが叫びながら、相手の動きを牽制する射撃を続ける。

 高山は窓枠に全体重をかけて押した。

 ギシッと樹脂の軋む音が響く。

 さらに体重をかけ続けると窓枠が外れた。

 高山はそのまま外へ転がり出る。

 デミルもそれに続いた。


 倉庫を出た時、背後で銃声がもう一度だけ響いた。




 2167年7月12日 4時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 事務所に戻り、高山は端末に向かい記録媒体の解析を行った。

 黙々と情報の流れを追い、必要に応じて暗号解読を走らせる。

 作業は朝までかかった。


 旧ロシア圏から、重要物資、人材、技術記録が、第三国を経由して少しずつ流れている。

 それは政府の正式な移送ではない。単純な密輸でもない。

 誰もが自分の取り分だけを掴もうとしている。

 国家も、軍も、民間も、その境目を曖昧にしたままのいびつな構図だ。


「戦争の前か、後か、分からないな」


 私が言うと、デミルは窓の外の明るくなり始めた空を見た。


「両方だ。表では戦争の準備をして、裏では戦後の席取りを始めている」


 私は端末の画面を見つめた。

 完全な証拠ではない。だが十分に嫌な構図だ。


「全部上に渡せば、大騒ぎになりますね」


「そうだろうな」


「でも、そうすると次の線が切れる」


「それも分かっている顔だな」


 私は椅子にもたれた。


「全部持って帰ると、次が死ぬんです。

 こういうのって、勝つより長く触っていた方が得な時がある」


「君の上司も、そう考える?」


「多分。嫌なくらいに」


 デミルは初めて、少しだけ笑った。


「君たちの国は、全部知っているふりが上手い」


「知らないって言うと、もっと面倒になりますから」


「正直だな」


「現場では大事ですよ」


 問題は、どこまで報告するかだった。


 高山は記録を二つに分けた。

 一つは正式報告用。もう一つは、自分の手元に残すための整理メモだ。

 正式報告には、貨物の流れと複数ルートの存在、第三国経由の痕跡、現地協力者の危険性までを書く。

 だが、協力した下っ端の名と、次につながる細い線は削る。


 綺麗な報告ではない。

 だが、綺麗にしすぎると誰かが安心する。そうなれば話が終わる。

 この情報の為に命を落とした人がいる。

 せめてその価値を少しでも高くしたかった。




 2167年7月12日 9時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ 


 安全回線を開くと、リースウッドはすぐに出た。


「早いですね」


 私が言うと、画面の向こうで彼は書類から目も上げずに答えた。


「君からの連絡が早朝来たんだ。面倒事なのはわかる。それで?」


「面倒でしたよ」


「知っている。だから聞いている」


 私は要点だけを報告した。

 失踪した接触者。黒海経由の特別貨物。第三国ルート。複数勢力。

 そして、全部は拾っていないこと。


 報告が終わると、リースウッドは数秒黙った。


「それで十分だ」


「意外ですね。もっと取れと言われるかと思いました」


「全部拾うな。次に困る」


「やっぱり」


「それと」


 彼はそこで初めて顔を上げた。


「綺麗な報告書を書くな。そうすると上が安心する。安心すると、ろくな判断をしない」


 私は思わず笑いそうになった。


「では、少し汚しておきます」


「君は相変わらずだな」


「褒め言葉として受け取ります」


「好きにしろ」


 通信が切れる直前、彼は付け足すように言った。


「シンジ。これから大仕事が始まる。休む暇すらない。

 2日以内に重要な任務に就いてもらうことになる」


「1日の猶予はありますね」


 高山がそう答えるとすぐ、回線が落ちた。

 デミルが壁にもたれてこちらを見ていた。


「何と言っていた」


「十分だ、全部拾うな、綺麗に書くな、です」


「嫌な上司だな」


「同感です」


「それで、君はどうする」


「報告書を書きます」


「その後は」


「コーヒーでも飲みますよ。閑職らしいので」


「君は閑職の意味を知らないらしい」


「最近そう思い始めました」




 2167年7月13日 18時 ヨーロッパ連合国トルコ邦 アンカラ


 報告書は短くまとまった。

 整理された文章、控えめな推定、慎重な結論。

 そのどれもが嘘ではない。だが、全部でもない。


 窓の外では、乾いた夕方の光が街を平たく照らしていた。

 ここはまだ静かだ。

 だが、その静けさの下で、皆が次の駒を動かそうと探り合いをしている。


 戦争は、名目だけで始まるわけじゃない。

 もっと前から、別の形で始まっている。

 人を動かし、記録を動かし、責任の線だけを曖昧にして。


「これで終わりか」


 デミルが、珍しく静かな声で言った。


 私は窓の外を見たまま答えた。


「いや。たぶん、これから先はもっときつくなりますよ」


 デミルは何も言わなかった。

 その沈黙だけで十分だった。


 私は報告書を閉じ、冷めたコーヒーを口に運んだ。

 苦かった。

 だが、羽田で飲んだコーヒーよりは、少しましに思えた。


「ああ、澪に連絡入れないといけないのに…不機嫌になられると困るな。メールだけは入れておくかな」


 高山もまた彼女たちとなんでもない話をしたいと思っていた。

 だが、次のミッションが届いていた。

 明日、世界は巨大な地震に見舞われるだろう。

 それを縫うための手筈を整えなければならない。

 きわめて政治寄りの仕事だ。


「人は守りたいと思うものがあれば戦えるものですね。二佐」


 日本語で語られたその言葉は、デミルには理解できなかった。


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