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社畜だった私が「友達が欲しい」と願ったら、召喚されたのは冒涜的な怪異(かわいい)でした ~実家は恐怖で逃げ出しましたが、私は最強のペットと優雅にスローライフを満喫します~

作者: 北川ニキタ

「……というわけでですね。誠にお気の毒なあなたには、剣と魔法の世界で第二の人生をご用意しようと思うのですが……。ようするに、今流行りの異世界転生です」


 目の前には、息を飲むほど美しい女神様がいた。

 黄金の髪に、慈悲深い瞳。背後には後光が差しており、直視するだけで目が潰れそうなほどの神々しさだ。


「い、異世界転生……!? あの、トラックに轢かれて目が覚めたら……みたいな、アレですか?」


 わたしは状況を飲み込もうと、まじまじと女神様を見つめ返した。

 過労死。

 あまりにありふれた死因だが、わたしのそれは壮絶だった。

 サービス残業は月二百時間を超え、家に帰るのはシャワーを浴びるためだけ。主食は栄養ドリンクとコンビニのおにぎり。

 あの日も、十五連勤目の深夜三時だった。

 終電を逃し、ゾンビのように夜道を歩いていた時、ポケットのスマホが『至急案件』の通知で震えたのだ。

 その瞬間、心臓が「もう無理です」とストライキを起こした。

 アスファルトに倒れ込み、薄れゆく視界で見たのは、コンビニ袋から転がり落ちたフライドチキン。

 ああ、せめて一口、食べておけばよかったな……。

 そんな未練と共に終わった人生。


「ええ、その通りです。前世で苦労されたあなたには、特別大サービスをご用意しました! この中からお好きなを選んでください!」


 女神様は自信満々に胸を張り、キラキラとしたエフェクトと共に空中にリストを投影した。


「たとえば、これは『全属性魔法』の適性! 他には、あらゆる嘘を見抜く『真実の鑑定眼』! 他には成長速度500倍の『天与の才』なんかもありますよ! これなら魔王だって討伐できちゃうかもしれないですよ!」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの背筋に悪寒が走った。

 脳裏に浮かぶのは、前世の上司の笑顔だ。『君ならできるよね?』というキラーフレーズと共に山積みされる書類。期待という名の暴力。

 わたしは悲鳴に近い声を上げて、激しく手を振った。


「い、要りません!! 全っ然要りません! その『有能セット』、今すぐゴミ箱にダンクシュートしてください!!」


「は、はい……? 普通は欲しがるものですが……」


 女神様が目を丸くして困惑している。

 わたしは身を乗り出し、切実な思いを訴えた。


「だって、そんな能力があったら、また仕事が降ってくるじゃないですか! 有能さは呪いです! わたしは無能になりたいんです! 誰からも期待されず、責任なんて欠片も負わされず、ただひたすらにダラダラと生きたい……!」


「は、はあ……。随分と具体的というか、悲痛な叫びと言いますか……」


 女神様が若干引いている。

 だが、わたしは譲れない。労働はもう懲りごりだ。これからのわたしにできること、それは「怠惰」のみ。

 魔法? 剣術? そんな汗をかくことはお断りだ。来世はナマケモノのように、ただ呼吸をして二酸化炭素を排出し、光合成をする植物のように生きたい。

 わたしは上目遣いで、最大限に愛想を振りまきながら切り出した。

 ここで可愛こぶるのは、元社畜営業職として骨の髄まで染み付いた悪い癖だ。


「わたし、のんびり気ままに過ごしたいんです。日向ぼっこしながら二度寝して、お腹が空いたら起きて……そういう、スローライフを送らせてください!」


「なるほど、平穏な暮らしをご所望なのですね。……わかりました。チートは無しで、生活に困らない程度の裕福な環境をご用意しましょう」


「ありがとうございます! あ、それとですね、一つだけでいいんです、ワガママを言ってもそいいですか!」


「なんでしょうか? あまり世界の理《ことわり》を乱すような願いは叶えられませんが」


「お友達が欲しいんです」


「まあ、お友達ですか。それは素敵な心がけですね」


 女神様が安心したように、花が咲くような微笑みを浮かべた。

 わたしはそれを見て、心の中でニタリと口角を吊り上げる。


「はい! あの、わたし、前世からずっと大好きだったんです。背筋がゾクゾクするような、湿度の高いジャパニーズ・ホラーに出てくるようなお友達が!」


「……はい?」


「具体的にはですね、理解不能な非ユークリッド幾何学(きかがく)構造を持つ子とか、冒涜的で名状しがたい怪異とお友達になりたいなって! 壁のシミだと思ったら無数の眼球と触手の集合体だったりとか、見るだけで理性を削り取ってくるような、不定形の肉塊とか!」


 わたしはうっとりと天井を仰いだ。

 ああ、思い出すなぁ。

 子供の頃からそうだった。周りの子がウサギやクマのぬいぐるみを欲しがる中、わたしだけは雨上がりの路地裏でうごめく正体不明の粘菌や、図鑑で見た深海生物のグロテスクな捕食シーンに心をときめかせていたっけ。

 大人たちは気味悪がったけれど、わたしには彼らが一番美しく見えた。

 だって、人間は決まった形を取り繕って笑顔で嘘をつくし、善意の顔をして仕事を押し付けてくる。

 でも、形を持たない怪異たちは違う。

 彼らは「狂わせる」「捕食する」「侵食する」という本能に忠実だ。そこには嘘も建前もない。ただ純粋な、原初の混沌があるだけ。

 その混じりけのないドロドロとした純真さが、疲れたわたしの心には一番の特効薬なのだ。


「あ、物理攻撃が効くゾンビとか、スケルトンとかはNGでお願いします。殴れば倒せる相手なんて、ただの野生動物と変わりませんから。わたしが求めているのは、こちらの常識が一切通用しない、生理的嫌悪感を催すような『深淵』タイプなんです! わかりますかこの違い!?」


 女神様の美しい顔が、ひきつって凍りついた。

 無理もない。けれど、こればかりは譲れない。


「い、いえ、あなたが転生するのは西洋風のファンタジー世界でして……。ドラゴンとか精霊はいますが、そういう……東洋的で陰湿な怨霊や、見てはいけないモノは、わたしの管轄外と言いますか……」


「ええっ!? そんな、苺の乗っていないショートケーキじゃないですか!」


 わたしは絶望のあまり、その場に崩れ落ち、純白の床を転げ回って駄々をこねた。


「嫌です嫌です! わたしの癒やしを奪わないで! 夜な夜なふすまの隙間からこちらを覗く目玉と見つめ合いながら眠るのが夢だったのに!」


「わ、わかりました! 善処します! 善処しますから! もう転生してください、お願いします!」


 ◇


 そして、わたしは転生した。

 名前は、フウワ・ド・ニュルル。

 歴史ある「ニュルル公爵家」の長女として生を受けたわたしは、現在十二歳。

 絹糸のように艶やかな淡い髪に、深海を閉じ込めたような宝石の青い瞳。鏡に映る自分は、黙っていれば天使も裸足で逃げ出す美少女だ。

 そう、黙っていれば。


「……いない」


 わたしは自室のベッドの下を覗き込み、深く深く溜息をついた。


「いないじゃないですか、女神様の嘘つき」


 転生して十二年。

 この世界は確かに魔法があり、精霊が舞う美しい世界だった。

 裕福な家、美味しい食事、ふかふかのベッド。前世で求めていた安息はすべてここにある。

 だが、わたしの求めていた「彼ら」だけはどこにもいなかった。

 夜の廊下を歩いても、背後に誰かが立っている気配はないし、お風呂で髪を洗っていても、指に知らない誰かの髪の毛が絡まることもない。

 あまりに健全で、清潔すぎる世界。

 光に満ち溢れすぎていて、退屈で死んでしまいそうだ。


「おねえさまー、まだ準備なさっていないのですか?」


 部屋のドアがノックもなしに開かれ、愛らしい少女が入ってきた。

 妹なのに歳は一緒。

 だけど母親が違うという、なんとも複雑な関係である。

 フリルのついた豪奢なドレスを身にまとい、勝ち気な瞳でわたしを見下ろしている。


「お父様がお待ちですわ。今日は大切な『洗礼の儀』なのですから、恥をかかせないでくださいよね」


 ザコワはわたしのドレス姿を一瞥し、ふふんと鼻を鳴らした。

 わかりやすいドヤ顔だ。首の角度が四十五度くらい傾いている。

 

「あら、フウワったら。まだそんな薄汚れた格好をしているのですか?」


 ザコワの背後から、香水のきつい匂いと共に派手なドレスの女性が現れた。

 義母のババリアだ。

 父の後妻であり、ザコワの実母。そしてわたしにとっては、血の繋がらない赤の他人である。

 彼女は亡くなった実母の娘であるわたしを目の敵にしており、ことあるごとに嫌味を言ってくるのが日課だった。


「そのドレス、わたくしがわざわざ古着屋から選んで差し上げたものですのに。お前のような陰気な娘には、新品のシルクなんて豚に真珠ですからねぇ」


 ババリアが扇子で口元を隠し、おーっほっほと高笑いをする。

 典型的な「いじめ」だ。

 普通の十二歳の少女なら、惨めさで泣き崩れているところだろう。

 しかし、わたしは心の中で鼻で笑った。

 かわいいもんだねぇ、二人共。

 前世のブラック企業時代を思い出す。

 あの上司は、わたしのデスクに毎朝栄養ドリンクの空き瓶タワーを建設し、ミスをすれば熱々のホットコーヒーが入ったマグカップを「手が滑った」と言って投げつけてきた。

 人格否定の罵倒、終わらないサービス残業、休日返上の接待ゴルフ。

 それに比べれば、古着のプレゼント?

 もはや慈善事業レベルの優しさだ。

 ヴィンテージ物だと思えばむしろオシャレですらある。

 衣食住が保証されたニート生活。これ以上の幸福があるだろうか? いや、ないね!


「ええ、ありがとうございますお義母様。とても着心地が良くて気に入っていますわ」


 わたしは淑女の仮面を被り、慈愛に満ちた聖母のような微笑みを向けてやった。


「っ……! な、なによその余裕ぶった顔! ムカつきますわね!」


 地団駄を踏む妹と、顔を真っ赤にして引きつらせる義母を横目に、わたしは優雅に廊下へ出る。

 早く終わらせて、地下室の探索でもしようかな。あそこなら、なにか得体の知れない黒いシミとかありそうだし。


 ◇


 屋敷の広間には、巨大な魔法陣が描かれていた。

 今日は、貴族の子女が一生のパートナーとなる「精霊」を召喚する儀式の日だ。

 父と義母、そして使用人たちが見守る中、まずはザコワが進み出る。


「参りますわ!」


 ザコワが魔法陣に手をかざすと、カッと眩い光が溢れ出した。

 吹き荒れる熱風。巻き上がる紅蓮の炎。

 その中心から、王冠のようなトサカを持つ巨大な猛禽類が姿を現した。


「おお……! あれは幻獣級の精霊、炎帝鳥ガルーダか!」


 父が興奮で声を裏返らせた。

 炎を纏った翼を広げ、ガルーダは威圧的に鳴き声を上げる。その熱気だけで、カーテンが焦げ付きそうだ。


「さすがはわたくしの娘! どこぞの誰かとは出来が違いますわね!」


 義母のババリアが大げさに手を叩いて喜んでいる。


「見ましたか、お姉様? これが才能というものですわ」


 ザコワが勝ち誇った顔でわたしを見る。またドヤ顔だ。今度は顎が外れそうなくらい反り返っている。本当にかわいい。


「いいな、ザコワちゃん。とても暖かそうで、冬場は湯たんぽ代わりに重宝しそうだね」


「……っ! 神聖な精霊を暖房器具扱いしないでくださいまし!」


 さて、次はわたしの番だ。


「とっとと済ませろ、フウワ。お前ごときの魔力では、せいぜい下級の精霊がいいところだろうがな」


 父の冷たい言葉を右から左へ受け流し、わたしは魔法陣の前に立った。

 正直、精霊とかどうでもいい。

 キラキラしてて眩しいし、見ているだけで視力が落ちそうだ。わたしはやる気なく、ペタリと魔法陣に手を置いた。

 その瞬間だった。

 ――ヂュルリ。

 耳鳴りのような、あるいは腐った果実から粘液を啜るような音が、脳内に直接響いた。


「なっ、なんだ!?」


 父が叫ぶ。

 広間の照明が、チカチカと不穏に明滅を始めた。

 気温が下がる。吐く息が白くなるほどの冷気が、足元から這い上がってくる。

 これは、魔法じゃない。

 まるで、深夜のテレビ放送が終わった後のような、不安を掻き立てる静寂とノイズ。

 魔法陣が輝くのではない。

 そこだけ色が抜け落ちたように、灰色の霧が立ち込め始めた。


「ひっ……!?」


 ザコワの頭上にいたガルーダが、怯えたように炎をかき消し、キャインと情けない声を上げて消滅した。

 わたしの心臓が、早鐘を打つ。

 この感覚。この、肌にまとわりつくような、ネットリとした湿気。カビと古い畳の混じったような、懐かしい匂い。

 まさか。嘘でしょ。

 女神様、あなたって人は――!


 ――■■、■■■。


 人間の発声器官では再現不可能な、不快なノイズが響き渡り、魔法陣から「それら」は溢れ出た。

 一つは、コールタールでもぶちまけたような黒い不定形の何か。

 その表面には、無数の「目玉」がギョロギョロと不規則に浮かび、それぞれが勝手な方向を向きながら、時折一斉にこちらを見つめてくる。

 もう一つは、白磁のような光沢を帯びた、巨大な筒状の何か。

 顔には目も鼻もない。ただ、先端にある口は円形の吸盤状になっており、その内側には鋭利な牙が、まるでヤツメウナギのように何重もの同心円を描いてビッシリと奥の奥まで並んでいる。  それだけじゃない。

 広間のカーテンの裏、天井の梁の陰、シャンデリアの隙間。

 至るところから「視線」を感じる。まだ姿を見せていないだけで、この空間にはもっとたくさんの「お友達」が潜んでいるのだ。

 気配だけでわかる。天井裏で何かが這いずり回る音が聞こえる。


「あ……あ、あ……ッ!」


 壁際に控えていた使用人たちが、次々と白目を剥いて倒れていく。口からカニのように泡を吹き、痙攣している者もいる。

 義母のババリアは、あまりの恐怖に顔面の筋肉を引きつらせ、扇子を取り落とした。


「い、いやぁぁぁぁッ! こっちを見ないで! 来ないでぇぇぇッ!」


 金切り声を上げ、這いつくばって後退る義母。その美しいドレスの裾が、失禁でみるみる濡れていくのも構わずに。

 父も、ザコワも、ガチガチと歯を鳴らして震えていた。

 本能が「捕食者」を前にした小動物のように、生存を諦めているのだ。

 けれど。

 けれど、わたしだけは違った。


「……んぐっ、か、かわ、いい……!」


 わたしの口から、我慢できないほどの歓喜の吐息が漏れた。

 この不条理な造形! 生物学を全力で殴り飛ばした存在感!

 見てください、あの黒い子の目玉の配置。フィボナッチ数列を完全に無視したデタラメさが最高にクールじゃないですか!

 白い子のあの幾何学的な円形の口腔なんて、吸い込まれそうな機能美すら感じるわ!

 最高だ。最高すぎる。

 これよ、わたしが求めていた「癒やし」は!


「あなたたち、名前は? わたし、フウワっていうの!」


 わたしは満面の笑みで、ドレスの裾をつまんでカーテシーをした。

 恐怖? あるわけがない。

 前世の満員電車で見かける、死んだ魚のような目をしたサラリーマンの群れの方がよっぽどホラーだったわよ。

 わたしの問いかけに、彼らは応えた。


――■■、■■■……。


……£%#&……。


 黒い方からは、泥沼の底から湧き上がるような湿った気泡の音が。

 白い方からは、ガラスを鉄の爪で引っ掻いたような、神経を逆撫でする高周波が響く。

 普通なら鼓膜が破れ、精神が崩壊するような冒涜的な咆哮。

 けれど、わたしにはわかった。

 彼らは今、一生懸命わたしに挨拶をしてくれたのだ。


「ふふ、なんて可愛らしい声……! 鼓膜を直接やすりで削るようなこの音色、ゾクゾクしちゃう」


 わたしは頬を染めて、うっとりとその不協和音に聞き入った。

 普通の人間なら発狂もののノイズだけれど、わたしにとっては小鳥のさえずりよりも心地よい。

 彼らはモゴモゴと、あるいはグチャグチャ、何かを訴えかけている。特定の響きが含まれていないその音を聞いて、わたしはピンときた。


「そうか、あなたたち、まだ名前がないのね? それとも、こちらの世界に合わせて新しい名前が欲しいのかな」


 なんて健気なんだろう。召喚されたばかりの彼らは、わたしに名付け親になってほしいと甘えているに違いない。

 わたしはポンと手を叩いた。


「じゃあ、わたしが名前をつけてあげる! えーっとね……」


 わたしは彼らの姿をまじまじと見つめる。

 黒いタールのような不定形と、白い陶器のような質感。

 うん、シンプルイズベストだ。


「あなたは『クロ』! そっちのあなたは『シロ』ね!」


 あまりに直球すぎるネーミングだが、これくらいの方が愛着が湧くというものだ。

 名前をもらったのが嬉しかったのかと、クロの無数の目玉が一斉にわたしに焦点を合わせた。

 そして、シロが軟体動物のように身体をくねらせながら、ぬらりとわたしに近づいてくる。


「ひ、ひいいいっ! フウワ! 逃げ……っ!」


 父が叫ぼうとした時だった。

 シロの上半身がパカリと割れ、わたしの頭をまるごとバックリと飲み込んだ。


「ぎゃあああああああああああ!! おねえさまが食べられたぁぁぁぁ!!」


 ザコワの絶叫が屋敷に響き渡る。

 使用人たちは全滅、義母は気絶、父は腰を抜かしてパクパクと口を開閉させているだけの置物と化した。

 視界が真っ暗になった。

 頭を噛まれる感触。普通なら死ぬ。

 でも、わたしにはわかる。

 甘噛みだ、これ。


 あ、あったかい……。この脳みそを直に撫で回されるようなヌメヌメ感、癖になるかも……!


 シロの口の中で、わたしは至福の表情でダブルピースを作った。

 どうやらわたしのスローライフは、最高にホラーで、冒涜的で、ハッピーなものになりそうだ。


◇◇◇


 ポンッ、という間の抜けた音がして、わたしの頭がスポリと開放された。


「ぷはっ! ……あ、頭、ある? 溶けてないよね!?」


 わたしは慌てて自分の頭部をペタペタと触って確認した。

 無事だ。髪の毛一本すら溶けていない。むしろ、謎の粘液のおかげでトリートメントをした後のようにツヤツヤになっているような!?

 ほっと胸を撫で下ろし、わたしは目の前の白い巨体を仰ぎ見た。


「もう、シロちゃん! いきなり噛みつくのはダメだって! 挨拶代わりの甘噛みかもしれないけど、人間相手だと即死案件だからね!?」


 わたしが叱ると、シロちゃんは円形の口をしょんぼりと窄め、キュウ……と子犬のような(音程は黒板を爪で引っ掻いたような音だが)声を漏らした。

 どうやら彼なりに愛情表現だったらしい。反省している姿を見ると、つい絆されてしまう。


「わかればいいのよ、わかれば。……よしよし」


 ヌメヌメした白い肌を撫でてやると、シロちゃんは嬉しそうに身体をくねらせた。

 シロのかわいらしい反応に和んでいると、ふと、腰を抜かしたままのザコワと目が合った。彼女は白目を剥きかけながら、ガチガチと歯を鳴らしている。


「あ、ザコワちゃん……大丈夫? ごめんね、この子たち躾がなってなくて。ほらシロちゃん、妹に謝って。怖くないよーって」


 わたしが促すと、シロちゃんは素直にザコワの方へ顔を向け、友好の証として口を大きくパカッと開いた。

 内側にびっしりと並んだ数千本の牙が、ドリル回転しながら駆動音を上げる。


 ギョルルルルルルルルルル!!!!


「ひっ、い、いやぁぁぁっ! 喰われるぅぅぅ! お姉様が私を喰わせようとしてるぅぅぅ!」


「ち、違う! それは笑顔! とびっきりの笑顔だから!」


 わたしの必死の弁解も虚しく、ザコワは半狂乱で床を這って逃げていく。

 まずい。完全に誤解された。

 このままでは「妹を魔物にけしかけた悪女」として通報されてしまう。


「ええい、衛兵! 衛兵は何をしている! その忌まわしい化け物を今すぐ排除しろ!」


 正気を取り戻した父が、顔面蒼白のまま叫んだ。

 最悪だ。父までパニックを起こしている。

 扉が蹴破られ、槍を持った武装兵たちが雪崩れ込んできた。


「おお、旦那様! ご無事ですか!」


「かかれ! なんとしてでも串刺しにしろ!」


 殺気立った兵士たちが、一斉にこちらへ穂先を向ける。

 待って、串刺しは困る。わたしは平和に暮らしたいだけなのに!


「ちょ、タンマ! 話せばわかります! この子たちはただ見た目がエグいだけで、根はいい子たちなんです!」


 わたしは両手を上げて制止しようとした。

 だが、その殺気を「敵意」と感知してしまったものがいた。

 足元にいたクロちゃんだ。


 ■■■■――――!!


 クロの表面にある無数の目玉が、一斉にカッ見開かれた。

 ヤバイ、と思った時にはもう遅かった。

 ドス黒いオーラが広間全体に炸裂する。

 物理的な攻撃ではない。もっとタチの悪い、精神へのダイレクトアタックだ。


「あ、あ、あががが……?」


 先頭を走っていた衛兵が、突然槍を放り出して踊り出した。

 続く兵士たちも次々と膝から崩れ落ち、「宇宙の真理が見える……」「お母さん、僕だよ、深海魚だよ……」などと、意味不明なうわごとを呟きながら床を転げ回り始めた。

 一瞬にして、広間が狂気の坩堝と化す。


「わああああっ! クロちゃん!? 何したの!? 何を見せたの!?」


 わたしはクロちゃんを揺さぶった。

 彼は「えっへん」と言わんばかりに目玉をグリグリと動かしている。どうやら「ご主人様を守りました!」と主張しているらしい。


「守ってくれたのは嬉しいけど! 過剰防衛! それ完全にアウトなやつだから! 社会的に!」


 衛兵たちのあられもない姿を見て、わたしは顔を覆った。

 これ、後で正気に戻ったら全員トラウマものじゃないか? 慰謝料請求されたらどうしよう。


「ば、バカな……! 我が家の精鋭騎士団が一瞬で……!?」


 父がガタガタと震えながら後退る。

 義母のババリアは、すでに泡を吹いて完全に気絶していた。それが一番幸せかもしれない。


「お、お父様……あの、これは事故でして……」


 わたしが弁解しようと一歩踏み出すと、父とザコワは「ヒィッ!」と悲鳴を上げて壁にへばりついた。

 クロとシロが、わたしの左右で「ご主人様の敵はどこだ」とばかりに威嚇音を上げているせいだ。

 やめて、威嚇しないで。余計に話がこじれるから。


「く、来るな! 悪魔! 呪われた娘!」


「誤解ですってば! ちょっとペットの躾に失敗しただけで……」


 わたしはズズズ……と勝手についてくるクロとシロを手で制しながら、二人に歩み寄る。


「ひぃぃぃ! 助けてくれぇぇ!」


 父は限界だったらしい。

 懐から羊皮紙の束を取り出すと、震える手でわたしに突きつけた。


「や、やる! 全部やる!」


「え?」


「この屋敷も! 領地も! 爵位もくれてやる! だ、だからワシらを解放してくれぇぇぇ!」


 父は涙目で叫ぶと、気絶した義母とザコワを米俵のように抱え、火事場の馬鹿力で窓を突き破って逃走していった。

 ガシャン! という派手な音と共に、わたしと「お友達」だけが取り残される。


 広間に、気まずい沈黙が流れた。

 床に散らばる権利書の束と、精神崩壊してピクピクしている衛兵たち。


「……えっと」


 わたしは権利書を拾い上げ、深い深いため息をついた。

 実家を追い出されるどころか、実家の人間全員が逃げ出してしまった。

 これ、どう見てもわたしが屋敷を乗っ取った悪役だよね?

 違うんです。わたしはただ、この子たちと静かに暮らしたかっただけなのに。


「はぁ……。まあ、家があるだけマシ、なのかな……」


 足元ですり寄ってくるクロちゃんとシロちゃんを見る。

 彼らは「やったねご主人様! テリトリーゲットだよ!」と無邪気に喜んでいる。

 その純粋すぎる暴力性に、わたしは少しだけ頭痛を覚えながらも、彼らの頭(らしき部分)を撫でてやった。

 まあ、可愛いから許すけど。これからの教育方針、本気で考えないとなぁ。



 それから数ヶ月後。

 ニュルル公爵領は、別の意味で平和になった。

 屋敷の周りには、常に不気味な紫色の霧が立ち込めている。これはクロちゃんが「害虫駆除」のために張った結界なのだが、副作用で空が常にどんよりしている。

 おかげで強盗や野盗はもちろん、税金の徴収官すら、門の前で泡を吹いてUターンしていく鉄壁のセキュリティだ。


 庭の畑では、家庭菜園が大変賑やかなことになっていた。

 クロちゃんの分泌液を肥料にした結果、野菜たちがとんでもない進化を遂げ、意思を持ってしまったのだ。


 ギャー! ギャー!


 収穫しようとしたトマトが、人の顔のような模様を浮かべて絶叫している。


「あはは、元気元気! 今日もハリがあっていい声ね!」


 わたしは楽しげに鼻歌を歌いながら、触手を伸ばして抵抗するキャベツと格闘プロレスを繰り広げていた。

 包丁を入れると緑色の血が出るし、焼くと断末魔の悲鳴を上げるけれど、そんなの些細な問題だ。

 だって、味は悔しいほど絶品で、一口食べれば疲労が吹き飛び、肌年齢が十歳若返るのだから!

 美容のためなら、野菜の悲鳴なんて心地よいBGMみたいなもんだ。


「ふぅ……労働のあとのお茶は最高!」


 わたしは庭のガゼボで、優雅にティーカップを傾けた。

 カップの中身は、シロちゃんが汲んできてくれた深緑色に発光する水だ。

 毒々しい見た目に反して、味は最高級のハーブティー。コップの中で謎の微生物が元気に泳いでいるけれど、気にしない。

 新種のタピオカだと思えば、プチプチした食感がむしろ癖になる!


 ■■、■■■……。


 足元ではクロちゃんが、モチモチのクッションになってくれている。

 噂によると、この地は今や『魔界への入り口』とか『深淵の魔女の棲家』とか呼ばれ、国家認定のS級危険指定区域になっているらしい。

 失礼しちゃうわよね。こんなにハートフルで、賑やかな場所なのに。


「もう、シロちゃん! また変なものを拾ってきて! それはドラゴンの首でしょ!? どこから狩ってきたの!」


 シロちゃんが「褒めて褒めて」とばかりに、巨大なドラゴンの首をズルズルと引きずってきた。

 困った子だなぁ、と呆れつつも、わたしは思わず笑みがこぼれてしまう。


「すごいすごい! これ、高値で売れるよ! 今夜はドラゴンステーキね!」


 怪異たちの世話に追われ、悲鳴と絶叫が絶えない毎日。

 確かに静寂とは程遠いけれど、前世の孤独で色あせた日々に比べれば、ここは極彩色のワンダーランドだ。

 

「うん!」


 わたしは満面の笑みで、甘えてくるシロちゃんの無数の牙をデッキブラシでゴシゴシと磨いてやった。

 可愛くて頼れる、そして時々世界を滅ぼしかける最高の「お友達」に囲まれた、わたしのドタバタスローライフの始まりだ。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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