実例③ 会頭君恵・会頭結愛の場合
珍しく封筒が届いた。筆文字で書かれた表書きを見て、ほうと溜息が出た。達筆である。
早速ペーパーナイフで切り開き中身をテーブルにあけると、ふわりと花の香りがした。何枚も重なった便箋の間から、桜の花びら型の小さな和紙が滑り出る。手に取るとより香りが舞い上がったように感じた。文香だ。
文香をそっと横に置き、便箋を読み始める。黒色掛かった藍色、独特の滲み。万年筆で書かれたようだ。
『拝啓 清和のみぎり、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
さて、この度お手紙を差し上げたのはほかでもありません。単刀直入に申し上げます。会頭結愛の実母・森元瑞希の個人情報を購入したいのです。
結愛は森元瑞希さんが十七歳の時に産んだ子です。殺したくないが、経済力は皆無であるからと、産んですぐに特別養子縁組が行われ、私、会頭君恵と夫、会頭尊の元に結愛が来てくれました。
私と夫はそれぞれ別の要因で、一生治ることの無い不妊症です。故に子供など望むべくもなく、二人だけで生きていく決心をすべきか悩んでおりました。その折に舞い込んだ結愛の存在は、日々私達に生きる喜びを与えてくれます。昨今、血が繋がっていても平然と虐待をする愚か者が報道される中、家族とは絆なのだと実感します。
しかし、結愛はそう思っていないようです。実母に会ってみたい、実母が結愛を産むと決めた理由を聞いてみたいと言うのです。小学六年生になった結愛ですが、反抗期に入ってきたのか育ての親である私達を若干疎ましく思い始めたようで、「実のお母さんなら何て言うのかな」等ということをさも当たり前のように口にするのです。
血の繋がりが無いことは、既に結愛に伝えています。だからこそ、私達が苦しんだり困ったりすることを知っていて言っているようなのです。
勿論そんな程度で結愛を憎たらしく思うようなことはありません。しかし結愛が過剰なまでに期待している実母が今どうなっているのか分からなければ、易々と彼女に実母と会う機会を提供するわけにはいきません。
正直なところ、十七歳で同級生と後先考えずに避妊無しの性交をするような女性は、さぞかし人間として恥ずかしい存在だと思います。そんなろくでなしから産まれたなんて、結愛には分かって欲しくありません。
長くなってしまいました。依頼を端的に纏めます。「会頭結愛に会わせても恥ずかしくない存在かどうか確認するため、森元瑞希の個人情報を購入したい」。
以上です。お伺いする日程のご相談は、同封の連絡先にお電話頂ければと存じます。 敬具
二〇一六年四月十日
会頭 君恵
往谷 光 様』
便箋と同じような模様の小さな紙に、電話番号が書かれている。携帯電話と思われる。
「なるほどね」
僕は腕を組んで、深呼吸をした。
宛名の筆文字、万年筆で書かれた便箋、文香、そしてこの文章! さぞかしプライドの高い人間なのだろう。
森元瑞希が誰とセックスして妊娠したかなど、わざわざ便箋に書く必要は無い。こちとら『Info inc.』、そんな情報も恙なくカバーしている。それなのにこの書きぶり、『人間として恥ずかしい存在』『ろくでなし』!
「貴方がみみっちく見えるだけだっての。これは娘さんも嫌だろうね」
とはいえ十万円さえ払うのなら、こちらは個人情報を売るだけだ。さっさと来させて話つけてしまおう。早速電話を掛けようと、僕はクッションから立ち上がった。
『お忙しい中、ご連絡頂きありがとうございます』
やや低めの、穏やかな口調の女声が電話口から流れ出る。
『お手紙が届いたんですね』
「はい。お名前の読み方は……『かいとう』さんですか?」
『ええ、私が「かいとう・きみえ」、娘が「ゆあ」、夫が「たける」です。結愛の実の母親が「もりもと・みずき」です』
「ありがとうございます。いらっしゃるのは、会頭さんお一人ですか?」
『はい。結愛が学校に行っている間に伺おうと思います。お日にちは如何致しましょうか?』
「貴方のご希望の日付で問題ありませんよ」
『では、来週の月曜日、十八日の十時は如何でしょうか?』
「分かりました。お待ちしております。その日は来客の予定もありません。お好きなだけいて下さい」
『ありがとうございます。では、当日も宜しくお願い致します』
手紙で見せた小物ぶりは何処へやら、礼儀正しい女性という印象で終わった。
ところが当日、僕は早速予定を狂わされてしまった。
会頭氏と、子供が来たのだ。
「お待ちしておりました、会頭さん。……それで、その子が結愛さん?」
申し訳なさそうな表情で頷くベージュのフォーマルスーツという出で立ちの会頭氏に対し、不貞不貞しく僕を見上げる白Tシャツとデニムパンツの女子。
「今日、学校に行かないなんて言い出して……どうしてかと聞いたら『お母さん、今日出掛けるんでしょ。私も行く』と聞かなくて……」
「だって、この前電話で喋ってたじゃん。私が学校に行ってる間に行くとか言うから、ムカついたの」
「貴方が聞いていい話じゃないのに……」
「何でよ。私には嫌なこととかあったら話せって言う癖に、自分は隠し事してもいいっての? ウッザ。ダブルスタンダード乙」
お、乙……。「お疲れ様」の略として発達したインターネットスラングだが、取り敢えず末尾につけて相手の怒りを煽るのに使う場合もある。そんなものを日常生活で使う人を初めて見た。反抗期に入ってきたというが、既に真っ最中ではないか。
「まあ、取り敢えず座って下さいよ。何か飲みますか? お好きなもの作りますよ」
二人をクッションに誘導するが、
「じゃ私、ブラックコーヒー」
「えぇ? 結愛、そんなの飲めるの?」
「は? 悪い? 好きなもの頼めってあの人言ったじゃん、聞いてた?」
「自分で頼んだ以上、最後までちゃんと飲みきりなさいよ」
「飲みきるつもりですけど? 何でいちいち指図されなきゃいけないの?」
触らぬ神に祟り無し。僕は平静を装って声を掛けた。
「濃さはどうしますか? 薄いのがアメリカン、戦く程濃いのがエスプレッソ」
「エスプレ」
「絶対飲めないでしょうに」
「は? うっさいんですけど」
「会頭さん、何飲まれます?」
「紅茶でお願いします」
「お二人ともアイスにしますか? ホットにしますか?」
「ホットで」
「ホットでお願いします」
母親と娘。今のやりとりだけでこの様、手早く終わってくれれば良いのだが。
僕は紅茶とエスプレッソコーヒー、自分用のアメリカンコーヒー、角砂糖を大量に入れた小さな壺とレモンスライスを盆に載せて着座した。さっさと配って自分のコーヒーに角砂糖を入れた。
「……おじさんもコーヒー? 被ったね」
「そうだよ。でも濃いのは苦手だから、アメリカン。砂糖も入れる」
二人で違うものを頼まれたので、僕は紅茶を選んでも良かったのだが、わざとコーヒーにした。『このおじさんが苦手な濃い奴を、私は砂糖も入れずに飲んでるんだ』、そういう下らない優越感に浸らせておけば、こういう子供は多少話しやすくなるだろう。
「レモンスライスもお砂糖もお好みでどうぞ」
「ありがとうございます」
会頭氏はレモンスライスを一枚紅茶に淹れたが、こういう時に揚げ足を取ってくるのが反抗期の子供だ。
「コーヒーにレモンって入れんの」
「僕はやったことないんだけど、知人が入れていた。苦味がさっぱりして美味しいって、『大人の味だ』って言ってたので、一応ね」
ふぅん、と興味なさそうな素振りを取ったが、その目はレモンスライスを捉えている。こういう時期の子は『大人』という言葉に弱い。やってみたくなったら、勝手に入れるだろう。
さあ、始めよう。
「さて会頭さん。貴方の依頼は既にお手紙で拝見致しましたが、もう一度、改めてお話し頂いても良いですか?」
「はい。結愛の実のお母さんについて」
聞いた結愛氏の眉が吊り上がった。
「え、待って。実ママのこと、おじさんに話したの?」
ああ、やっぱり。僕は心の中で深々と溜息をついた。今日、何処に行くのか。何をしに行くのかくらい、道中で話をしておいてくれ。
案の定、母娘の口論が始まった。
「何で? 勝手に話さないでよ。私のことそうやって全然知らない人に話してきたの?」
「結愛、今そういうことじゃないから」
「何、そういうことじゃないって。そうやってごまかせば黙るとか思ってるわけ? ほか誰に言ったのよ」
「結愛、往谷さんに大事な話をしなきゃいけないから静かにしてて」
「だってその大事な話って私に関わることでしょうよ、何で私の知らないところで勝手に進めてんの。おじさん、母さんから手紙って言った? 見せて」
「結愛、いい加減にして」
「いい加減にしなきゃいけないのはそっちでしょ!?」
声のボリュームが大きくなってくる結愛氏。
「私が母さんと父さんの子供じゃないって何で他の人に言うの!? 別にいいじゃん、『森元瑞希の情報をください』で! 十万払って終わりじゃん! 何でわざわざ『森元瑞希は結愛の産みの親です』とか喋んの? クッソ余計なんですけど!!」
「結愛、静かになさい!」
「おじさん! 十万払うなら余計な話しなくても情報くれんでしょ!? どうなのそこ!」
「ええ。一人分が十万円です。間違いありません」
僕は波風を立てぬように静かに事実のみを述べた。その程度で収まるはずも無いのだが。
「ほらこう言ってんじゃん。ウザ! 何で喋ってんの全部!」
「話進まないから静かにしててって言ってるの分からない? 結愛!」
「だ・か・ら! 私の許可無しに進めるなっつってんの!! 頭おかしいんじゃないの!?」
「お二方、そこまで」
耳がキンキンするので、僕はいい加減割って入った。
「会頭さん。『Info inc.』は、個人情報一人分を十万円で提供しております。それだけです。それに伴うバックボーンも今現在の状況も、実のところ何一つ僕に提供する必要はありませんでした。結愛さん。僕は確かに君恵さんから、結愛さんの実のお母さんについて書かれた手紙を受け取っています」
何か言おうとする結愛氏を手で止め、僕は続ける。
「そして今、必要でないはずのバックボーンのお話をさせようとした理由は、この後誓約書を書いて頂くことになるからです。納得されないまま署名されてしまうと、誓約書の内容を余り理解せず、うっかりでもわざとでもその誓約事項に違反する可能性が高まる。どんなに小さな子供でも発達障害の方でも、これから提供される個人情報を見る以上は署名を頂いています。十万円で提供される個人情報とは、それだけの重みがあるのです」
怒鳴りたい衝動を遮られ勢いが衰えたか、単にふて腐れたのか、結愛氏は口を閉ざし頬杖をついて目を伏せた。
会頭氏が溜息をついている。
「お見苦しいところをお見せしました」
「いいえ、僕としては有り難い限りです。その様子だと結愛さん、相当触れられたくないんでしょう?」
結愛氏は目を伏せたままだ。
「結愛、返事」
沈黙。
「それこそが返事ですね。ただの予測ですが、結愛さん、もしかしていじめられたんじゃありませんか?」
「えっ、そうなの、結愛」
沈黙。
「答えたくない、ということなら構いません。十万円とただ引き替えるだけですからね。ただ、納得はして頂きますよ、誓約書の内容はね」
そうして誓約書を僕は取りだしてきた。僕用、会頭氏用、結愛氏用の計三枚。
「ねえ結愛、ちゃんと見て」
「うっさい。視界に入ってるよ」
「署名しなきゃいけないの。ちゃんと読んで」
「はいはい書きます書きます」
ボールペンを雑にノックして書き出そうとするので、僕は慌てて止めた。
「駄目です。結愛さん、きちんと読んで下さい」
「はああああああ面倒くさあああああああ」
露骨に嫌がる顔をして仰け反る結愛氏。こっちだってお前の対応は面倒臭い。
「さっきおじさんさあ、十万払ったら個人情報くれるっつったじゃん、何でこんなまどろっこしいことすんの? 何、嘘だったの?」
「失礼なこと言わないで、ちゃんと読んでよ、結愛」
「いや、さっきおじさん自分で言ったじゃんよって」
これ以上は泥沼化するだけだ。いよいよ僕は、はっきり言うことにした。
「結愛さん。読まなくてもいいよ。その代わり、後悔も責任転嫁もしないでね」
「は? どういうこと?」
「そこに書いてある内容だけど、僕は君には守れないと思ってる。その内容を守ってもらえないなら僕の身が危うくなるからねえ、僕は自分可愛さに提供しなくなる可能性があるってことだよ」
「え、意味不なんですけど。何でそう決めつけてくんの?」
僕は『Info inc.』代表。というか僕の個人事務所。持っている個人情報は全部把握している。だから、結愛氏にはこう続けた。
「結愛さん、今この場で二十万払われて、森元瑞希と会頭結愛の個人情報が会頭君恵に渡されるかもしれないっていう想像はつかないの?」
ピン、という音がしたような気がする。空気が凍り付くとはこういうことなのかもしれない。
「はあ……?」
散々威圧的だった結愛氏の、空気が漏れるような声。会頭氏の、図星を誤魔化すようなやっと絞り出した声。その二つが同時に流れた。
「僕ね、最初から変だなーって思ってたんです。どうしてわざわざ手紙に、実のお母さんが何歳の時にどういう事情で結愛さんを産んだのか書いたんだろうって。見る? 手紙」
固まったままの二人の前に、僕は例の便箋を並べた。その中の一部を指さす。
「ここ。『正直なところ、十七歳で同級生と後先考えずに避妊無しの性交をするような女性は、さぞかし人間として恥ずかしい存在だと思います。そんなろくでなしから産まれたなんて、結愛には分かって欲しくありません』。おかしいですね、特別養子縁組で子供を迎える人々が、産みの親に向かってこんな考えを持つんでしょうか? 僕は聞いたこと無いです。まあそういう方もいるのかもしれませんけど、それにしても随分とげとげしいなって思ったんです。間違っても、迎えたお子さんがこの世に生を受けた切掛ですよ?」
結愛氏が横目で会頭氏を見やった。今度は会頭氏が目を伏せている。
「会頭さん、答えたくなければ構わないのですが、結愛さんも……」
「やめて」
結愛氏が言う前に、会頭氏が鋭く遮った。
「十万円は、お支払いします。森元瑞希の情報だけをお願いします。結愛、誓約書の中身は分かった? 『教わった話は誰にも言ってはいけない』、『何かあっても往谷さんは責任を取らないし介入もしてこない』、『その約束を破ったら、どんな罰も受け入れる』。いいね? 分かったら名前書いて」
有無を言わさぬ気迫に圧されたか、結愛氏は反抗する様子もなく名前を記入した。僕は黙って三枚をコピーすると、原本をバインダーに挟み渡した。十万円と引き替えに領収書と森元瑞希のクリアファイルを渡すと、一礼もそこそこに母娘は事務所を出て行った。
もし二十万支払われ、会頭結愛のクリアファイルも渡していたとしたらどうなっていたのか。これを読んだ皆様が十万円を払わなくて済む程度に補足しておこう。
個人情報には『誰と交流しているか・誰と交流していたか』も含まれている。その顔写真も入っている。森元瑞希と会頭結愛のクリアファイルを得て、『お友達』の顔写真を見比べ、確証を得てしまったら――きっと、あのプライドの高い会頭氏は発狂しただろう。
幾ら『家族とは絆』と強がっても、会頭氏は恐らく分かっていた。血は争えない、と。