実例① 反毛譲の場合
一介の会社員である反毛氏が事務所を訪れたのは、暑い夏の盛りであった。『Info inc.』のウェブサイトを見て来たのだという。名前の読みは「はんもう・ゆずる」。熱いコーヒーを所望し、砂糖とミルクをインドのチャイ並に多く入れてくれというので、溶け残りが出てコーヒーの色が殆ど分からない程に入れたところ、笑顔で饒舌に依頼を話してくれた。
ところが、その内容はまず受けられないものだった。
「反毛さん、貴方はウェブサイトをどうやってお調べに?」
息をついた瞬間を狙って質問を挟むと、反毛氏はこう答えた。
「ウェブ検索です。『不倫 調査』と打ったら、一番上にこちらのサイトが来たので」
あー、と溜息をついた。
「……不倫調査がお仕事では?」
「申し訳ありません、反毛さん。うちはあくまで『個人情報』をお売りするだけで、『奥様が不倫しているかどうか』を調べることは承れないんですよ。恐らくは実例として記載した『不倫相手の情報を提供する』という部分が検索に引っかかってしまったと思われます。SEO対策が不充分でした……勘違いさせてしまい、申し訳ありません」
しかし反毛氏は諦めず、怒るような素振りも見せず、
「では、私の依頼の中で、どの部分なら受けて頂けますか」
と静かに続けた。
なるほど、今一度、反毛氏の依頼を整理しよう。
* * *
妻が去年の夏から、華美なまでに肌を見せる服で出かける。いい歳してティーンエイジャーのような、それも偏差値の低い高校に通う学生が夜にゲームセンターに行くような格好なのだ。結婚し子供も独立した身でそんな姿ははしたない、と窘めると、
「私がしたい格好をして何が悪いのよ。それにほら、熱中症にならないようにしてるだけ」
こんな調子であっけらかんと返されてしまう。最初こそ、そうか、まあ暑いからな……と腑に落ちないながらも納得しようとしたが、秋になってもなおその衣服に着替える上にそれで出かける頻度が高くなってきたので、いよいよ暑がりという理由は使えないと思った。そこで再度窘めると、
「私の着たい服にまで口出さないで」
と怒ったのである。
自分の考えが古いのだろうか? 心配になり娘に電話で相談すると、娘も同意見であった。曰く、
「美魔女のつもりなのかな? ああいうのってイタいというか、気持ち悪いよね。母さんにそんなキモい奴になってほしくないんだけどなー」
と。そこで娘からも言ってもらったのだが、妻の反応は更に酷くなる一方であった。
「あのねえ、結婚して主婦になり、子供も育てて、自分のことを全部後回しにしてきたのよ? PTAで何か言われたらまずいから、始業式や卒業式でママ友に目を付けられたら面倒臭いから、地味~な格好もしてきた。その娘が独立して、やっと自分の時間が持てるようになったから、自分でパートも見つけてほぼフルタイムと変わらない程にシフトに入ってそれなりに稼いでいる。朝帰りしてるわけでもなく、きちんと生活している。お金も生活も自分で賄ってるじゃない。それなのに何で尚も自分のしたいことを、着たいものを我慢しなきゃいけないの? それとも一回結婚して家に入ったら死ぬまで嫁は自分を捨てろって言うわけ?」
そういうことではない、と父娘が言うと、余計にヒートアップした。
「だったら何で人の趣味に口出すのよ。じゃあ私も言って良いのね? 銀行口座とか服とか趣味とか管理していいのね? それが嫌だって言うんなら同じでしょうが。散々ぱら我慢させてきて、今後も我慢してください、でも自分らは自由にやるけどねってのはおかしいでしょ!」
男は女に口では勝てないのが相場。感情的になった老人には何言っても無駄なのも世の常。父娘は議論を中断した。
勿論事態が好転するはずもない。妻はネイルやらつけまつげやらを行いだし、派手すぎる・品が無いなどと指摘すれば「貴方の趣味にも干渉しようか?」といった旨の苛烈な言葉が返されるのみ。
もし妻が、
「実はずっと興味があった。子供の影響を鑑みてやらないでいただけなのだ。近所の噂になるかもしれないし、年齢不相応で気持ち悪いと思われるかも知れないが、一度きりの人生で悔いが残らないようにやりたい。だから貴方の感情はともかくとして、楽しませてもらう」
とか、
「黙っていたが、これが私の趣味だ」
と冷静に話してくれていれば、まだ理解はできた。だが先の言い分はどうだろう。曲がりなりにも社会人経験のある大人が紡ぐ論理では無い。私は金稼いでます、生活も破綻していません、文句言われる筋合いは無いです、言うお前は何様なんだ――あまりにも攻撃的過ぎる。
人がむきになるのは、隠したいことがあるから……とはよく言われるが、まさか妻がこのような下品な姿をするのは、己の趣味が理由ではないのでは? 誰か、そういう格好が好きな者に見せに行っているのでは? そんな偏った見方をせざるを得ない程、妻の言動はヒステリックである。
そこで妻が会っている相手、平たく言えば『そういう男』がいるのか、その関係性を調べて欲しい。もしいないなら、そんな格好をしている理由を知りたい。
* * *
――以上が、反毛氏の依頼である。
僕は依頼を簡潔に紙に書き出し、テーブルの中央に置いた。
「反毛さん、貴方の依頼はこういう内容でお間違いありませんか?」
「……はい、合ってます」
「先程もお伝えした通り『そういう男がいるのか』、即ち『不倫をしているかしていないか』は承れません。お受けできるのは、具体的に言うと『妻が不倫しているようなので、相手の情報を教えて欲しい』となります。今の状態は、奥様が年齢に合わない華やかな服装をしているのが気になるというだけです」
反毛氏が、ふむと息をつく。僕は続けて赤鉛筆で、最後の一文に傍線を引いた。
「この『そんな格好をしている理由を知りたい』、これがギリギリ受けられるかなと思います」
「ギリギリ、とは?」
「繰り返しになりますが、うちは『個人情報を売る』ビジネスです。そのため『奥様の個人情報となり得るもの』をお求めであれば、その一環で奥様の趣味嗜好もご提供できるかと思います。逆に言えば『個人情報の中で、これとこれだけを教えてください』はできません」
「何故、できないのでしょうか?」
「個人情報とは『個人を特定できる可能性が高い全ての情報』です。氏名・生年月日は勿論のこと、普段通い詰めているお店や好きな格言も、場合によっては個人情報となります。氏名・生年月日のご提供は二千円、血液型は五百円と差が付けられたとしても、好きなお菓子の情報は幾らとすべきなのでしょう? 僕が思いもしなかった情報を、お客様が個人情報と捉えていたとしたら?」
反毛氏は、ハッとしたように背筋を伸ばした。
「料金が分かりづらいということですか?」
「その通りです。分かりづらさをいいことに僕の裁量で値段を変えてしまったら、それはお客様の不利益になる。だったら初めから『一人分の個人情報、幾ら』とすべきです。僕はそう考えています」
反毛氏は驚いたような、嬉しいような表情を浮かべた。そうか、そういうことか、とも呟いている。湯気が幾分弱くなったコーヒーを、また美味しそうに飲んだ。
「分かりました。では……」
そこで息を深く吸い、
「妻・反毛有香子の個人情報を売ってください」
決意表明を行った。
僕は、承りましたと頭を下げ、立ち上がった。部屋角に置いてある全面帆布張りのスツールの中が収納スペースになっていて、そこに書類が入っているのだ。二枚取り出し、反毛氏に向かって並べる。
「では反毛さん、改めてこちらの内容をご確認ください」
一枚目はこうだ。
『誓約書
一、提供された個人情報について、一切外部に漏らしません。
一、一人分の個人情報の提供を受けるにあたり、現金で拾万円を支払います。
一、個人情報の提供を受けたことによる一切の肉体的・精神的被害について、『Info inc.』及び往谷光に責任を問いません。
一、提供を受けた個人情報の利用目的・方法に関し、『Info inc.』及び往谷光からの介入・関与は受けません。
一、本誓約書内の同意事項に違反した場合、それに伴う不利益を受け入れます。
以上について、私は同意します。
年 月 日
________________________』
続いて二枚目。
『誓約書
一、提供した個人情報について、追加事項が発生した場合は無償で提供します。
一、一人分の個人情報の価格は、一律現金で拾万円とします。
一、個人情報の提供を行ったことによる一切の肉体的・精神的苦痛について、依頼者に責任を問いません。
一、提供した個人情報のいかなる利用目的・方法について、『Info inc.』及び往谷光は一切介入・関与致しません。
一、本誓約書内の同意事項に違反した場合、それに伴う不利益を受け入れます。
以上について、私は同意します。
年 月 日
________________________』
「この二枚目って……?」
「僕用です」
「契約書ではないんですか?」
「なまじ扱っているものがものなだけに、契約書ペラ一では駄目だと思ったんです。一枚目を反毛さんが署名します。二枚目はご理解頂いてから、僕が署名します。そして二枚を合わせてホチキスで留め、バインダーに入れてご提供します。僕はそのコピーだけ頂きます。言わば双方向に誓約書を交わすことで、契約書と同等にしています」
「原本を私が頂いて良いんですか?」
「それが僕の誠意です」
反毛氏は真剣な眼差しで頷き、二枚に目を落とした。じっくりと、一字一句辿っているようだ。内容はただ真逆にしただけであり、しかも同意事項は五つと少ない。故に疑問も出る。僕はそれに真摯に答えるだけだ。
「事前にウェブサイトで調べていたので、持ち合わせは勿論あります。しかし、何故現金だけなのでしょうか?」
「わざとです。キャッシュレス決済や銀行振り込みでデータ上の数字だけ減っても、何も重みが感じられないと僕は考えています。現金十万円を直接渡す、その行為で自分がそれだけのものを受け取ろうとしていると心持ち新たにして頂きたい」
「でも、持ってきていない方もいるでしょう」
「その場合はおろしに行かせます。一度外に出て心変わりする方も多く、その場合はそれっきり帰ってきません。それもお客様の選択ですから、一向に構いません」
「つまり決意の強さであると?」
「そうです」
「なるほど。この利用目的・方法への介入・関与とはなんでしょうか?」
「例えばですよ、僕が奥様の個人情報について『奥様を貶める目的で使わないでくださいね』と言った場合、もしも反毛さんがそのつもりだったら、嫌じゃないですか?」
「え! そういうつもりは」
「もしも、の話ですよ。しかも僕がそう言ったって、そのつもりがある人が馬鹿正直にやめてくれると思います? 人参買った時に『ポタージュ以外に使わないで』って八百屋さんに言われたところで、カレー作るつもりの人は『うざったい』と感じるだけですよ」
「確かに……」
「要は『十万円と個人情報を交換して終わりましょう』ってことです。それ以上でもそれ以下でもない。あくまでもお客様は買い物しに来ただけなんです。それを明確にしようということで、誓約書にしてあるだけですよ」
反毛氏は感心したように何度も深く頷いた。そして万年筆を取り出すと、外国人のようにサラサラと美しくサインを記入した。
「二枚目もご理解頂けていますか?」
「はい。問題ありません」
僕もボールペンを取りだし、楷書体で氏名を記入した。二枚を棚に置いてある白いコピー機で印刷していると、後ろから反毛氏が声を掛けてくる。
「本当に現生で持ってきてしまったんですが、封筒に入れた方がよかったでしょうか?」
「いいえー、気にしないでください。今個人情報もお持ちしますから、それと引き替えです。領収書もお渡ししますよ」
原本とコピーをテーブルに置き、僕はカーペットを捲った。濃い色の木材のような模様の長方形がある。その端を押し込み、もう一方の端が持ち上がる。それを掴んで引き開けた。
「うわあ凄い。ここ、床下収納があるんですか?」
反毛氏の素直な反応。
「そうなんですよー、雑居ビルにしては珍しいでしょう?」
中に大量に並んだクリアファイルの背表紙を辿る。ね、の、は、はわ、はん、はんめ、はんもう……反毛有香子、あった。抜き出してカーペットを元に戻す。
「はい、これです」
「え? え、もう、これが?」
「ええ。お金貰っておいて調査と称して逃げるようなきな臭い業者もいますからね、僕はとにかくその場でお渡し・その場でお支払いを徹底します。だから先程の誓約書が効いてくるんですよ、追加があれば無償提供しますよという。お渡しした後に一応再度調査するんですが、新たに判明した情報があれば、それはお客様にとって『個人情報全て』を提供できていないということになります。オンラインゲームってやったことありますか?」
「……ゲームは苦手で」
「ではスマートフォンやパソコンの話にしましょう。ああいう機器も、アップデートっていうのが入りますよね」
「ああ、そういうことですか。更新ですね」
「そうですそうです。ま、それはともかく表紙を確認して下さい。氏名・生年月日・住所・性別、合ってますか?」
反毛有香子、昭和三十三年五月二日生、東京都西東京市向台町五丁目七番地の九、女性。
指で字をなぞっていた反毛氏は、顔を曇らせた。
「……間違いありません」
「もし、この提供を受けたいということならば、十万円のお支払いをお願いします」
現生の十万円を揃え、目の前で枚数を見せてくる反毛氏。
「一緒に確認をお願いします。一万、二万、三万……」
数え終わり、僕の手に渡すところで反毛氏は続けた。
「往谷さん、私と娘のクリアファイルも、床下にあるんですか」
「あると思います」
「思います、とは」
「僕はその二冊のクリアファイルを反毛さんに見せていません。ですから、それが本当に貴方のもので間違いないのか、娘さんのもので間違いないのか、僕には分かりません」
「もし、それを見せて欲しい場合は、それぞれ追加の十万円が必要ということですか?」
「はい。表紙も個人情報ですから」
「私が、私のファイルを見る場合も、ですよね?」
「反毛さん……大変失礼なことを申し上げますが、僕は貴方が本当に反毛有香子の夫なのか、問わずに渡してますからね」
反毛氏の目の色が、明らかに変わった。
「どういう、意味ですか」
「やめましょうよ」
僕は笑いかけたが、反毛氏は強ばった表情のままだ。
「先程もお話ししましたよね。誓約書を見返してもらっても構いませんよ。『十万円と個人情報を交換して終わりましょう。それ以上でもそれ以下でもない』。それ以上の話をしたいですか、反毛さん?」
反毛氏――『少なくとも、そう名乗った男』は、唇を震わせている。僕も特に何も言わず、彼を見つめ返す。
沈黙すれば、見つめ続ければ、弱い者が先に行動する。
彼は十万円から手を離した。僕の手にカサリと積み重なるお札。僕は再度微笑んで、反毛有香子のクリアファイルを彼の手に渡した。
「あっ、領収書もですねー、今書きます」
その場でカリカリと記入していると、彼は低い声を出した。
「何故……」
「この会社は『Info inc.』、お客様の求める個人情報を売る、ただの商売人です」
領収書を、誓約書の原本と共にバインダーに挟んで、クリアファイルの上に置く。
「商品を如何様にお使いになろうと、『Info inc.』及び往谷光は介入・関与しません。詳しくは誓約書をご一読下さい」
彼は残ったコーヒーを一気にあおると、僕を一瞥し、クリアファイルとバインダーをバッグに慌ただしく仕舞い込んだ。そのバッグのファスナーも閉めずに、靴箱に直行する。
「ご利用ありがとうございました」
僕が声を掛け終わらない内に、彼は出て行った。