【番外編】臆病で無垢な愛(前編)
二年生に進級した頃からアリシャーヌ・オーガレットは、悪夢に魘されるようになった。悪夢の原因は分かっている。婚約者のカイン・ロックスだ。カインは、アリシャーヌより年下で一年遅れてライラック学園に入学してきた。ガラの悪い仲間たちと屯するカインを見てしまうと憂鬱な気分になる。
(今日の夢は最悪だったわ。あれが地獄なのかしら)
夢の中で買い物に出掛けたアリシャーヌは、何故か田舎道へと向かってしまう。土手のような道の両脇には、草が茂る畑のようなものがあり、その中央に細長い砂利の道が伸びている。その道の入り口には、見慣れぬ小さな老人の像がありアリシャーヌは、その道を駆けていくのだ。
ステファニア王国には、地蔵はない。お地蔵さんというものを知らないアリシャーヌには、気味が悪い威厳のあるものというくらいの認識でしかない。
砂利道を走り抜けようとしたのは、両脇に生い茂る叢から虫が飛んでくるのではないかと思ったからなのだが、不気味なことに生き物の気配はない。
砂利道を抜けると葉っぱをつけていない低木が並んで生えている道と、開けた道とで分かれていた。アリシャーヌは、開けた道へ進みながらも悩んで来た道を引き返し、低木に囲まれた道を進む。すると「走れっ走れっ」と急かすような声が聞こえてくるのだ。アリシャーヌは、木の枝に引っ掛れながら駆け抜けていく。
目が覚めたアリシャーヌは、恐怖で震えていた。
(あの声は悪魔なのよ、きっと。私、地獄へ連れて行かれるのかしら?)
その前までは、連日戦争の夢を見ていた。以前は、小説なんかで冷たい親戚が出てきて苦しむ主人公に同情し理不尽だと怒っていたが、誰かを助ける余裕がない人達の気持ちが今では、よく理解できる。そんな夢なのだ。
(明日は我が身だと思うと、優しくできない気持ちも分かるわ)
当たり散らすように発散しなければ、不安に呑まれてしまうのだろう。
伯爵令嬢として育てられたアリシャーヌは、おっとりした振る舞いが目立つ少女だった。少しふくよかな体型と素朴な顔立ちを些か引け目には、感じていても‥こんな夢ばかり見るような行動を起こす女の子ではない。流行り物は好きだが、刺激的な小説ばかりを好んで読む方ではないのだ。
この日、いつもより早く登校したのは、出しそびれたプリントを思い出したからだ。教室の机に入れっぱなしにしていたプリントを無人の教室で記入してから、職員室へと向かう。学園の生徒が、ちらほらと登校してくる時間なので、特別珍しいとは感じなかったが、誰かの話し声に思わず足を止めてしまった。渡り廊下を俯き気味で、のんびり歩いていたから声を拾えたのだろう。
壁に日光を遮られて育ちの悪い芝生の上を歩き校舎の影からそっと覗き見ると、三人の女生徒が、ひとりの女生徒を呼び止めていた、恐らく、呼び出しのだろう。
「何が仰りたいのですか?」
気丈にも胸を張って答えているのは、男爵令嬢のアミル・ルイーズだった。
(凄いっ私には、とてもできないわ)
隠れて盗み見をしているアリシャーヌには、助けに向かう勇気はない。況してや言い返すなんて到底できない芸当だ。
「恥を知りなさいと言ったのよっ」
「いつまで学園に通うつもりなのかしら?」
「ユリアス様に縋り付いても相手にされていないのよっ?見っともない真似は、お止しになって退学なさったら?」
「私、貴女たちより恥ずかしい真似をしているでしょうか?」
不思議そうに首を傾げたアミルに女生徒たちが目を見開いた。
「なっ⁉︎」
「弁解しようとは思いません。私は、間違いを犯しました。でも、必死になる程に恋をしたことを恥じてはいませんから」
そう言うとアミル・ルイーズは、彼女たちに背を向けてこちらに歩いて来る。
「おっお待ちなさいっ」
「失礼すぎますわっ」
慌てて渡り廊下へと引き返し、職員室へ駆けて行ったアリシャーヌの心臓は、極度の緊張で音を立てていた。
「本当に凄いわ」
(必死なる程の恋ってどんなものかしら‥?)
空想で書かれた物語より、実際に体験している人から話を聞きたい。でも、臆病なアリシャーヌには、できないことだ。アリシャーヌが仲良くしている令嬢たちの中に、先刻のアミル・ルイーズが貶めようとしたアナイス・レガーがいる。不用意に近付けばいい顔をされない。友人たちの中に人気のない場所にアミルを呼び出した令嬢たちのような苛烈な人はいない。過ぎた粛清をしようとする彼女たちのように道理を弁えない人はいないのだ。あの言葉をアミルに言う資格があるのはアナイス・レガーただひとりだけである。みんなそれを理解している。
(あの人たちのように行き過ぎた正義感で、責めてくることはないけれど‥ギクシャクするのは嫌だわ)
踏み出す勇気がないアリシャーヌは、それから隣のクラスのアミル・ルイーズを視線で追いかけるようになった。
「ルイーズ嬢が気になるの?」
「え?」
この日も移動教室の前に友人達と廊下で談笑していたアリシャーヌは、ニクロスの教室からひとりで出てきたアミル・ルイーズを視線で追いかけた。それをエシャリ・ルシーラに気付かれてしまったのだ。目を細めて見咎めるようなエシャリから視線を逸らしたアリシャーヌは、ばつが悪い。
「いいえ」
話題に上がったアミルを視線で追いかけたアニーシャに倣ってアナイスたちも振り向いた。よくない展開だ。話を逸らなければと思うが、上手い言葉が出てこない。
「‥‥彼女、沢山の友達がいたでしよう?でも、最近はひとりで‥」
「それは当然ではないかしら?」
「アリシャーヌさんは、優しいからね。でも、彼女の行いを正しく評価するのなら、そばには寄り付かない方が賢明だと思うわ」
アニーシャの言葉にエシャリが、当然という顔で頷いた。眉を寄せたのはアナイス・レガーだった。濡れ衣を着せられた彼女は、ユリアスとアミルの謝罪を受け入れたと聞いている。学園でもアミルを非難することはなかった。大人しい令嬢というイメージが強い彼女は、芯が強く優しい人なのだと思う。
(彼女は、リゼル・ステファニア様と婚約したのよね)
アナイスを匿ったのは、侯爵家のルティアナ・バレットだったが、埠頭から王都の侯爵邸に送り届けたのは、待ち伏せていた第二王子のリゼル・ステファニアだったと聞いている。
(ふたりで逃げたのよね)
恐ろしい事態に立ち向かうことができたのは、愛の力だと思う。王宮へ戻ったリゼルは、黙秘を貫きアナイスは、ふたりの未来を信じて身を潜めていた。
(今だからドラマチックに思えるのよね)
当時は、行方不明のアナイスの無事を祈って過ごすしかなかったアリシャーヌには、想像もしなかった顛末であった。
しかし、事実は小説より奇なりとは言ったものだ。深く愛し合ったふたりは、これから離れ離れになる運命なのである。リゼル・ステファニアは、見聞を積む為に隣国のレグザへ交換留学生として渡ることが決まっている。彼の帰国を待つアナイスは、卒業後王太子妃候補として王宮に出入し、王宮の礼儀作法を身に付けていく。
「仕方ないことですわ。せめて、わたくし達は自然に彼女に接しましょう?」
諭すようなルティアナの言葉に穏やかな表情でアネッサが頷いた。些か口調が柔らかくなったルティアナ・バレットも婚約者のルイス・チャールズと仲を深めていると聞く。
(あんなに悩んでいたのに‥)
今までは、第一王子のユリアスを支持していたチャールズ家が、今回の騒動をきっかけに第二王子のリゼルを支持する派閥に乗り替えたことで、社交界では様々な憶測を呼んだ。
(保身に走ったと非難されても仕方ない状況だったのにバレット家が、第二王子を支持した上でルイスを婿養子に迎えると宣言したから事態は、沈静化したのよね)
バレット家は、建国時から王家を支え続けてきた歴史ある家門だ。由緒正しい侯爵家の令嬢が、初めての女当主になる可能性も浮上したのだ。皆が注目するのは無理からぬことである。そんな中で、両家が足並みを揃えるのは自然なことで、貴族たちの関心が移るのも仕方ないことなのだ。
(愛って凄いのね)
苦難を乗り越えていける絆が羨ましい。
(私とカインでは絶対に無理)
そもそも、ふくよかでのんびりしたアリシャーヌを馬鹿にして意地悪ばかりしていたカインを許せる日がくるとは思えない。愛なんて程遠い。
「皆さんお待たせしましたっ」
遅れてやってきたのは、子爵令嬢のアルメリア・プリムスである。視線を向けると廊下の先に見覚えのある男子生徒の姿があった。アルメリアの婚約者のアルフェルト・レガーである。淡いライラック色の髪と緑の目をした綺麗な少年は、些かぶっきら棒に視線を逸らして背を向けた。彼には、助けられた過去がある。決して怖い人ではない。
(このふたりは婚約してから長いのよね)
五歳の女の子が年下の男の子と仮婚約したまま、年頃になり正式な婚約に切り替えたというのだから、愛を深め合ってきたと言うしかない。
(ふたりは行方不明になったけど、レグザで貴族になったアルフェルト・レガーとレグザでも聖女として認められたアルメリアさんを陰でコソコソ言う人は誰もいないわ)
(お昼休みも一緒に過ごしていたみたいだし、本当に仲がいいのよね。教室に送り届ける程に大切にされているなんて羨ましいわ。私とカインだったら‥)
送り届けるのはアリシャーヌの方で、荷物持ちに扱き使われる運命だろう。思わず首を振ってしまう。皆で揃って談笑しながら廊下を歩き、授業を受けている間もアリシャーヌの心は、上の空だった。
学園を卒業するまで二年しかない。両家は、早くも祝福ムードで休日には、必ず親しい仲間内で集まりアリシャーヌとカインの親睦を深めようとしてくる。恐怖の休日が迫っているからか、悪夢から解放されないアリシャーヌは、この日もぼんやりと昼食を食べていた。
(明日にでも地獄に連れて行かれそうよ)
「アリシャーヌさんっねぇ?聞いていらっしゃるかしら?」
「え?」
食堂で叱り顔を向けてきたのはエシャリ・ルシーラである。その隣で小首を傾げたアニーシャが、案じ顔を向けていた。
「何か悩みでもあるの?」
「え‥えぇ」
正直に白状した方が楽である。
「また、婚約者のカイン・ロックスのことではないかしら?」
「そうなの」
アリシャーヌの返事にふたりが、揃って肩を落とし溜息を吐いた。
「いい加減、婚約解消を願い出ては如何ですの?」
「私にそんな勇気ないわ」
何かを言い掛けたエシャリを首を振って制したアニーシャが、苦笑いで告げる。
「世の中には、色々な人がいるものよ。小鳥に愛を捧げる人。一歩がなかなか踏み出せない人」
「踏み出してはいけない一歩を踏み出した人がいるの?」
聞き間違いだろうか。尋ね返すとエシャリが気落ちした様子で答えた。
「‥‥そうなの。でも、今は私のことよりアリシャーヌさんのことよっ?このままでは結婚させられてしまうわ」
「無駄よ。誰も私の話しなんて聞かないわ」
「私たちは、誰にもの『誰に』含まれていませんの?」
眉を顰めて悲しげな目を向けてくるエシャリとアニーシャから目を逸らすしかない。
「‥‥でも」
此処で、本当の気持ちを吐き出せるのなら悪夢などは見ないのかもしれない。無意識のうちに制服のスカートを握り締めていた。それを見ていたエシャリが、口をへの字にして眉を吊り上げる。
「焦れったいですわねっ今からカイン・ロックスに会いに行きましょうっ?私が話をつけてあげますわ」
「だっだめよっ」
アリシャーヌの手首を掴んで立ち上がったエシャリに戸惑ってしまう。
「カイン・ロックスが好きなの?」
「いいえ‥」
「お互いを尊重できるの?」
「いいえ‥」
真意を確かめるようなエシャリとアニーシャの質問に即答できてしまうのが悲しい。
「私も一度ふたりで話し合った方がいいと思うわ」
椅子から腰を上げて食べ掛けのトレーを両手で持ち上げたアニーシャの言葉にアリシャーヌは、縋るような眼差しを向けてしまう。此処で、放置されてはどうすることもできない。自分の中で答えが決まっていないのだ。
「人生って振り返るとあっという間に過ぎてきたように思うけど、これから同じ時間を一日一日積み重ねていくのだと考えてみて?途方もないものよ」
「そうよ。学園を卒業したら女性は、家族と過ごす時間が多くなるわ。夫として権勢を振るうカイン・ロックスと同じ屋敷で過ごすのよ?今以上に逆らえなくなるわっ」
アニーシャとエシャリが、心から心配してくれているのが伝わってくる。
「ずっと、部屋に閉じ籠もっていることはできないわよ?勇気を出してっ」
アリシャーヌの手を両手で包み込んだエシャリの温もりが、心の強張りを解いてくれるような気がして小さく頷いた。
(私を守れるのは私だけだわ)
学生である今だからこそやれる事があるのではないだろうか。躊躇う気持ちを振り切ってアリシャーヌは、一年生のニクロスの教室まで向かった。
昼休みに教室に残っている生徒は、それ程多くない。学園に通う大半の生徒は、貴族であり食堂で学食を食べている時間だ。お弁当を持参するのは、一部の生徒だけで何処かで隠れるように食べていることが多い。購買部を利用するのは、親元から離れて学園に通っている寮生や独身の教師たちが殆どだ。彼らは空き教室や裏庭のベンチ、芝生の上などで食べているところを度々見掛ける。
窓際に位置する後ろの席で購買部のパンを齧っている男子生徒たちが、言葉少なに仲間たちと固まっていた。その中のひとりと目が合った。驚いたアリシャーヌは、顔を引っ込めて隠れるようにドアに体を隠す。両手を胸の前で握り締めて俯くアリシャーヌに付き添ってくれたふたりが、不思議がり教室の中を覗こうとした。その時、後ろのドアが開いて姿を見せた男子生徒が、こちらを気にした。
「何か?」
人相の悪い男子生徒に見えるのは、アリシャーヌの心が見せる幻だろうか。血の気が引いてしまう。怯えてしまったアリシャーヌに代わって返事をしたのは、エシャリだった。
「‥カイン・ロックス様を探しています」
「カインっ」
教室に向かって声を張った男子生徒は、そのまま背を向けて廊下を歩いて行ってしまう。お手洗いだろうか。
「なんだよっ?」
後ろのドアから顔を覗かせ喧嘩腰に尋ねてきたカイン・ロックスにエシャリが顔を顰める。
「貴方に話がありますの」
「話し?」
視線を向けてくるエシャリとアニーシャに倣いカインもこちらに視線を定めてきた。ふたりには、申し訳ないが喉に閊えて言葉が出てこない。体を強張らせてきつく目を閉じたアリシャーヌの反応に溜息を吐き出したエシャリが、カインに向き直る。
「アリシャーヌさんとの婚約を白紙に戻していただけないかしら?」
「は?」
「アリシャーヌさんを好いている訳ではないのでしょう?なら、見っともなく縋ったりなさる必要もない筈ですわ」
「生意気な女だな。部外者が口出しするようなことか?」
「差し出がましいとは思いますが、貴方には貴方に似合う方がいますわ。アリシャーヌさんを解放してくださいな」
「俺は伯爵になる男だぞっ?」
「そうだとしても、貴方の力で成したことではありませんわ」
「貴族の大半がそういうもんだろうっ?身分を弁えろっ」
爵位は、血筋で引き継がれていく。確かに叙爵された経験のある貴族は、少ないだろう。
「伯爵は、王様ではありませんわっそもそも、貴方が伯爵になれても今の豊かを継続させていけるとは思えませんわ」
エシャリの言う通りだろう。彼には、取り柄と言えるものがない。何れ、伯爵家を衰退させるのは目に見えている。図星を突かれたカインが、苛立ったままに足音を立ててズカズカと近付いてきた。
「煩いっ!」
「きゃあっ!」
肩を押すなんてものではない。殴るように平手打ちした音が響いてエシャリが、体勢を崩し廊下に倒れた。壁に頭を打ち付けたエシャリは、目を開くことがない。両手で口を押さえたアリシャーヌが、ガクガクと震えていると、吐息を吐き出したカインが嘲笑う。
「女って奴は、大袈裟だな。さっさと目を覚ませよっ謝罪しろっ!」
廊下に膝を突いてエシャリを匿ったアニーシャが、自身を盾にして背中を丸めるがカインは、その背を蹴ろうとして片足を上げた。
「や‥やめて‥」
絞り出すようにして声を発した。しかし、掠れるような小さなアリシャーヌの声にカインは反応しない。全てを見ていた生徒たちの中で悲鳴を上げる者が数人いた。その騒ぎを聞き付けて駆けてきたのは、生徒会長のルーク・ファンレイだった。
「何をしているのですかっ!」
「ちっ」
忌々しげに振り向き舌打ちしたカインが、背を向けて教室に戻っていく。それを黙って見ていることしかできない。
(私がエシャリさんのように勇敢ならカインの肩を掴んで頬を叩くのに‥っ)
謝罪するのはカイン・ロックスの方だ。些細なことで暴力を振るうような短慮な人と結婚なんてしたくない。
(夢の中と同じだわ。明日は我が身なのよ)




