【番外編】あなたを見つめる(前編)
アミル・ルイーズの転落事故の加害者として名前が挙がったアナイス・レガーの国外追放。更にアルメリア・プリムスとアルフェルト・レガーが揃って消息を断つ。良くないことばかりが続くものだと落ち込んでいたアネッサ・ホフトンは、学園から帰宅すると両親に呼び出された。
「え?婚約‥」
「そうよ。お相手はリーヴァイ・スカーレット。伯爵家の次男よ。ライラック学園に在籍しているから、挨拶くらい済ませておきなさい」
そう言って母のシャーリーが差し出したのは、一枚の肖像画だった。お見合い用の肖像画は、本のように表紙で閉じられているが、開くつもりにはなれない。
「お母様‥。私は」
「もう、貴女も二年生よ。彼が駄目なら他の相手を探さないといけないわ。悠長に構えている時間はないのよ?」
「アネッサ‥うちは入婿を求めている。ある程度は、妥協しなくてはいけないよ?」
伯爵家の中でも格式が高いと言われているホフトン家が入婿を求めるのは、アネッサしか子供がいないからだ。養子を迎えるという選択もあるが、両親は血の繋がりを大切にしている。何れ、アネッサの産んだ子供が、次期ホフトン伯爵となれるように計らうつもりなのだ。ステファニアの男性は、プライドが高い。この条件を受け入れられる相手は、そう多くないのである。
リーヴァイ・スカーレットと学園で挨拶することもなく数日が過ぎていった。両親の言い付けに逆らうつもりはないが、きっかけもなく他のクラスの男子生徒を訪ねては行けない。リーヴァイから会いに来ることもなかった。きっと、興味がないのだろう。
普段から仲の良い友達が、ふたりもいないのだ。何処となく教室の空気も悪いと思う。この日の昼休み、生徒会の手伝いをするという口実で生徒会室へ向かったアネッサは、幼馴染のルティアナ・バレットと一緒にお弁当を持って廊下を歩いていた。
隣のクラスのアニーシャ・ナイゼルとアリシャーヌ・オーガレットそしてエシャリ・ルシーラと集まって昼食を食べるのは日課になっていた。本来ならアナイス・レガーも加わって賑やかな時間を過ごす。
「アナイスさん、何処にいるのかしら?」
「え?」
「港町で逃走したと聞いたまま行方が分からないでしょう?誘拐じゃないかしら‥」
アナイス・レガーは、ライラック色の長い髪と緑の瞳が美しい少女だ。彼女は、一目見れば育ちの良さが分かる所作が身に付いている。拐かされたとしても不思議ではない。
「‥‥。わたくしは、アルメリアさんが気掛かりですわ」
「教会が動いているらしいわね」
声量を抑えたアネッサが返事をすると、ルティアナが長い睫毛を伏せて溜息を吐いた。余所見をしていたのは事実だ。ルティアナに気を取られていたアネッサは、前方からやって来る生徒に気付くのが遅れてしまった。擦れ違う瞬間、呼び止める声がして顔を上げると、返事をした男子生徒が後ろを向きながら歩いて来ていた。
「マーティンっ」
「なんだよ?」
その時、避けようとしたアネッサの肩に男子生徒が打つかった。よろけたアネッサの手に持っていたお弁当が、弾かれて廊下に転がってしまう。
「アネッサさん、大丈夫っ?貴方っ前を見てくださいっ」
肩を支えてくれたルティアナが、不注意を窘めるが、お互い様だ。包みに守られて中身は、飛散しなかった。それが責めてもの救いだ。崩れたお弁当を拾い上げたアネッサは、心配してくれたルティアナと別れて購買部に向かうしかなかった。
購買部は、人集りができていた。気後れするアネッサの背後から声を掛けてくれたのは、見覚えのある男子生徒だった。
「アネッサ・ホフトンさんですか?」
「は、はい」
声に振り向き彼の横顔を見上げて暫しで、先日両親が話していた婚約者候補のリーヴァイ・スカーレットだと気が付いた。人集りのできている売店に視線を向けていたリーヴァイが、アネッサの視線に気が付いて微笑む。
「何を購入するか決めていますか?」
「‥え、えっと」
答えに困っているとリーヴァイが、片耳に手を添えて聞き耳を立ててくる。購買部の売店に集まった生徒たちが、声を張り上げているのでアネッサの声が、聞こえ難いのだ。意を決したアネッサが、少し大きな声で答えた。
「石窯パンですっ」
ライラック学園の購買部の石窯パンは、美味しいと有名だ。それ以外をアネッサは知らない。少し驚いた表情をしたリーヴァイが、優しげに目を細めた。
「僕も同じものを買うつもりです。気が合うのかもしれませんね」
揶揄うように笑ったリーヴァイが、片手を挙げて人混みに向かって行く。
「待っていてください」
売店から戻ってきたリーヴァイの手には、購買部の紙袋が二袋握られていた。
「これをどうぞ」
「‥ありがとうございます、スカーレット様」
「リーヴァイと呼んでください。今度の休みにまたお会いしましょう」
「え?」
お財布からお金を取り出そうとしたアネッサを片手で制したリーヴァイは、そのまま背を向けて同級生の輪に加わってしまった。取り残されたアネッサに気さくに手を振ったリーヴァイは、楽しげに談笑しながら同級生たちと歩いて行ってしまう。
談笑する輪の中には、女生徒の姿も見えた。性別を気にせずに接することができる人なのだろう。
紙袋を開くと石窯パンがふたつ入っていた。仕方なく歩き出したアネッサは、人気の少ない方向に自然と足が向かっていた。何故か気分が沈む。
(今度のお見合いは、上手くいかない気がするわ)
リーヴァイ・スカーレットは、自分と正反対の人という印象を抱いてしまった。休日が早くも憂鬱だ。
俯きながら廊下を歩いていると、何処からか可愛らしい鳴き声が聞こえてきた。
「きゃんっきゃんっ」
「子犬かしら?」
ゆっくり近付いて行くと、裏庭の叢に紐に繋がれていた子犬が一匹、自分の尻尾に戯れ付きながらクルクル回っていた。
体に紐が纏わり付いて不自由そうだ。渡り廊下から外れ芝生の上を歩いて子犬に近付いたアネッサが、子犬に手を伸ばそうとした。
「手は出さない方がいいっ」
突然の声に驚いて振り向くと、赤茶の瞳と同系色のハイライトの髪が人目を引く男子生徒が、こちらへ近付いて来るところだった。外履きの靴を履いている男子生徒は、子犬のそばでしゃがみ込むと、絡み付いた紐を解いてやろうと手を伸ばす。その手に子犬は、齧り付いた。唸っている訳じゃない。けれど、甘噛みにしても野犬に噛まれるのは心配だ。
「大丈夫ですか?」
「ああ。腹が減っているんだと思う」
人間の食べ物を気安く与えることはできない。きっと、彼は購買部へと向かったのだろう。しかし、運悪く良さそうなものが売り切れてしまったあとだったのだ。
(そうだわ。お弁当のご飯なら食べられるかもしれない)
アネッサは、手にしていたお弁当を膝の上で開いて中身を確認してみた。包みは濡れてしまっているが、お米は無事のようだ。
大きめな葉っぱの上に綺麗なご飯だけを乗せて向けてみると、子犬は嬉しそうに尾を振ってぱくぱくと食べた。
「柔らかい米なんだな」
「ええ。貴方は何か食べましたか?」
「‥‥」
子犬を見詰めたまま黙り込んだ男子生徒にアネッサは、向き直ると自己紹介をしてみることにした。不躾な令嬢だと、警戒している可能性もあるからだ。
「今更かと思われそうですが、二年のニクロスに在籍しております。アネッサ・ホフトンです」
こちらに視線を向けた男性生徒が、ゆっくりと立ち上がり、口を開いた。
「一年のニクロスに在籍しているルアン・ウィリアムだ。この子犬を保護しようと思っている」
「そうでしたか。良かったらパンをどうですか?」
「‥‥」
「ふたつ入っています。男性には、少ないかもしれませんが‥」
「なら、ひとつ貰う。ありがとう」
近くの水道で手を洗ったルアンは、皺のないハンカチで手を拭くと、差し出した紙袋からひとつパンを取り出した。胸に片手を当てて目を閉じ祈りを捧げてから、パンに齧り付く。
その姿に微笑んだアネッサは、自分も同じように水道で手を洗い、祈りを捧げてからパンを千切って口に運ぶ。
パンを食べ終えたルアンが、間隔を開けて伸びている竹筒から常に水が流れている学園の水道の水を両手で掬って、子犬に与える。喉が渇いていたのだろう。ぺろぺろとよく飲んだ。
それを眺めながら木陰に座りパンを千切って食べる。不思議と気分が落ち着いていたアネッサは、心地良いと感じる時間を過ごしていることに気が付いた。
(私たら良くないわ。現実逃避しているだけじゃない)
立ち上がりその場を離れそうとしたアネッサに尻尾を振った子犬が、元気に吠える。ルアンが振り向いてこちらを見詰める。その何気ない視線にドキッと胸が高鳴る。
「邪魔をしてごめんなさい」
「そんなことない」
「‥‥リーヴァイ・スカーレット様をご存知ですか?」
「いいや」
「私、彼とお見合いをするんです」
そこまで言ってハッと正気付く。
(私、初対面の人に何を言っているのかしらっ?)
「忘れてくださいっ」
背を向けて走り去ろうとしたアネッサに意外にもルアンが声を張った。
「リーヴァイ・スカーレットは知らないっただ、嫌なお見合いはしない方がいい‥と、思う」
思わず足を止めて振り向いてしまった。真っ直ぐに向けられたルアンの眼差しが綺麗だと感じた。
あの後、一言も交わさずに教室へ戻ったアネッサは、上の空で授業を受けていた。午後の授業が終わり、ルティアナと教室を出たアネッサは、校門へ向かって歩いていた。校門の外には、迎えの馬車が列をなして並んでいる。いつもの光景だが、不意に視線を向けた先に赤茶の髪にハイライトが映える男子生徒を見つけた。子犬を抱えて馬車に乗り込むところのようだ。
(ルアン・ウィリアム‥)
食い入るように見詰めてしまうアネッサに気が付いて視線を追いかけた様子のルティアナが、首を傾げる。
「彼は、一年生のようですわね。何故、子犬なんて抱えていたのかしら?」
「裏庭に迷い込んだみたいだわ」
「猫に犬にと‥。学舎に動物を捨てるのはやめていただきたいですわね」
呆れた様子で告げたルティアナは、こちらに微笑みを向け「また明日」と言って馬車に乗り込んだ。
「ご機嫌よう」と返したアネッサも馬車に乗り込む。走り出した馬車の窓から外を眺めて過ごしたアネッサの頭の中を駆け巡るのは、昼休みの出来事だ。
「リーヴァイ・スカーレット」
小さく呟いていた。性別に垣根を作らない性格は、良くも悪くも奔放だと思えてしまう。堅苦しい考え方かもしれないがアネッサには、男性の友達がいない。あの中の女生徒を友達として紹介されても仲良く振る舞う自信はないし、苦痛に感じてしまうだろう。
「ルアン・ウィリアム‥」
子犬を見詰める優しげな瞳が忘れられない。彼のような人が家庭を築いたら、優しい父親になるのではないだろうか。
「アネッサっ‥アネッサっ?」
「え?」
「貴女、大丈夫?」
ぼんやりしていた。夕食の席で俯いていたアネッサは、食事をしようとホークに温野菜の人参を刺しつつ「ええ」と、返事をした。案じ顔を向けていた母のシャーリーが、小首を傾げ眉を顰めると、父のオリオンが口を挟む。
「‥両家の顔合わせは二日後だ。気も漫ろになるだろう?」
素っ気ない口調で温野菜を口にする父のオリオンに母シャーリーが「そう‥」と呟く。
「私は、恋でもしているのかと思ったわ」
思わず、顔を上げてしまった。恋‥なんて考えてもいなかった。
「私が?」
「そうよ?別に可笑しなことではないでしょう?年頃の女の子は、気になる人が現れたらその人のことばかり考えるものよ」
当て嵌まる。
「つい、ぼーっとして物事が手に付かないとかね?」
当て嵌まってしまう。
辛うじて苦笑いを浮かべたアネッサに父のオリオンが、厳しい眼差しを向けてきた。
「リーヴァイ・スカーレットとは、挨拶を済ませたのか?」
「はい、お父様」
「良い男だったのね?」
手を添えて小声で話し掛けてきても筒抜けだ。お茶目な母が、片目を閉じて笑い掛けてくる。俯くしかないアネッサは、食事に集中した。
(私が恋?‥‥いいえ、違うわ。これは、現実逃避よ)
翌日のお昼休みは、生徒会室でみんなとお弁当を食べた。行方不明になったアルメリアとアナイスと親しくしていたアネッサたちを白い目で見る人が多いので、食堂では息が詰まるのだ。
何気ない時間が過ぎていく。
「あの猫はどうなったのですか?」
「二年の女生徒が連れて行ったよ。納屋の鼠捕りをしてもらいたいだとか‥言ってたな」
何気なく発したエシャリの疑問に答えたのは二年生のアルバートン・クライブだった。
「果たして役に立つかは謎だけどな」
「期待は大きそうでしたね」
(そう言えば‥アルバートンさんってグリスよね)
生徒会の会長を務めるルーク・ファンレイと一緒に行動することが多いアルバートンは、元々エデビラに在籍する生徒だった。二年に進級する際にひとクラス上がったのである。
「クライブ様‥リーヴァイ・スカーレット様をご存知ですか?」
「リーヴァイ‥?ああ、同じグリスの生徒だからな」
「どんな方なのですか?」
真剣な表情で尋ねたのはルティアナである。きっと、アネッサのお見合いの予定を何処かで聞いて知ったのだろう。
「そうだな。分け隔てなくって言えば聞こえはいいかもな」
「身分にも性別にも捉われない新しい思想に偏る方ですね」
アルバートンの言葉に補足したルークが、苦笑いを浮かべた。
「来るもの拒まず去るもの追わずって感じで、いい奴だとは思うけど‥」
「判断が分かれますね」
ふたりの評価はあまり良くないようである。アルバートンは、休み時間や空いた時間は、教室で熱心に勉強をしていると、恋人のアンジェリカから聞いたことがある。三年生に進級する際にグリスよりひとクラス上のロッテナに入りたいと思っているようなのだ。ロッテナには、恋人のアンジェリカが在籍している。ふたりは、婚約をしていない。同じクラスになれば、ふたりでいられる時間も増える。励みになるだろう。
(進級の際にクラスが上がる生徒は多くないわ。アンジェリカさんのご両親に婚約者として認めてもらうには、いい条件かもしれない)
アルバートンは、クライブ家に養子として引き取られた青年だという難点がある。子供の頃から貴族として育てられたアルバートンの出生を平民ではないかと怪しむ者も少なくない。今は品行方正だが、荒れていた時期もある。伯爵令嬢のアンジェリカを嫁にもらうには、釣り合いを取れる何かが必要になってくるのだ。それをアルバートンは、学力という努力で補おうとしているようだった。
(愛されているのよね‥)
微笑み合うアルバートンとアンジェリカを見ていると、羨ましいと感じてしまう。
(私も愛されるようになるのかしら?)
彼らのようにリーヴァイ・スカーレットと笑い合える日が来るのだろうか。
最近のルティアナは、急いで帰宅することが増えていた。この時のアネッサは、自分に訪れた変化で手一杯だった。だから、今思えばということになるが、あの頃のルティアナにも余裕がないようで、不安そうにしていることが多かった。
行方知れずのアナイス・レガーを屋敷に匿っていたと知った時は、とても驚いたが、だから納得もした。
お見合いの当時、アルメリアの妹のフローラ・プリムスが、禁術に手を出したとして捕まり、処刑されるのではないかと社交界に噂が広まった。
それを受けてアネッサのお見合いが先送りになった。
(情勢が良くない時にお見合いをする必要はないものね)
何れ、落ち着くのだ。その時にお見合いをすればいいと判断した両家に異議はない。正直、ほっとしていたのも事実だ。
「アルメリアさん、無事で本当に良かったわ」
その時は、案外足早に訪れた。監獄へと移送される実妹のフローラを助けたアルメリアは、隣国でも聖女として認められたらしい。フローラの行った悪事が露呈してプリムス家は、過失責任を課せられたが、当主夫妻も被害者である。婚約破棄で揉めた一連の騒動も呪いの被害であったとはっきりしたのだ。本当に婚約破棄に至る家門は少なく、その理由も今回の騒動をきっかけにしたものに過ぎない。つまり、アルメリア・プリムスは、婚約者のアルフェルト・レガーと今まで通り学園に復学できたのである。
「アネッサさん、ありがとう」
「アネッサさん、婚約したのよっ」
「え?何方と?」
「それがね」
リーヴァイ・スカーレットは、まだ婚約候補のひとりだが、噂を聞き付けらしいエシャリに悪気はない。アネッサは、眉を下げてやんわりと口を挟む。
「あとでゆっくり話すわ」
「アネッサさんは、アルフェルト様のことどう思っていたの?」
真剣な表情のアルメリアに尋ねられて言葉に悩んだ。
「‥‥。二人きりで話せるかしら?」
授業開始まで時間はある。ふたりで場所を変えるため歩き出したアネッサは、人気のない渡り廊下でアルメリアに向き直る。
「実はね、この婚約は悩んでいるの」
「でも、アルフェルト様は関係ないわ。彼が気になる時期も確かにあったわ。でも、それは過去のことよ?」
子供の頃、ぶっきら棒でも優しいアルフェルトが、気になって見ていた時期は確かにあったのだ。でも、それは恋の入り口のようなものだった。踏み込む必要のない。憧れのようなものだ。
「私は恋愛をしてみたかった。でも、できなかったわ。それが少し心残りなの」
「何故、恋愛ができないの?」
「それは‥」
「素敵な人が現れたら自然と恋は動き出すわ」
首を傾げたアルメリアが、自身の胸に手を当てて微笑んだ。
「此処が温かくなったり騒がしくなるのよ。アネッサさん、綺麗になったわ。誰か気になる人がいるんじゃないの?」
優しく尋ねられてドキリっとする。
「わ、私は‥」
「うん、うん。誰なの?」
押しの強いところが彼女の魅力のひとつだろうか。素直になるしかない。
「気になる人がいるわ。でも、彼は年下だし、お相手がいるかもしれないの」
「お名前は?」
「そ、それは‥」
「秘密にするわ」
そっと耳元で囁いてくるアルメリアは、以前より魅力的な大人の女性に変化しているようだった。色気とでもいうのだろうか。彼女に微笑まれたら多くの男性は、虜になってしまうだろう。
「‥本当に内緒よ?」
こくこくと頷いたアルメリアは、先程と反して幼く見える。この振る舞いに和んだアネッサは、小さく笑んでから自身の気持ちを正直に打ち明けた。
「一年生のニクロスに在籍するルアン・ウィリアム様よ」
「まぁっルティアナさんの婚約者と仲の良い生徒さんね?」
「そうなの?」
知らなかった。
「ええ、アルフェルト様と同じクラスの生徒さんだから間違いないわ」
彼女は、好きな人の環境をしっかり把握しているだけだろう。
「ねぇ、アネッサさん。お昼休み中庭の池の前に花を摘みに行ってくれないかしら?」
「花を?」
唐突な展開に目を丸くする。
「ええ、生徒会室に飾りたいの」
「許可が必要じゃないかしら?」
「私が許可を取っておくわ。以前の生徒会室は、春になると花瓶に花を生けて飾っていたでしょう?ダメだとは言われないと思うわ」
「分かったわ」
「申し訳ないけれど、ひとりで向かってね?」
副会長と応援部長が不在だった生徒会の活動は、滞りなくとはいかない。「ええ」と頷いたアネッサは、何の疑いもなく昼休みにひとりで中庭の池に向かった。
中庭の池の周りには、赤い春の薔薇が咲いていた。周りには百合も花を咲かせている。
「綺麗ね」
何となく薔薇に手を伸ばしたアネッサの手を誰が掴んで引き留めた。
「怪我をするぞっ?」
近い声にドキドキと心臓が音を立てて鳴り出す。
「ウィリアム様?」
何故、ルアン・ウィリアムが、この場所にいるのか分からずに放心する。
「ホフトン嬢、花を摘むなら手袋をした方がいい」
「は、はい」
作業用の布袋を持っていたルアンが、手袋を取り出して差し向けてくる。園芸用の鋏を取り出したルアンが、器用に枝を切っていく。
「慣れていらっしゃるのですね」
「ああ、うちでも薔薇を育てているんだ」
一瞥、こちらに視線を向けたルアンが、暫し黙り込んでから横を向いたまま尋ねてきた。
「‥お見合いはどうなった?」
「‥‥延期になってしまったので、お会いしていません」
「そうか」
横を向いたままのルアンの表情が、和らぐのを見て胸が苦しさを増す。
(何故、少し嬉しそうなの。期待してしまうわ)
ルアン・ウィリアムと薔薇を抱えて生徒会室に向かう途中の水道で花瓶に花を生けていく。
「慣れているな」
「そうでしょうか?」
母に花嫁修業として生花を習っていたことが功を奏したと言えそうだ。
「あの子犬は元気ですか?」
「ああ」
(口が数が少ない人なのよね)
ぶっきら棒なのではなく、無駄口を叩くようなことを控える性格のようだ。そう気が付いたアネッサが、彼を見上げて黙り込んだ。それに困った様子のルアンが、たじろぎつつも口を開く。
「‥今度、見に来るか?」
「‥‥ええ、お邪魔します」
ルアンと、生徒会室に入り窓辺に花瓶を飾ると、生徒会の活動に一緒に参加をした。それが自然の流れだったからだ。教室に戻り、授業開始の鈴の音が、廊下に響いてから不意に我に返った。
(私‥とんでもない約束をしたのではないかしら?)
とても大胆だったと、今になって気が付いた。取り返しが付かない事態だ。少しでも一緒にいたい。少しでも話がしたいと思ってしまった。だから、無意識に出た言葉だった。
真っ赤に染まった頬を両手で隠したアネッサを見ていたアルメリアが、不適に笑んだことなど知らなかった。
「イベントが進んだみたいね」




