闇夜に紛れて
船は順調に航路を進み予定より数日早くラブリエ王国の首都の町に到着した。
「本当なら王宮に出向いて挨拶するところなんだけど‥」
埠頭には、出迎えに駆け付ける人の姿はない。クレマチスが、困り顔で周囲に視線を向けていた。
「アイシャさんは、冷遇を受けているから素直に居場所を教えてくれないかもしれないわ」
「サファリア家に直接行ってみるのはどうかな?門前払いはされないと思うけど」
聖女一行が、レグザからラブリエに向かっている情報を公爵家が掴んでいても不思議ではない。国の外交に注意を払う公爵家なら他国の聖女に好意的ではないとしても大した理由もなく追い返しはしないだろう。アルメリアは、エリオットの意見に頷いた。
公爵家のサファリア家は、王都にも邸宅を構えている筈だ。アルメリア達は、近く町の宿に荷物を預けて、受付のフロント係にサファリア家が所有する邸宅の住所を尋ねてみた。
「サファリア家の邸宅は、この辺りでしょうか?」
「公爵家の邸宅は、王宮の近くになります。小さなお城のような外観をしておりますので、近くに行けば直ぐに判別が付くと思いますよ?」
「馬車の手配をしていただけませんか?」
「畏まりました。直ぐにご用意いたします」
この宿は、宰相のシリウスが信用できると言っていた宿泊施設の一つだ。用心深い彼が、ラブリエ王国の人間を無闇に信用するとは思えない。なので、レグザの諜報員が紛れ込んでいると考えるのが自然だろう。
恐らく、御者を務めてくれる人間もレグザの関係者だ。
何も知らない振りで用意された馬車に乗り込んだアルメリア達は、そのままサファリア家の邸宅に向かった。確かに小さなお城と呼ばれるのに相応しい外観をしている。水色のとんがり帽子を被ったような西洋風の屋根が可愛らしい。邸宅前の通りで停まった馬車から降りると、背の低い門扉の前に立つ門兵が、視線を寄越してきた。
騎士のエリオットがゆっくり近付いていく。
「アイシャ・サファリア様という御令嬢は、こちらにいらっしゃるでしょうか?」
「‥‥」
困り顔の門兵が、仲間に視線を向けると一歩前に出た門兵が、丁寧な口調で尋ね返した。
「どなたかと勘違いされていませんか?」
「私たちは、レグザからやってきました。探している御令嬢の生家は、ルビトン家だと伺っているのですが‥」
「確かにルビトン家とサファリア家は、古くから交流がありますが‥」
歯切れ悪く説明する門兵の戸惑う様子を見ていると不安になってくる。
「すみません。アイシャという名の御令嬢には、心当たりがありません」
「サファリア家にもルビトン家にも御令嬢はおります。ですが、どちらもお名前が異なります」
(アイシャ・サファリアが存在しないっ⁉︎)
由緒ある公爵家の令嬢が知られていない筈はない。愕然とするアルメリアに戻ってきたエリオットは眉を下げる。
一度馬車に戻ったアルメリアたちは、暫く言葉が出てこなかった。
(もしかしてアイシャさんは、ルビトン家の養女だったの?誰か、その辺の事情に詳しい人は‥)
「あっ!そういえばアイシャさんには、ラブリエ王国から連れて来た侍女がいたわ。彼女なら何か詳しいことを知っているのかも」
「そういえばいたな‥」
「名前は‥ロ‥ロ‥。そうっロレッタさんよっ」
「もう一度聞いてみるよ」
腰を上げたエリオットが、踏み板を踏んで馬車を降りていく。先程の門兵たちに歩み寄り声を掛けて暫しでエリオットは、軽く頭を下げて戻ってきた。
「サファリア家にロレッタという侍女はいないそうだよ」
「ならルビトン家に向かってみましょう?」
御者を務める男性に声を掛けて馬車を走らせる。栄えた街からどんどん遠ざかる馬車は、住宅街を走り抜けて森の中を進んでいく。
王都の郊外に屋敷を構えるルビトン家は、古びた洋館を一棟所有するだけのこぢんまりとしたお屋敷であった。小さな庭は、芝生が植えてあるだけで花壇もなければ地植えの花もない。
(少し寂しいところね)
門兵の姿も見えない。仕方なく門扉を開いたエリオットが、玄関のドアノッカーに手を伸ばした頃合いで、女性の悲鳴が響き渡った。呆気に取られる展開である。
突然、開いた玄関のドアから庭へと駆け出してきたのは、ずぶ濡れの侍女だった。
「ははははっ」
明るい女性達の笑い声が庭まで聞こえてくる。
馬車の窓からよーく見てみるとずぶ濡れの侍女の髪は乱れ、不揃いだった。
「これって虐めじゃないっ」
ムッとしたアルメリアが、馬車から降りようとドアに手を伸ばす。その手を制したのはクレマチスだった。
「此処はエリオットに任せましょう?」
地面に倒れ込んだ侍女は、真っ青な顔で二階の窓を見上げていた。
その視線を追いかけると窓から花瓶が落とされる瞬間だと気が付く。考える時間もない。咄嗟に飛び出したアルメリアの肩をアスレットが掴んで引き止める。
「無闇に動くなっ」
「駄目よっ私は聖女よっ!こんな不届きな行いは許せませんっ!降りてらっしゃいっ」
アルメリアの声を聞いてだろう。両手で花瓶を持つ手が引っ込んだ。二階の窓からひとりの侍女が、顔を出して注意深く首を振り周囲を確認する。その侍女を押し退けるようにして窓に近付いた令嬢が、顔を顰めて声を張った。
「このレテシア様に言ってるのっ!」
「嘆かわしいにも程があるわっ彼女は貴女の世話をしてくれる大切な人でしょうっ?」
「やめてよっ見ず知らずの癖にお説教なんてっそもそも聞き飽きたわっその子が目障りだからいけないのよっ」
「ならこの方は私が預かるわ。それでいいわね?」
「ロレッタを?」
令嬢の雰囲気が明らかに変わった瞬間だった。
「駄目よっそいつは一生私に仕えるのよっ勝手なことは許さないわよっアンっ連れてらっしゃいっ早くっ!」
「ロレッタっ馬車に乗りなさいっ」
馬車のドアを開け放ち声を張ったのはクレマチスだった。
(冷遇を受けているのはアイシャさんではなく侍女のロレッタ。設定が滅茶苦茶だわっ)
エリオットが、手帳に何かを書き込んで破り取り地面に置いた。紙が風に飛ばされないように近くの石を手早く乗せたエリオットは、躊躇うロレッタの肩を支えて馬車へと誘導する。
「いけませんっ私は‥」
戸惑うロレッタを乗せた馬車が発車するタイミングで、玄関から姿を見せた細目の侍女が、足元の書き置きに気が付いたようだった。
「ルビトン家でロレッタという侍女は、貴女以外にもいるのかしら?」
暗緑色の髪と濃紺色の瞳をしたロレッタは、記憶の中の少女と重なる。だが、念の為、確認してみた。
「いいえ。あの‥この馬車は、何処へ向かっているのでしょうか?早く戻らないとお嬢様にまた鞭で叩かれます」
「今、戻ったら死んでしまうかもしれないわっ」
花瓶を頭上へと落とす蛮行を笑いながら行える主人なのだ。常識的な人なら一歩間違えば死んでしまうと考える。その当たり前の危機意識が養われていない。そんな人の下で働く意味が分からない。
「そんな‥。そうかもしれません。でも、私には親が残した借金があって‥逃げることは許されないのです」
苦汁を嘗めるようにロレッタの表情は硬い。完済するために理不尽な扱いを今まで耐え凌いできたのだろう。
「借金ですか。幾らほどになるのでしょうか?」
案じ顔を向けたエリオットが、聞き出し難いことを尋ねてくれた。しかし、俯いたロレッタの返事は、曖昧なものだった。
「一生働いても返せない額だと言われております」
「あなたのご両親は、何故そんな多額の借金をしてしまったの?」
「分かりません。何も分からないのですっ」
拳を握り締め震えるロレッタの様子を見ていると胸が苦しい。彼女の口調が強いのは、アルメリアたちに怒っているからではない。今の境遇に強い憤りを抱えているからだ。
しかし、子爵家のプリムス家に彼女の借金を立て替えるだけの余裕が、果たしてあるのだろうか。
(ロレッタを残してはいけないわ。でも、借金の返済の当てがない)
「先ずは借金が幾らなのか。明確にする必要がある。今後も働きながら返すのなら職場が変わっても文句はないだろう?」
「弁護士さんを探す必要がありそうね」
返済の意志がある状態で好条件な職場に移るなら邪魔をされる理由はない。
「この国の人間は当てにできません」
「それは大丈夫だと思います。王都の宿でルビトン家の使いの方を待ちましょう?」
優しげな口調のエリオットの提案にもロレッタの表情は硬いままだった。
その日の夕方、立派な黒塗りの馬車が、宿の前で停まった。御者の隣で待機していた侍従が、御者台から降りて両手でドアを開く。そんな威厳ある馬車から降りてきたのは、大きなお腹の目立つ背広姿の男性だった。杖を突いてゆっくり歩いてくる。
(何かのキャラクターみたいな人ね)
二階の窓から様子を窺っていたアルメリアと宿の入り口からこちらを見上げた紳士の目が合う。
(あの令嬢の父親みたいね)
令嬢は父親に似たのだろう。頬と鼻先に広がったそばかすと小さな瞳が特徴的だと思わせる親子だ。彼のあとから降りてきたのは、お仕着せを纏う年配の女性だ。侍女頭だろうか。きつい表情をしている。
「ロレッタ、手間を取らせて恥を知りなさいっ」
彼女の第一声からして身を案じる様子は一切ない。一階の広間に下りたアルメリア達は、ロレッタを守るようにしてふたりと向き合った。
「借金の借用書を見せてください」
「なんて失礼なっ」
「ロレッタが望んでいることです」
威嚇するように肩を怒らせる女性に怯えて黙り込むような性格ではない。アルメリアは、逸らすことなく彼女の瞳を見詰め続けていた。
「当然の権利だと思いませんか?」
エリオットが紳士的に尋ねると、黙って様子を窺っていた男性は、自分の対称的に整えられた髭を親指と人差し指で摘みながら口を開いた。
「彼女は成人するまで我が家で養育するつもりです」
「私は嫌ですっ」
「ロレッタっ!」
ヒステリックに叫んだ女性が叱り付ける。頭に響くような声だ。
「君の両親に頼まれたのだよ。借金の返済は、そのあとでしてもらうつもりだ」
「それは身売りのようなものではありませんかっ?」
冷静なクレマチスの問い掛けに男性と女性は、黙り込んだ。貴族令嬢が嫉妬する程にロレッタは器量がいい。騙すように無知な女性を劣悪な環境に追い込んで支配しようと企む悪党は、何処の国にもいるものだ。彼らもロレッタから金を搾り取る魂胆なだろう。借金自体も捏造の可能性が否めない。無知な女性から搾取することに心を痛める良心がないのだ。ロレッタの人生を滅茶苦茶にしても我が物顔で私腹を肥そうとするだろう。
「‥‥帰るぞ、ロレッタ」
「レグザが彼女を保護します。弁護士に依頼されても結構です。本日はお引き取りください」
クレマチスの言葉に侍女頭と思われる女性が息を飲む。
「ちっ」
忌々しげに舌打ちした男性が、周囲の冷たい視線に気が付いて踵を返す。宿の出入り口から大人しく出て行ったが、簡単には引き下がらないだろう。
馬車が走り去る音が遠ざかっていく。
「ロレッタ、アイシャさんという女性に心当たりはないかしら?」
「アイシャ‥ですか?いいえ、ルビトン家の御令嬢は、レテシア様だけです。使用人にもアイシャという女性はいません」
「間違えはない?」
「はい」
迷いなくロレッタは頷いた。
(アイシャ・サファリアは、今世では存在しないということなのね)
「今はロレッタの保護を優先するべきだと思うわ」
「騒がしくなる前に宿を出よう」
アスレットの言葉にアルメリアたちは頷いた。ルビトン伯爵に雇われたならず者たちが宿を襲撃する可能性がある以上、長居するべきではない。
廊下の死角に用意していた荷物を持ち上げたアルメリア達は、その日のままチェクアウトを済ませて馬車を走らせた。そして、真夜中にラブリエ王国の埠頭から出航したのである。