『恋をしていればよかった』
翌日の早朝、アルメリアはクレマチスに宮殿の裏庭へと呼び出された。
「私も付いて行こうと思うの。良いかしら?」
「ラブリエ王国に?」
クレマチスの提案は意外なものだった。彼女とラブリエ王国にどんな繋がりがあるというのだろう。
「正確には、ラブリエ王国は序でで‥ステファニアへ行くつもりなんだ」
「え?」
予期せぬ人の登場に目を丸くして振り向く。
何も答えないクレマチスの代わりに声を掛けてきたのはエリオットだった。背後に広がる生垣の木の間から姿を現したエリオットが、優しげに眉を下げた。
「驚かせてごめんね、アルメリア。僕は聖女の護衛騎士でもあるだ。アナイス・レガーの国外追放の処分には曖昧なことも多い」
クレマチスの護衛騎士のエリオットは今も任務中らしい。
「その理由としてレグザは、王太子の座を巡る王子達の対立が有力だと見ている。シリウス宰相は、ふたり王子の軋轢が深まることを危惧している」
「今後の外交の妨げにならないようにステファニアの動向を確認するようにと任を受けたんだよ」
「ルーカス国王陛下は、あなた達だけで行かせることが気掛かりみたいなのよ。アルフェルト・レガーとアルメリア・プリムスの護衛には、私たちが適任だと判断なされたみたいよ」
「護衛がない状態では、ラブリエ王国に行けないのね?」
「そうよ」
旅費のないアルメリアたちは、レグザの助力なしで出航するのが難しい。しかし、同行するのはレグザの聖なる乙女として守られているクレマチスだ。彼女が無事に帰国できなければ戦争に発展する可能性がある。
「レグザの聖なる乙女を国外に出すなんて大丈夫なの?」
弱点を態々相手に晒す危うい行動だと思える。
「だから、ラブリエ王国は慎重になる。レグザが国を挙げて守る聖なる乙女だ。易々と問題行動は起こせないだろう?」
エリオットの背後から姿を現したアスレット事アルフェルトが、分かり易い説明をしてくれた。
恐らく、アスレットをこの場に呼び出したのはエリオットだろう。
「成る程‥ステファニアの聖女では、威力が弱いのね」
小国として軽んじられるステファニアの聖女より、大国として恐れられるレグザの聖女を盾に取る。レグザの機嫌を損ねないように顔色を窺うラブリエ王国の為政者達は、手も足も出ない。それどころかご機嫌伺いの為に率先して守ろうとするかもしれない。相手の敷いた政策を上手く利用するやり方がルーカスらしい。
「残念ながらね。女性で護衛に適した人は、それ程多くはないの。私は役に立つわよ?」
念の為、アスレットに視線を向けると彼は頷いた。
「ありがとう、クレマチス。エリオット。ふたりにはお世話になるわ」
朝食のあとで宮殿の馬車に乗り込み、近くの町の埠頭に移動したアルメリア達は、小さな船に乗り込んだ。
「聖女様方、くれぐれもお気を付けて」
見送り来てくれた侍女にクレマチスが頷く。案じ顔の侍女は、薄らと涙を浮かべていた。
(ラブリエ王国は、危険な国なのかしら?)
「少し離れるだけよ?あとを頼んだわね」
「はい、聖女様」
別れを惜しむ侍女に優しく声を掛けたクレマチスは、気品がある貴族令嬢そのものだった。
小さめの船だが、備えはしっかりしてあるようだ。騎士のように屈強な船乗り達が、手早く荷物を積み上げていく。
「またな」
「行ってらっしゃい」
制服姿の與田理人事リズリーと天音秀事アスレットに見送られてアルメリアは、元気に手を振って別れた。
「ねぇ、アスレット、ピョン吉を見なかった?」
「いいや」
そう返事をしたアスレットが見上げるのは、船の屋根だった。屋根には、二羽の青い鳥が並んで身を寄せ合い、上空を香色の鳥が羽ばたいていた。やはり藍色の小鳥はいない。汽笛を鳴らし出航した船が町からどんどん離れていく。
「ピョン吉っ!」
アルメリアが、ソリエの町に向かって叫ぶと、町を背にして一羽の鳥が飛んでくるのが見えた。
「ピーッ」
船の上で香色の小鳥と戯れるように旋回する藍色の鳥が、ゆっくり降下するとアスレットの頭の上に止まった。
「お前‥」
「ピーッピーッ」
翼を広げて元気に鳴く藍色の小鳥にホッと胸を投げ下ろす。
「頭の上で鳴くなっ」
迷惑そうにしたアスレットなどには、お構いなしだ。頭の上でのんびり羽繕いを始める。
「やめろって言ってるだろっ?」
「案外、お洒落さんなのかもしれないわね。でも、逸れちゃ駄目よ?」
「チュチュチュチュ」
言葉を理解した様子の藍色の小鳥が、可愛らしく返事をするので、微笑んでしまう。肩を落とし溜息を吐いたアスレットは、クレマチスへと視線を向けた。
「クレマチス、天音秀には蛙が寄ってくるのか?」
「蛙?いいえ、聞いたこともないわ」
「多分、私には寄ってくると思うわ。試したことはないけど‥病室がまだ冬じゃなかったもの」
豊城澪香の記憶が途絶えるのは冬である。ぼんやりと窓に映る粉雪を眺めていた豊城澪香は、眠るように息を引き取ったのだと思う。
「もう、あちら側に行く必要はない。何があるか分からないからな」
「そうね。お母さんも大変だと思うし‥」
娘の最後の願いと奔走する母の佐代子を気の毒に思う。豊城澪香が、どんなに頑張っても結末を変えることはできないのだ。
「蛙が寄ってくる転生者は、時空を行き来できると言うの?」
初耳だと言わんばかりの反応なので、今世ではまだ解明されていないようだ。
「前世ではそうだったわ」
「不思議だね」
眉を下げたエリオットにアルメリアは、日本での縁起言葉をふたりに話して聞かせた。
「無事帰るでカエル‥成る程」
ふむと考え込んだエリオットの表情は真剣そのものであり、アルメリアは微笑んだ。
「ねぇ、アルメリア。あんたの日記の指示通りトリトマ・ミネルヴァとネテオ・ルキウスの仲を取り持ったけど、あのふたりは大丈夫なの?」
「執事のジョブズが、邪魔をしてくるのは、最初だけよ。基本は、過保護だからネテオを泣かすようなことはしないわ」
恋愛ゲームの『恋をしていればよかった』の主人公は、トリトマ・ミネルヴァ、エリカ・サントリナ、スグリ・リリクロの三人だった。
トリトマ・ミネルヴァには、双子の妹フロックスが、ライバル令嬢として充てわれる。エリカ・サントリナには、養女で妹のジャスミンが、スグリ・リリクロには、異母姉妹の姉トリテレイアが、ライバル令嬢として登場することになる。
彼女達の目標は、侯爵家の嫡男ネテオ・ルキウスの婚約者になることだ。
ゲームの開始時では、どの主人公を選んでも意思表示の選択がある。恋をしたいと逆境の中でも健気に願うか、任務を遂行する為に色仕掛けで迫るハニートラップを心に誓うかのどちらかだ。
その選択で主人公たちの選択肢が変わってしまう。要は性格が変わってしまうのだ。
恋を選ぶと侯爵令息の反応で背景の花が、蕾から次第に開花して最終過程を経て虹色に輝く。その後、侯爵令息から告白を受け入れてエンディングを迎える。
けれど、任務遂行を選択すると令嬢たちは、色気や甘えで侯爵令息を翻弄しようとする。そこに出てくるのは、侯爵令息のゲージなのだ。真っ白なゲージを桃色に染め上げて告白すればエンディングを迎える。
(バッドエンドを迎えればトリトマは、廃墟のような修道院の修道女になり生涯を過ごす。エリカは、老齢の貴族の愛人にスグリは、儀式の供物にされてしまう)
しかし、主人公たちにだけ注意を向けていることもできない。主人公たちが、ハッピーエンドを迎えると、そのライバル令嬢には、悲惨な死が待っているのだ。フロックスは山奥で、ジャスミンは路地裏で、トリテレイアは民家で、謎の死が囁かれてしまう。
「恋をしていればよかった」の恋愛ゲームの攻略対象者となるのはネテオ・ルキウスだけである。自己評価の低い根暗キャラである彼の所為で破滅を迎える令嬢達とその家門は、芋蔓式に増えていき治安悪化に繋がっていく。
「ネテオ・ルキウスの更生は、うまく行ったのよね?」
「指示通りにやってみたけど‥」
クレマチスの報告は、何処か歯切れが悪い。何か問題があったのだろうか。アルメリアは、首を傾げつつクレマチスを見詰めて彼女の報告の続きを待ってみる。
「日記帳には、リリクロ姉妹は色仕掛けだと書かれていたけれど、ふたりは恋愛をしているようだったわ」
「えっ?」
アルメリアと共にアスレットも目を丸くした。
ゲームのシナリオに従うのなら姉妹のどちらかが恋愛を選べば、必然的に残りはハニートラップに振り分けられる仕組みになるのだが、現実はそうではなかった。前世では、リリクロ姉妹は、二人ともハニートラップを選択していたのだ。
(今世では、ふたりとも恋愛一択だったのね)
「リリクロ姉妹だけが違ったの?」
「そうね‥指示書とは違った選択をしたのは、この姉妹だけだけど‥所々予想外の行動に出る令嬢は多かったわ」
「未来が変わってしまったのね」
「トリトマ・ミネルヴァは、入学時は自分がどう動くべきかで悩んでいるみたいだったわ。妹のフロックスは、明るく社交的な人で生徒たちに人気があったの。彼女は、直ぐに友人たちと打ち解け合ってネテオに色仕掛けを仕掛けていたわ」
クレマチスが言いたいことは理解できる。侯爵夫人として社交界を引っ張っていくことを考えるならフロックスの方が適任だと言えるだろう。
トリトマは、大人しく慎み深い令嬢であり、地味というレッテルが貼られやすい。しかし、お邪魔キャラのジョブズ・カイザーを忘れてはいけない。
「執事のジョブズは、言い寄る女性を警戒する人だからトリトマの方が、自然と侯爵家に入り込める筈よ」
双子のミネルヴァ姉妹は、容姿の整った美しい令嬢であり姉のトリトマは、社交的ではないが妹のフロックスより勉強も運動も一歩リードし時に先手を打つ冷静な思考力もある。なので、手厳しいジョブズから一定の評価を得られやすいイージーモードの令嬢になる。
「そうね。私的にはトリテレイア・リリクロが可憐で良さそうだと思ったのだけど‥」
女神を彷彿させる儚げで美しい彼女は、レイアと愛され蝶よ花よと大切に育てられた。自慢の緩くウェーブのかかった淡い金髪は、人目を引くし常に控えめに微笑む彼女は、見た目を裏切る忍耐力もある。裏切りを美徳とする腹黒い一面さえなければ彼女は、主人公と寸分違わぬ存在力を放つのだ。ただ、美しい花には棘があるというように綺麗なだけの貴族令嬢はいない。
クレマチスの言う通り己を貫く彼女ならどんな悪にも染まらず可憐な微笑みを浮かべていられそうである。彼女自身が闇そのものなのだから。
(だから、彼女がライバル令嬢の時は、悪戦苦闘するのよね)
主人公の令嬢には、イージーモードのトリトマとノーマルモードのエリカにハードモードのスグリという振り分けが成されている。ハードモードのライバル令嬢として充てがわれるトリテレイアは、完璧令嬢だと言える。向上心と自尊心の高い彼女は、ライバル令嬢に向ける悪意も一際強いなのだ。
(クレマチスも大変だった筈なのに‥彼女を嫌わないのね)
他者の意見を聞かないトリテレイアを説得し懐柔するのは極めて難しい。ゲームでも現実でも彼女は強者だった。
(あの子を選びたい気持ちも分かるけど‥スグリが生贄にされちゃうからな)
スグリの花言葉には「あなたに嫌われたら死にます」という意味があり、彼女の家門の紋章に使われているクロユリの花言葉は「呪い」や「復讐」と縁起のよくないものも含まれる。
同じレイアの響きから幸福の再来を願う花であるロードレイアの木を誕生日に贈られたトリテレイアとはえらい違いである。トリテレイア事ブローディアの花言葉も「守護」や「受け入れる愛」と縁起がいい。正に正反対のふたりなのだ。
「みんな婚約者を得られたのよね?」
「ええ、あなたの指示通りにしたわ。一番難航すると考えていたスグリをルーカス国王陛下の側室にするという案もすんなり通ったし‥トリテレイアは、もう手出ししないと思うわ」
スグリは、初期設定で能力の低さが著しく目立つ令嬢である。けれど、鍛えるだけ上げられる利点もあるのだ。前世では、そんな潜在能力の高さがルーカスの目に留まったのである。
「案外、お似合いなふたりだと思うのよね」
今は愛人という扱いだとしても彼女の努力次第では、未来の王妃になれる日が来るかもしれない。
「‥‥そうね」
目を伏せたクレマチスの横顔が憂いを帯びているように見えた。
「そう言えば、あんたは精霊王に願いを叶えてもらったことがあるんでしょう?何を願ったの?」
「ああ、私は‥時間を巻き戻してもらったのよ」
「時間を巻き戻す?」
「とても大きな力ではないのかい?」
不可解そうなクレマチスの隣でエリオットが眉を下げて尋ねてきた。言葉にすると物騒な響きがすることに気が付いたアルメリアは、アスレットに助け船を求めて視線を向けてみた。
精霊王ピッピの力は、神々に匹敵するようなものではない。神々の理りを乱すようなことはできないのだ。
「いいや、こいつの場合は、記憶にしか干渉しない方法を選んだんだ」
「記憶?」
「つまり、起こってしまった出来事そのものを巻き戻すのではなく、その出来事に関わった特定の人物の記憶の操作をしたんだよ」
二択の選択肢でオーラを見誤り判断を間違えたアルメリアは、慌てて精霊王ピッピにやり直しを要求したのだ。しかし、精霊王ピッピは、生命の流れを乱すような願い事は、神々の怒りに触れると、時間を巻き戻す要求を拒絶した。なので、その場に居合わせた人間の記憶だけを書き換えてもらったのだ。
「ジャケンで負けた事実のみを消して急遽、後出しジャンケンに変更したって感じかしら?」
「それは‥」
「無理矢理の勝利だね」
「命と正義。迷うことはできないわ」
両手を腰に当てて胸を張ったアルメリアに眉を下げたクレマチスの隣でエリオットが苦笑いを浮かべていた。
それぞれに船室が与えられているので、夜は自分の部屋でのんびり過ごすことができる。振鈴の音で廊下に出たアルメリアは、小鳥達と食堂へ向かった。
空いてるテーブルの椅子に座ったアルメリアは、小鳥達の食事を用意するためにパンを千切り始める。
「聖女様、こちらをどうぞ」
体格のいい船員が、差し出してくれたのは、細かく刻まれた温野菜が入ったサラダボールだった。
「ありがとうございます」
にっこりと笑んだアルメリアに頬を染めた船員が、目尻を下げてお辞儀をした。大きな体格に似合わないフリルの付いた白いエプロンをしているから、調理場が彼の担当なのだろう。
それぞれが好きなメニューを選べるように三種類の料理が並んでいる。その配膳台から食べられる量を取り分けるのだ。
さっさと取り分けたアスレットが、隣の席にトレーを置いて椅子を引いた。
「待ってて私も用意してくるからっ」
お皿に取り分けられた美味しそうなオムレツを見たアルメリアのお腹が、ぐぅーっと音を立てて催促してくる。
椅子から腰を上げたアルメリアは、急いでトレーと取り皿を用意し、三種類の料理を少しずつ取り分ける。今日のメニューは、ふっくらしたオムレツと色取りの美しい温野菜にミートソースのスパゲッティなので、どれも選ばない選択がなかった。
気が付くと、中途半端な食事の用意をされた小鳥達が、テーブルの上で小首を傾げている。見兼ねたのだろう。眉を下げたアスレットが、パンの残りを千切りながら、小皿に乗せていた。
(何やかんやで面倒見がいいのよね)
遅れて食堂にやって来たクレマチスが、オムレツと温野菜だけを取り分けて近くの席までやってきた。
「クレマチス、一緒に食べましょう?」
「何か聞きたいことでもあるの?」
「ええ、リナム・フリードについて聞きたいのよ」
「ああ、あの子ね」
アルメリアの正面の席に座ったクレマチスが、パンを啄む小鳥達を一瞥してからアスレットへと視線を向けた。
「お邪魔させてもらうわね?」
アスレット事アルフェルトが、前世ではレグザの王子だったと知ったクレマチスは、できるだけの敬意を払うと決めたようだった。これにアスレットが頷きで答える。
「リナム・フリードの保護は、貴女の指示通り最優先で行うつもりだったわ。けれど、彼は既に妹のリナリアと安全な場所で保護されていたわ」
「リナリアは生きているのねっ?」
「そうよ」
「一足先に保護したのは天音秀と與田理人なんだな?」
「ええ、そうよ」
「ふたりは、双子の後見者であるフリード侯爵に掛け合ってリアムとリナリアを寄宿学校に入れたらしいわ。その頃合いで侯爵は、モンペスト所有の別荘をふたりに返したの。長期休暇の際は、自然豊かな別荘で過ごしているから問題の事件は起こっていないわ」
「成る程ね。だから、宮殿でふたりを見掛けなかったのね」
前世では、誘拐されたアルメリアがレグザに到着した時には、養女同然の扱いでフリード侯爵家の屋敷で暮らしていたリナリアは毒殺されていた。
(安心したわ)
前世よりいい結果になっていることが嬉しい。クレマチスが、祈りを捧げるのでアルメリアも手を組んで目を閉じた。
「リズリー嬢は凄い人よ。新しい化粧道具を開発して会社まで立ち上げたわ。彼女の化粧道具を使うと、目の大きさや顔の骨格まで違って見えるの」
與田理人は、モデルをしながらメイクアップアーティストの勉強をして手に職を付けたと聞いている。その時に培ったノウハウを活かしているのだろう。
「国王は興味を示さなかったんだな」
(ルーカスは、国益にならないことに興味はなさそうよね)
「女性の化粧道具だから男性には、惹かれない分野になるだろうね」
困り顔で話し掛けてきたのはエリオットである。きっと、最後に残り物を食べるつもりでのんびりやってきたのだろう。
「さっさと食事を済ませないと船員が食べられないぞ?」
アスレットの言葉に頷いたアルメリアは、大急ぎで食事を口に運んでいく。