カブリオールレッグ
仕事をすることを条件に船で生活をしていたアルフェルト事アスレットは、アルメリアと同じ部屋で寝起きしていた。
部屋がもらえるだけありがたいというアルメリアの言葉にアスレットも渋々従っていたが、婚約者とはいえ妙齢の女性と同じ部屋で過ごすことには抵抗を覚える。そんなアスレットに反してアルメリアは、気にする素振りがない。
寧ろ、同じ部屋で良かったとさえ言ったのだ。
それには、こちらも不機嫌になる。異性として意識していない証拠に思えたからだ。
こちらは親御さんにどんな説明をするかで頭を悩ませているのに。ただ、アルメリアは無神経だった訳じゃない。言葉を正確にするのなら‥。
「アスレットと同じ部屋なのね。部屋をもらえて良かったわ。これで、気兼ねなくリラ達を呼べるもの」
アルメリアの頭の中は、自分より他所様のことでいっぱいなのだ。それはいつものことである。
ムッとしていたアスレットに反して穏やかな表情を浮かべたアルメリアは、窓を開けて手摺りで羽を休めていた小鳥達を室内に呼び込む。
「ふたり部屋なんて天国よっ」
船員の部屋は、基本が相部屋であり、四人部屋や六人部屋はザラだというから、小さな部屋でも自由に使わせてもらえるのなら有り難いのだ。
初日から包丁で指を切ったアルメリアは、調理場の仕事ではなく清掃の仕事に。アスレットは、肉体労働に勤しんでいた。
疲れた体に鞭を打つような生活は、確かに辛い。
おかしな気分になる余裕はないだろう。
狭い部屋では、ベットの上で寛いだ小鳥達が、楽しげにチュンチュンと、鳴いていた。四羽居ると流石に煩い。しかし、アルメリアは慣れたもの。頭の上で鳴いていようとも就寝できるのだ。
小鳥達との生活に慣れているアルメリアは、青い鳥達がそばに居ないと、寧ろ不安のようだった。
一週間は、眠れぬ日々が続いた。アスレットには、女性と寝起きする経験がないのだ。背を向けて目を閉じても寝息が気になり眠れない。こちらが、辛い思いをしているのにスヤスヤと熟睡するから腹も立つ。
振り向くと、布団から生足を出して眠っているから目のやり場に困る。仕方なくベットから起き上がり布団を整えてやっても目を覚ます気配はない。
眠れぬ日は、外に出て風に当たるしかない。近くの部屋では、大きないびきが響いていた。目を覚ました船員が、廊下に出てきたところでアスレットに気が付き声を掛けてきた。寝惚け眼を擦って欠伸をしながら、ズレたズボンを引き上げて歩く船員は、アスレットと同じ仕事をしている関係で顔見知りである。
アスレット達が、振り分けられている仕事は、積荷を移動したり食材を調理場に運んだり機械の油差しを行う見習いの修業のようなものだった。
(こんな経験も初めてだよな)
アスレットには、誰にも打ち明けていない秘密がある。正確には、前世で家族だけに知られていた秘密だ。
「お前も便所か?」
「いいや」
素っ気ない返事をしたのに船員は、にっこりと笑って励ますように肩を叩いてきた。
「お前の恋人は、可愛い子でいいな。駆け落ち者とはいえ幸せにしてやるんだぞ?」
何故か駆け落ちだと邪推する船員が多くって困る。しかし、お尋ね者よりはいいだろう。
「しかし、鳥に愛されているなんて聖女様みたいだよな?」
腑に落ちないと言いたげに首を傾げた船員に思わず目を丸くしてしまう。
「ほら、急がないと夜が明けちまうぞっ?」
突然、声を掛けてきたのは、年配の船員だった。船内の見回りを担当している船員のひとりだろう。白髪混じりの男性は、無精髭を撫でながら、眉を吊り上げて若い船員を叱り付ける。これに背筋を伸ばした船員が、慌てた足取りで廊下を駆けていく。
「はいっ」
「お前も早く寝ろ。まあ、気苦労があるんだろうが、若いうちはみんなそんなもんだ。経験がないからなんでも不安に感じるんだよ」
「甘えた考えなんて捨てきれないものだ。極力贅沢をせずに一日一日を着実に過ごしていけばいい」
夢に描く大人になるには、現実の自分を捨てなけれならないのかもしれない。そんな高い目標を見上げて嘆くより小さな幸せを守りながら日々に感謝して生きていく。多分、人生とはそんな日々の繰り返しだ。
小さく頷いたアスレットは、部屋へと戻った。
「ピチュ‥」
押し潰されるような鳴き声に振り向くとアルメリアの手が、小鳥の上に置かれていた。小鳥が、シダバタと動いてもアルメリアが、目を覚ます気配はない。両手両足を広げて万歳した姿で眠っているアルメリアに溜息を吐いたアスレットは、自分のベットへ戻った。
そんな日々も過ぎていけば、ある程度快適に過ごせるようになる。大きないびきが響き渡る部屋で寝起きし、女性のアルメリアを心配して過ごすより気苦労は減ると気が付いたのだ。
ただし例外もある。それはお風呂と着替えだ。お風呂には入れないので、体を拭くだけになるが、同じ部屋では気不味い。
「あんたを信じているから大丈夫よ。後ろを向いていて?」
そう言いながら服に手を掛けたアルメリアに眉間の皺寄せたアスレットは、小鳥達と部屋を出ていく。アスレットが体を拭く時は、問答無用で追い出した。
(信じすぎだろう)
自分は男だ。魔が差すことだってある筈だ。アルメリアより自分が、自分を信じ切れていないことが妙に切なくなる。
しかし、力仕事をしていると汗をかく。拭かない選択はないのだ。それは、女性のアルメリアも一緒だろう。この日も仕事上がりの疲れた体で仕方なく小鳥達を抱えて外に出たアスレットは、顔を近付けて声を潜める。
「リラ以外は手摺りで寝ろよ。特にアマネ‥お前は駄目だろう?」
藍色の小鳥の頬っぺた辺りを両手の人差し指で挟んでペシペシと攻撃すると、嫌がる素振りを見せた。思わず笑ってしまう。
「あいつは、誰に合うつもりなんだろうな?」
何故、鳥に生まれ変わったのかは分からない。しかし、アルメリアが恋焦がれる相手は、ずっとそばにいた。今も目の前にいるのだ。しかし、鳥と人間では、愛し合うことは不可能だ。手摺りを掴み背中を仰け反らせて何気なく空を見上げると、美しい青空が広がっていた。
「神様もつれないよな」
それは自分にも言えることだった。手摺りに腕を乗せて顔を伏せる。恋しても結ばれる相手ではないということなのだろうか。
「アスレットっもういいわよ。次はあんたの番」
部屋から出てきたアルメリアに声を掛けられて、振り返ると既に寝巻き姿だった。ズボンは履いているが、首周りが露出しすぎている。鎖骨が見える襟ぐりに目を逸らしたアスレットは、その背を押して部屋に戻した。お説教が必要なようだ。
「お前っ男しかいないんだぞっ?」
この船の船員は、皆が男である。
「え?調理場のマリオットさんは心が女性よ?」
戸惑うアルメリアを視線で叱り付けたアスレットは、乾いているタオルを掴んで首に巻いてやる。女性の言葉を使うレオン・マリオットは、アルメリアを小娘と呼んで母のような眼差しを向けている。が、それは例外だ。
「いいかっ?寝るまで外すなよっ?」
「うん」
アルメリアは、こくりと頷いた。素直なのは長所でもある。食堂に行けば、アルメリアにちょっかいをかける船員とも交流することになる。揶揄われても嫌がる素振りのないアルメリアに船員達は、好意的だ。それは、見方を変えれば身の危険もあるということだ。
ただの乗客だった時には、船乗りとの関わりは少なく考えられなかった場面でもある。あの時、もし、アスレットが船から落ちていたのなら無防備なアルメリアにひとり旅をさせることになったのだ。そう思うと只々、恐ろしい。
「船旅もそろそろ終わりね?」
アルメリアの言う通りレグザの首都行きの船は、二週間もあれば到着する。
親しくなった船員や乗客から使用済みの紙を貰ったアルメリアは、その裏に書き綴った手紙を青い鳥に渡す。
「リラ、渡り鳥さんに届けてもらってくれる?」
「ピーッ」と返事をした藤色の鳥が、折り畳まれた手紙を嘴で挟み空を舞う。ぐんぐん上昇し渡り鳥の群れに接触してから戻ってきた小鳥の嘴から手紙は消えていた。白い大きな鳥の群れが、レグザの方へと飛んでいく。
宮殿の中庭で優雅なお茶会の時間を楽しむのは、第三王子アスレット・レグザとその婚約者リズリー・アデレードである。
猫足の白いテーブルとワインレッドの椅子を組み合わせているので、華やかな印象になる。テーブルには、細やかなレースのテーブルクロスが掛けれて吊り下がったモチーフが人目を引く。
テーブルを飾る料理もレグザでは、珍しいものばかりだ。
「このピザ最高っ」
とろけたチーズが、生地と口を繋ぐようにぴろーんと伸びた。ピザなるものに舌鼓を打つのは、伯爵令嬢のリズリー・アデレードである。彼女は、国政に関わるアデレード伯爵の末の娘だ。慎ましい貴族令嬢として厳しく育てられたリズリーは、手掴みでかぶつく。豪快な作法である。
「ゆっくり食べてね、リズ」
慣れた手つきで紅茶をティーカップに注ぐのは第三王子のアスレットである。
「これチョコレートの香りだな。ミルクティーにしてくれよ?」
「うん。ムンカの粉を加えるね」
こちらに視線を寄越したアスレットが、穏やかに微笑む。
「お口に合いますか?」
「ええ、とても美味しいわ」
椅子は、人数分用意されている。アスレット、リズリー、クレマチス。そして、小動物のヒョンチキだ。一角兎のような耳をぴーんと立てて、周囲の音を気にしながら小さな鼻をひくひくと、忙しなく動かして匂いを楽しむ。
「チュ‥チュチュチュ‥」
鼠とも小鳥とも言えそうな声で鳴いた彼は、催促しているのだ。
「どうぞ、ピッピ様」
アスレットが、小皿に取り分けて差し出したのはキッシュである。
「こちらは、生クリームがたっぷり入っていますからお口に合うと思いますよ」
生クリームを作ったのはアスレット・レグザだとレグザで知らぬ者はいない。本来牛乳は、酸っぱい滋養強壮の飲み物で、チーズに加工してもその酸味が消えることはない。しかし、アスレットは、様々な工夫で、その酸味を取り除きチーズやヨーグルトの改良に成功した。そして、生クリームやホイップクリームなどというスイーツまでをも作り出してしまったのだ。
(‥‥プリムス家も生クリームを作ろうとしたらしいけれど、容器に入れて腐敗させてしまったのよね)
それを王宮の侍女の顔面に噴射したのは、アルメリア・プリムスであった。
(その容器も新素材が使われていたし‥あの子も彼ら同様前世の記憶を持った人間だったんだわ)
穏やかにレグザの地で暮らすアスレットとその婚約者リズリーには秘密があった。彼らは、前世の記憶を持って生まれてきたのであるのだ。
「今日も美味しそうな物を食べているね?」
ひょっこりとお茶会に顔を覗かせたのは、騎士のエリオットである。レグザで叙爵されていたエリオットは多国籍であり、こちらではエリアス・グレイマーと名乗ることが許されている。
「あ、エリオットさん。お帰りなさい。お勤めご苦労様です」
柔らかな笑顔を向けたアスレットに「あははは」と、軽く笑ったエリオットが首の後ろに手を添えて返事をした。
「王子殿下にお声掛けいただけて光栄です」
「クレマチスにピザとキッシュを持たせますね。あとで食べてください」
「いつもありがとうございます。助かります」
首を傾げながら鼻先を持ち上げて匂いを嗅いだエリオットが、テーブルへと視線を戻す。
「不思議な香りですね」
「お菓子のチョコレートの香りの紅茶だよ。ミルクティーにすると美味いよ?」
何気なく振り向いたリズリーが、嗅ぎ慣れない香りの正体を教えた。クレマチスもチョコレートを食べたのは、レグザの宮殿で出されたものが初めてだった。
「カカオでしたか?」
「はい。南国の果実です。甘い香りですよね」
ヨトーシアという国では、カカオは神々の食べ物と言われて大切にされているらしい。ヨトーシアの使節団は、南国特有の果物や野菜を貿易の強みにしている。しかし、レグザから遠く離れているヨトーシアの果物を積極的に買い入れるのは、為政者達が否定的だった。安全な交通の確保に鮮度の問題など、解決しなければならない問題を抱えていたのだ。それ故に国交が遅れていた。幼少期にヨトーシアの使節団からカカオ豆を献上されて大変喜んだ第三王子アスレットの姿に心が揺れ動いた第一王子のルーカスが、カカオの輸入を決めたことがレグザにチョコレートが根付くきっかけになった。幼いアスレットは、前世の知識でココアを作り皆に振る舞ったという。
任務中に飲食は避けなければいけない騎士のエリオットが、そばで待機する姿にクレマチスも紅茶を飲むのをやめた。本来ならレグザの密偵だったクレマチスも立っていなければならないのだ。王子やその婚約者とお茶会を楽しむ立場ではない。
(あの子の言った通りになったわ。私は、レグザで聖なる乙女の称号を授かり、宮殿で保護されている)
「日記も予言の書みたいだった」
予言なので百発百中とはいかなかったが、先を見越して判断できたのは、僥倖と言えるだろう。
クレマチスは、隣の椅子の上でキッシュを夢中で食べるピョンチキに視線を向けた。前足でキッシュを掴み器用に食べている彼は、普通の獣ではない。精霊王のピッピなのだ。
(あの話まで本当だったなんて‥)
「エルとエムの童話は作り話ではないのよ。ふたりを楽園に連れて行ったのは名の知れない女神と言われているけれど‥本当は精霊王ピッピなの」
アルメリアの言葉を思い出したクレマチスが、こめかみに手を添えて目を閉じる。物語の世界の住人だと信じていた妖精が、嘗ては実在していた。衝撃的である。それだけでも信じ難いのに、神話の精霊王ピッピが、目の前で食事をしているのだ。
「クレマチスさん、ピッピ様がもっと食べろと言ってますよ?」
声を掛けてきたのはアスレット・レグザだ。
「直接言ってくださいっ」
隣のピョンチキに文句を言うと彼は、視線だけを動かしてこちらを見た。
『其方は、考え事をしている時は声を掛けないでと、我に願ったのではないのか?』
目を閉じて正面を向いたクレマチスは、姿勢を正す。此処で認めてはいけない。
「それはマナーとしてお願いをしただけです。私の願い事ではありません」
実は、クレマチスと精霊王ピッピとの契約は曖昧なのだ。精霊王ピッピは、クレマチスと出会う前にアスレット・レグザと契約していた。しかし、聖なる乙女と契約するのが習わしであると、クレマチスとも契約を結んでくれたのだ。
アスレットとリズリーが協力的だったからアルメリアの指示より早く任務は遂行されていった。その事実には感謝している。
精霊王ピッピとの契約解除には、三つの願いを叶え終えていることが条件になる。現在契約者は、ふたりいる。クレマチスとアスレットのふたりが同じことを願う必要があるのだ。
クレマチスが一つ、アスレットが一つ、最後の願い事は、ふたりで一つを願うことで話が付いている。
(あんなに苦労したのに‥)
『ふむ、そうか』
「そんな願い事はしませんよ」
美味しいクッキーを落として「私の手作りクッキーがっ!」と叫ぶだけなのだが、クレマチスは苦労したのだ。
反してアスレットは、料理が得意で、森の中でピクニック用のお弁当を広げていたところ、精霊王に声を掛けられたらしい。精霊王に会いたかったのは事実だったそうだが、お弁当を取られるのは困る。しかし、精霊王は、美味しい手作り弁当を欲しがり食い下がった。仕方なくアスレットがお弁当を差し出すと、精霊王は契約すると言ったらしい。
その後、留守中とは知らずに精霊王の家(洞窟)に向かってしまったクレマチスは、日記帳の指示通りクッキーを落として声を張った。遅れて帰宅した精霊王は、仕方なく運命の乙女として受け入れたクレマチスと契約をしたのだ。
精霊王の契約者は、嘘を見破れる力を得ることができる。精霊王が、見ている前で騙そうとしたり、隠し事をすれば、本人の口から真実が語られるのだ。
(この力を失うのも勿体無いのよね)
願い事がないのではない。しかし、聖なる乙女として生きていくには、他者より優れた一面が必要になってくる。
(そもそも、あの子には欲がないのかしら‥普通なら自分が手に入れようとするものだわ)
しかし、アルメリアには、躍起なる様子が見られなかった。
「本当にエルとエムは実在したの?」
『ふむ、疑い深い娘だな。その通りだ。昔、精霊が住む世界と人間が暮らす世界は、明確に分けられていた。しかし、エムとエルのきょうだいは、人間が好きでな、自ら近付いていったのだ』
『しかし、不可侵領域というものがある。人間達は妖精との関わりを避けたのだ』
「でも、欲しいものだけを奪うのは間違いじゃないっ?」
人間側にも言い分があったのだと知っても到底納得できるものではない。エルとエムは、深く傷付き、この世を去ったのだ。
「エルとエムが可哀想よ」
目を伏せたクレマチスの言葉に悲しげな表情をしたアスレットと難しげな表情をしたリズリーも視線を落とす。
「ふむ、触れてはいけない。関わってはいけないと知りながらも妖精のきょうだいは、その掟を破り人間の世界へと旅立った。何故、この辺の描写が書物には、書き残されていないのでしょうか?」
エリオットの言葉で見落としに気が付いたクレマチスは、ハッとした。
「そうよね。人間が一方的に悪く書かれているわ」
「意図的な思惑を感じるな」
「人間が強欲なのは事実ですが、種族の間で守るべき掟があったことは書かれるべきでしたよね?」
クレマチスの言葉にリズリーとアスレットが同意した。
『ふむ、人間らしい考えだな』
「どういうこと?」
『其方ら人間は、己の罪を曖昧にして救われたいと願うものだ。今、妖精たちは何処にいる?妖精に突然消えたりする能力はない。人間との共存を諦めて別の世界へと旅立って行ったのだ。お前たちの疑問は些細なものだよ』
人間は欲深い生き物だ。エルとエムの特別な力を知った人間は、他の妖精達を襲ったのかもしれない。一度破れた掟の効力は弱まり、身勝手な理屈で自分達を擁護した人間達の手で不可侵領域は壊され続けられた。
「‥‥私達が奪ったのは、美しい目でも髪でも肌でなく、妖精の世界そのものなのね。本当にエルとエムは楽園に行けたの?」
『我が送った。間違いない。天界は、ふたりにノアの名前を与えたそうだ。ノエルとエアムと名付けられたふたりは、双子の神テラとテルの箱庭の管理の手伝いをしながら今も楽園で暮らしている』
「ふたりは天使になったのですね」
「ふーん」
「天使?」
アスレットの言葉の意味が分からず聞き返すクレマチスに彼は穏やか表情で「神様の使いのことです」と、告げた。
クレマチスの疑問に答えたアスレットは、優しげな目を細める。転生した彼らは、天使を見たことがあるのだろうか。クレマチスは、妖精も天使も見たことがない。
(私も妖精に会ってみたかったわ)
『それが其方の願いか?』
「待ってっもう少し考えさせてっ」
精霊王ピッピは、嘘を見抜く力がある。心を読むことも造作もなく熟す。
『焦ったいのぉ〜っ困った奴だ。其方達人間は、やらぬと言えば欲しがり、やると言えば待ってくれと焦らすのだ』
「ピッピ様は、人間がお嫌いですか?」
眉を下げて尋ねたエリオットをピョンチキは見上げた。
『我は人間を嫌っている訳じゃない。人間など要らぬという神々がいるのも事実じゃが、箱庭を整えるのは、人間の役目であるからな。木を切り水を汚し土地を荒らしても甦らせる知恵がある。其方らの考える食事も美味いしな』
この言葉には、救われる思いがした。肩の力が抜けたのは、クレマチスだけではない。
「クレマチス、神語の解読は進んでいますか?」
優しげな口調で尋ねてきたエリオットからクレマチスは視線を逸らした。
「正直、分からない言葉が多いの」
二種類以上の言葉を巧みに使う神語の解読には、難航していた。アルメリアが、持たせてくれた日記にない暗号は、解読の手掛かりすらないのが現状なのだ。
(リシュリー王女は、頭のいい人だったのね)
「アルメリアに手紙を出そうかと思っているわ」
「それなら必要はないかもしれないよ」
「え?」
「アルメリアは、ステファニアから逃亡してレグザに向かっているらしいから」
『逃亡っ⁉︎』
エリオットの言葉に目を丸したクレマチスとアスレットにリズリーの声が揃う。
「国王陛下に謁見を願い出るつもりらしいけど‥大丈夫かな?」
「あの子、何を遣らかしたのよっ?」
思わず立ち上がってしまう。愕然とするクレマチスを宥めるように苦笑いを浮かべたエリオットが、両手で着席を促す。しかし、とてもじっとしていられない。そのまま呑気にお茶会を続けられる気分ではない。クレマチスは、アスレットとリズリーにエリオットと中座する許しをもらって宮殿の中庭から出て行った。
クレマチスにお土産のキッシュとピザをふたり分持たせて別れたアスレットとリズリーは、宮殿の廊下を歩いていた。
「国外逃亡には驚いたな」
顎を上げて空を見るように視線を向けてきたリズリーにアスレットが頷く。
「そうだね」
「乙女は愛を嘆くの主人公アルメリア・プリムスか。動向には用心する必要があるな」
「うん。彼女は本物の聖女だからね」
「神語の解読は、するべきじゃない。俺たちとは違った考えならお前が対処するしかないぞ?」
「うん。分かっているよ、理人」
廊下を歩くふたりの進路を塞ぐ者は誰もない。それでも内容が内容なだけに声を抑えて話す。リシュリー王女の日記は、日本語で書かれている。前世は、日本人だったアスレット事天音秀とリズリー事與田理人には、読めているのだ。
「お兄様達の前では行儀良くしてね?」
「はいはい。耳にターコですよ」
いい加減なリズリーの返事にクスクスと穏やかに笑ったアスレットが、向かうのは国王のルーカスと第二王子のソーマが待つ謁見の間だった。




