第639話「白銀の柔姫」
二人が揃ったのを見計らった神父様は、教壇に分厚い本を置く。
一切音すら鳴っていない静かな動作にも関わらず、こればかりは身が引き締まる。
それだけの、神秘さを感じてしまうのだ。
「今日という素晴らしい日に、天気は快晴となりました」
芯の通った、力強く、それでいても声を張り上げていないのに、教会全体に届くような声が響く。
優しくも、力強い。
「私とすれば、少しでも曇っていた方がいいとも思っていまして。快晴そのものは、清々しい幸先としていいかもしれません。
しかし、人生、長きに渡ればいつだって晴れているわけではありません」
神父の皺を寄せあった瞳が、俺とエティカへ。
それぞれを見比べるように、うつろう。
「聞けば、新郎――エヴァン・レイは大雨の中を進んできたとのこと。新婦のエティカ・レイも大きな困難を乗り越えてきたとのこと。
そんな二人を神々が祝福しているとすれば、この快晴なのも頷けます。私とすれば、この服だと日の下に出てしまえば、汗が滝のように流れ落ちるので、神は仕える者よりもお二人を優先されるようです」
――少し、背いてしまいそうです。
そう、冗談なのか微妙な言葉を神父様が言われる。
大丈夫か? 一応、国王いるけど。
というか、信者に聞かれたら怒られそうだけど。暴動起きてもおかしくないけど。
「さ、新郎新婦は信じる神はいらっしゃいますでしょうか?」
「いや……いませんけど」
コクリ、とエティカも惚けながら頷く。
ヴェールが揺れ、ふんわりと甘い匂いが漂う。
「であれば、是非とも私共の神に入教してみませんか?」
この神父様、意外と強かだな。
背教者かと思ったら、ちゃんと神に仕えている。
なんてこった。
しかも、それだけで神父様の真面目な雰囲気とは違う様子に、会場も朗らかな空気が漂い始める。
「……そうですね。これだけ信心深い神父様が報われるのなら、入教してみたいと思うかもしれませんね。それまでは様子見させていただきたい」
「さすがは、『救世主』様。そうですね。今、ここで新たな信徒を奪われるわけにもいきませんし、頑張ってみましょう」
おそらく、ここまでがこの神父様の段取りとやらだろう。
返し方は様々あれど、言い慣れていて返し慣れている様子だし、こればかりは神父様が話術に長けているのかもしれない。
もしくは、他の教会とは違うからなのかもしれない。
だって、これだけのことをしていても国王は文句の一つも言わない。どころか、穏やかに笑っているんだから。
「汝、エヴァン・レイ」
おぉ、急に切り替えるわけね。
表情も一変している。
ゆるやかな表情に、一本の信念が通ったそんな顔だ。
そして、確かめるように見つめてくる瞳と目が合うだけで、こちらの緊張感もより高まる。
「はい」
「あなたは、新婦エティカ・レイを妻とし、神の導きによって夫婦になろうとしています。
汝、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も
これを愛し、敬い、慰め遣え、共に助け合い、その命ある限り、その魂ある限り、全身全霊を、神から託された能力を使い、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」
たった数秒の言葉であるはずが。
言ってしまえばすぐに終わってしまうような言葉のはずが、恐ろしいほど緊張した。
それこそ、口から心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい。
「汝、エティカ・レイ」
「はい」
「あなたは、新婦エティカ・レイを妻とし、神の導きによって夫婦になろうとしています。
汝、健やかなる時も病める時も、喜びの時も悲しみの時も、富める時も貧しい時も
これを愛し、敬い、慰め遣え、共に助け合い、その命ある限り、その魂ある限り、全身全霊を、神から託された能力を使い、真心を尽くすことを誓いますか?」
「はい、誓います」
顔を見られないけど、多分、笑っているはずだ。
きっと、そうだ。
神様がいるかどうか分からないけど、彼女は誓うのだろう。
エティカはきっと誓う。
他の誰でもない、自分自身に向けて。
そして、この場にいてくれている、自分達を祝福してくれている人に向けて。
「両者、神への誓いができたところで。お互いの指輪を交換しましょう」
ここで、神父様の雰囲気が和らぐ。
その一変に息つく暇もなく、介添え役のお姉さんが指輪を乗せた真実を反射する銀色の盆。
装飾らしいものは一切なく、宝石もつけられていない無骨なデザインをしている。
ただ、二人の名前がそれぞれ、繋がれた指輪の内側に刻まれている。
それだけでいい。
それがいいと、二人で決めたものだ。
それを確認している間、エティカは淡い乳白色のレースのグローブを外す。
左手を前に掲げ、ゆっくりと外していく。
外せば、きめ細かい柔肌が露出し、グローブを介添え役のお姉さんへ手渡す。
その次は右手だ。
グローブの先を掴み、ゆっくりと引き抜かれていくこの動作だけで、これだけの神聖さを感じるとは思わなかった。
美しいなんて言葉じゃない。
そんなものじゃ表現しきれない。
天使を目の前にしているかのようだ。
「では、新郎エヴァン・レイ。新婦の左手へ指輪を」
エティカと向かい合って、顔をまじまじと見つめてしまう。
それがどうにも恥ずかしい。
エティカも一緒みたいで、顔を赤らめる。
しかし、ゆっくりと左手を差し出してくれる。
あぁ……。
そうだな。
介添え役の盆から、指輪を受け取り。
それを、エティカの左手へ添えながら、薬指へと通していく。
この瞬間が永遠とさえ思うような。
長い時間のあっという間の感覚。
そう錯覚してしまうほど、指輪が通っていくまで、繋がっていくまで、緊張と安心の境目。
だが、その指輪がエティカにはめられて、それはようやく安堵へと至る。
彼女の幸せな笑みを見れば、今までの苦労や心労。
それこそ、死にものぐるいで求めてきたことが報われる。
そんな気にさえなる。
不思議な、感覚ではある。
「えへへ……」
小さく、自身の指に繋がれたものを見つめては、微笑む。
にしゃっと。
可愛いな……。
「では、新婦エティカ・レイ。新郎の左手へ指輪を」
エティカも俺がしたように指輪を受け取ると、俺の指へとはめる。
細長い手が触れるだけで、緊張感が再び波のように押し寄せてくる。
ただ、恐れているわけじゃない。
怖がっているわけでもない。
このまま指輪をつけられない恐怖なんか、微塵もない。
むしろ、誓いみたいなものだ。
エティカに、指輪をつけてもらうこと。
これがどれほどのことか。
しっかりと目に焼き付けて、脳裏の奥にまで刻み込んで、魂にさえも大切に保管しなきゃいけない。
そんな気持ちで、見届ける。
すんなり、それこそピッタリとハマったのを確認すると、見上げたエティカと目が合う。
紅色の瞳は澄んでいて、あの日――出会った頃には淀んでいたはずが、しっかりと篝火の灯った瞳。
美しくも、気高く。
力強くも、優しい。
だから、微笑んでしまうと過去の記憶が蘇るんだろう。
「では、お二人の指に誓いが繋がれました。次は、キスでもしましょうか?」
気軽に言ってくれる。
というか、神父様楽しんでるのか。
うっかり小言が口を滑らせそうになったけど。
これがこの人なりの祝福の仕方なのかもしれない。
当たり前の行為に尊さを。
いつもの存在にありがたみを。
隣の人は、一生の人だと。
そう思わせるために、あえて気軽に言っているんだろう。
だから、向き合ってわかる。
エティカと目を合わせればわかる。
ヴェールを流れるように捲りあげ、愛おしい顔が見える。
頬には僅かな紅潮が。
出会った頃は痩せこけていて、とても明日を生きられるような状態じゃなかったはずが、今では健康的な姿になっている。
背も伸びて、スラリとした美人さんになった。
それこそ、可愛い美人だ。
すれ違えば、思わず目で追ってしまうような。
そんな人が今、自分と向かい合っているのだ。
そして、そのまま紅色の瞳が決意を込めて、信頼を乗せて、閉じられる。
……いつもしているはずなのに、緊張しちゃうな。
だが、もう臆する理由も状況もない。
だから、彼女の肩へ優しく手を置き、顔を近づける。
蝋梅の匂いが近づくにつれて、感覚が遠のいていく。
もう、緊張なんかない。
感じられるのは触れた優しさだけで、それだけで充分だった。




