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第63話「再出発」

 ほとんどの力が抜けてしまった亡者のような気配さえ漂ったエヴァンが、黙する鴉に帰った頃には夕暮れになってしまった。


 照らす西日が眩しいと思いつつも、それが無性に辛いもののように感じた。


『魔王』は殺す事ができない。

『救世主』としての使命は『勇者』の代わり。

 それが出来ないという事は、役目すら意味がない空虚感が伴う。


 今までも、目の前で助けられなかった人が沢山いた。

『魔王』の襲撃に急いで向かっても、そこに血溜まりしか無かった過去が心の重りになる。


『魔王』を殺す手段なんて思い付かない。

 いくら考えようとも答えは出てこない。

 そんなエヴァンを照らす太陽がとても憎く感じた。


 黙する鴉の前まで辿り着く。

 中から聞こえるのは、酒に浸った男達の騒ぎ声。

 とてもうるさく、エヴァンには酒に溺れた悲鳴にも聞こえた。


 目の前の扉を開けば温かい空間だ。

 重厚感のないただの扉が、酷く重い鉄扉に見えてしまう。


 この幸せな空間を守れない。

 エヴァンは、もしかすると『魔王』によって無くなってしまう、扉の先の幸せな空間に臆していた。


 罪悪感も、自責の念も、負い目も、引き目も、悔悟も、悔悟の情も、悔恨の情も、悔恨の念も、後ろ暗い気持ちも、やましい気持ちも、後ろめたい気持ちも、心苦しい気持ちも、劣等感を持ったそれらが、エヴァンを責め立てる。


 目の前の幸せを守れる保証もないのに、そこにいていいのか。

『救世主』のくせに救えないのか。

『救世主』のくせに助けられないのか。

 いつかの心無い言葉が再生される。


 見殺しにしてきた。

 何も出来なかった。

『魔王』に一矢報いる事さえ出来なかった。


 これからも出来ないかもしれない。

 一方的に、圧倒的に、蹂躙(じゅうりん)される。

 ならば、ここに居ない方がいいのではないか。


 エヴァンは居ない方が安全なのではないか。

 王都にいればいいのではないか。

 余計な問題に巻き込むかもしれない。


 臆した気持ちは、引き際を見極められず、ズルズルと後退する。

 と、そんなエヴァンの前の扉が開く。

 ああ、鴉の客か、と思っていたエヴァン。しかし、扉を開けた者は裏切った。


「何をしているんですか、邪魔ですよ」


 ローナが開けたのだ。

 何となく、扉の前にあった気配に気付いて、エヴァンの開けられなかった扉を開いたのだ。

 まさか、ローナだったとは思わなかったエヴァンは、目を丸くするが言葉は出ない。


 唇を縫われたように閉じられていた。

 エヴァンが何か言おうと、思うのもつかの間。


 パァンッ!


 エヴァンの右頬に乾いた衝撃が襲う。


「…………は?」


 目の前のローナに平手打ちされた。

 あの無表情で冷たい仕事の出来る給仕のローナが、エヴァンに平手打ちをしたのだ。

 もちろん、その音に酒場は一気に静寂が支配する。


 ヘレナも、アヴァンも、酒場にて笑っていたバルザックも、エティカも不安げにその光景を見つめる。


 唖然としたエヴァンは、右頬をビンタした本人へ視線を移すと、叩かれた衝撃よりももっと大きな衝撃に言葉を失う。


 ローナは涙を零していた。


「なんで! そんな悲しい顔に戻ってるんですか!」


 一筋に流れる涙は、少しずつ頬より零れる。


「なんで! あの時と同じ顔に戻ってるんですか!」


 怒声よりも静かな泣き声とも言えない声が響く。


「王都で何かあったんですか、それとも辛い事でも言われたかは分かりませんが、あの時と同じ顔に戻らないて、約束してくれたじゃないですか!」


 少しずつ、ローナの声は研ぎ澄まされる。


「あの時て何だよ……」


 エヴァンの言い方は子どものように拗ねた言い方だった。


「あの時ですよ!」


「だから、あの時ていつだよ!」


 歳の近い二人は、真っ向からぶつかった。

 エティカの今にも泣きそうな顔をエヴァンは見えていないのだろう。


「貴方が! 『救世主』として何も出来ずに、ここで倒れてヘレナさんに叩かれた一度目の時ですよ!」


 その言葉はエヴァンに有無を言わせない効力を持つ。

 黙する鴉で、何日も食べずに依頼をこなして倒れたその日、ヘレナに叩かれたのだ。


『救世主』として何も出来ず、何日も食べずに動くしか分からなかったその時と同じ顔にエヴァンはなっていた。


 顔を陰鬱(いんうつ)に沈み込ませたような、一抹(いちまつ)憂鬱(ゆううつ)が漂っていた表情をしていた。


 全てに絶望し、全てを自分のせいだと思い込み、その罪悪感にどっぷりと沈んでいた。


「今にも死にそうな顔をエティカちゃんが見たらどう思うのか、それすらも考えなかったんですか」


 その言葉にようやく、エヴァンの瞳にエティカの姿が映る。

 彼女は、大粒の涙を流しながらも泣き声を堪えていた。


 それを確認したエヴァン。

 エヴァンの様子を見たローナは、自身の流れた涙を袖で拭く。

 大切な者が見えているのなら、ローナはそれ以上の追及をしなかった。


「貴方はちゃんと『救世主』として申し分ない程に頑張っています。そんな貴方が救った一人の女の子を、いつまで泣かせるつもりなんですか」


 エティカの姿を見て、先ほどまでの死神が取り憑いたような表情ではなくなったエヴァンを見れて、ローナは満足したのか、道を開けるように横にズレる。


「…………あ、ありがとう……」


 そう言いながら、ローナの横を通り過ぎるエヴァン。

 仲直りした子どものようにぎこちないお礼しか言えなかったエヴァンに対して、ローナはいつもの無表情に変わっていた。


「忘れないで下さい。貴方はここにいてもらわないと困るのです」


 ゆっくりと通り過ぎるエヴァンに聞こえるよう呟く。

 エヴァンは、気になったが目の前で待つ大泣きのお姫様の方が大事だった。


 ヘレナと共にいるエティカの目線に合わせるようエヴァンは屈む。

 真っ赤になった紅色の瞳は涙で潤んで綺麗だった。


「……えばん……」


 エヴァンの立ち直った姿が見れたからか、ヘレナは少し離れた場所へ移動する。

 目の前の少女は、身体が揺れながらもエヴァンから視線を外さない。


「うん」


 ゆっくりとエティカの言葉を待つ。


「…………」


 しゃっくりを必死に止めようとするエティカだったが、中々止まらないのか、ほんの少し焦って見える。

 そんなエティカの頭を優しくエヴァンは撫でた。

 帽子越しだったが、出会った時よりも髪質が良くなったのか、サラサラだった。


 そんな数分後、ようやくエティカは意を決して伝える。


「おか、えり!」


 その言葉に『救世主』は救われた。

 帰ってきていいのだ。

 居場所があり、待つ者もいる。

 男泣きする訳にはいかないので、エヴァンはエティカを抱き締め誤魔化す。


 エティカも強く、精一杯、エヴァンを離さないように抱き締める。


「ただいま」


『救世主』は救った少女の元に帰ってきた。

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