第622話「次第に」
これほどあっという間に、それも穏やかに流れる日々は何年ぶりだろう。
幼少期くらいじゃないか。
小さい頃ならいざ知らず、エヴァン・レイが死んで、役目を受け継いでからは怒涛の日々だった。
だから、これほど何もしない日というのは、どうやって過ごすものか悩んでいた。
今日がまさしくそれだ。
「なぁ、アヴァン」
「だる絡みしてくるなよ、こっちは天使様の相手で忙しいんだ」
「暇なんだよ」
揺籃の中で、寝ている赤ん坊の相手をしていたアヴァンに、とりあえず現状を吐き出してみたけど、意味はなかった。
なにせ、ほぼほぼ無視だ。
顔なんてこっちを向かずに、目の前の天使に集中しているのだから。
「出産の時とはえらい違いだな」
「あの時はあの時だ。今は違う」
「そうか。赤ん坊にはいっぱい話し掛けた方がいいらしいぞ」
知らないけど。
まぁ、とにかく人と関わるのはいいことだとうろ覚えの知識がある。
正確な情報かは置いておいて、人との関わりが人を変えることだってあるわけで。
生まれて間もない頃だったら、いい人に出逢えばいい影響があるだろう。
知らないけど。
「じゃあ、エヴァンも話し掛けるか?」
「やめとくよ。俺はあんまり赤ん坊に好かれない」
「まぁ、人相悪いもんな」
「言うに事欠いて、人相が悪いときたか」
そりゃ黙り込んだ時は怖いらしいけど。
お人好しの顔だと言われたことがあるので、普通の時は大丈夫だと思う。
というか、人相は悪くないだろ。
「なんで好かれないんだ? やっぱり怖いんじゃないか」
「知らない。だけど、知り合いの赤ん坊に顔を見せたら必ず泣かれる」
「怖いわけだ」
違う。
決して、断じて違う。
泣き止ませようと変顔をしてみたけど、結局大号泣させてしまって、親御さんに迷惑をかけてしまったことはあるけど、怖いわけじゃない。
……多分。
「まぁ、そこまで言われたらうちの天使様には近づけさせられないな」
「あぁ、そうだな。アヴァンが泣き止ませられるわけもないしな」
「失礼な。これでもちゃんとできるんだぞ。俺があやせば、天使様もぐっすりよ」
「それ、泣き疲れて寝ただけだろ……」
不甲斐ない男連中だこと。
ローナが見たら開口一番にそういうだろうな。
実際、不甲斐ない。
片や、あやすことが長時間の父親に。
片や、赤ん坊を必ず泣かせる天才だ。
人災かもしれないけど。
「そういえば、エティカがあやしたらすぐ泣き止んだな」
「そりゃエティカだからな」
あんなふわふわな羽毛のエティカに抱きかかえられただけで、荒んだ気持ちだって穏やかになるだろ。
俺がそうなんだから。
俺が証人だ。
実体験もある。
「意外なのは、ローナが抱きかかえても泣き出さないことだな」
「お前、ローナにぶん殴られるぞ」
「慣れてるからいい」
失礼なことを言ってしまっただろうけど、意外なものは意外なんだ。
だって、あの仏頂面だぞ。
あの無表情で、凍てつくような視線の持ち主だぞ。
赤ん坊なんて泣き出すと思うじゃないか。
そうじゃないから、意外なんだよ。
「実際、どんな魔法を使ったのか分からないけど、ローナの無表情に耐えられるなんて、その子は将来有望なんじゃないか」
「お前の将来は絶望かもしれないけどな」
ふと、アヴァンがこちらを向いて――いや、俺じゃない。
俺がいる方向ではあるけど、視線はもっと奥。
つまりは、俺の背後へ向いている。
……あー、嫌な予感がもっと早く来ていればな。
「エヴァン? 今からお話しませんか?」
振り向くことなく、その場を駆け出したい欲求にかられるも、今ここで逃げ出してしまえば状況は更に悪くなる。
……はぁ。
「冗談ですよ」
その言葉を聞いて、ようやく俺は振り返ることができた。
なんだなんだ。
「良かった、あやうく殺されるのかと……」
「赤ちゃんの前ではできませんよ」
ん?
「こちらに来てもらえますか?」
「……あ、あの、ローナさん。肩が外れそうなんですけど……」
ギチギチと、俺の右肩が本来握られただけの音ではなく、木々が折れる前の音を響かせる。
おっかしいな。
人体からそんな音がしたら、いけないと思うんだけどな。
「いいでしょう。肩の一つや二つ」
「二つしかないから! 二つともはダメだって。というか、一つでもダメだけど、さ」
「いいから来なさい。無神経野郎」
ある意味、肩を外された方がよかったのかもしれない。
ローナに連れていかれた俺は、そのまま倉庫の掃除を任されたのだ。
彼女曰く「丁度、掃除しようと思っていたんですけど、都合のいいことを言ってくれたので利用させてもらいます」とのことで。
怒っていないどころか、気にしていないらしい。
……でも、殺気はあったけどな。
それにしたって、無神経なことを言ったのは事実だし、謝っても「いいから手を動かしてください」と一貫される。
お詫びをしようとしても、受け取ってくれないし。
相当嫌われたのかと思ったけど、ヘレナに後々聞けば「いつも通りよ。ちょっと違うとしたら、なんだか嬉しいみたいよ」とのことらしい。
……あの時の、一瞬だけ見えた怒った顔は、何かあると思ったんだけど。
嬉しい……?
俺をボコボコにできて?
いや、それはないか。
……今度聞いてみようと思う一日であった。




