第620話「生命」
「可愛いなぁ……」
黙する鴉の酒場。
そこでエティカは、揺籃のように作られた木組みの中を覗き込む。
見ては呟き。
呟いては見る。
そこには、とろけた表情の女の子しかいない。
「本当にエティカちゃんは赤ちゃんが好きなのね」
それを間近で観察していたヘレナが頬杖をつきながら、慈しむように声を掛ける。
ここまで喜んでくれたら、母親冥利につきるのかもしれない。
「うん。可愛い」
「だって、エヴァン」
「そこで俺に振るな」
反応に困るだろうが。
「でも、エヴァンが旦那になるわけでしょ? いつかはくることじゃない」
「だからって、いきなり聞くなよ。さっきまでの空気が消えたじゃないか」
ほら、エティカなんか顔を真っ赤にしちゃって。
あら可愛い。
「必要なことでしょ? 魔人族にとっても、人族にとっても」
「そういう種族的な話とか、政治的な話は気にしない質なんでね」
「じゃあ、エティカちゃんとの赤ちゃんは見たくないの?」
「見たいに決まってるだろ」
何を言わせやがる。
ほら、エティカなんか耳まで真っ赤にしちゃったじゃないか。
可愛い。
「実際、どうなるか分からないわけだし。王政次第だ」
「あら、政治的な話を気にしないて言ってたはずじゃないのかしら」
「それとこれとは別だ」
「適当なことを言わないの」
まぁ、そうだな。
適当なことは言うべきでない。
言うべきじゃない。
ここにいる、彼女を傷つけないためには真摯に向き合うべきだ。
「そうだな。……ごめんな、エティカ。俺エティカとの赤ちゃんを見たい」
「わたしのいないところで、そういうことを言いなさいよ。正直、見苦しいものがあるわよ」
なんだよ。
言ったら言ったで文句を言われるのかよ。
いや、エティカなんか俯いちゃったし。
そうすれば、自然と赤ん坊と目が合う。
そのまま、ぷにぷにとしていて、ふわふわとした手がエティカの顔へ触れる。
優しく。
頬っぺたへ触れる。
「……エヴァン。わたしもエヴァンとの赤ちゃんを見てみたい」
「場所を弁えなさいよ。二人きりでしなさい」
それでなんで俺が叩かれるわけですかね?
おかしくないか。
いや、おかしくないか。
「少なくとも、うちの赤ん坊の前でやって欲しいことじゃないわ」
「ご、ごめんなさい……」
「エティカちゃんはいいのよ。悪いのはこの男よ」
「風当たりキツすぎだろ」
「あなたのさっきの発言の方がキツイわよ」
ぐうの音もでない。
今思えば、確かに気持ち悪いことを言ったな。
……いや、本当に気持ち悪いな……!
なんだよ、赤ちゃんが見たいて。
気色悪い。
「すまなかった」
「いいわよ。ちょうど、買いたいものがあったし」
「はい、是非とも買わせていただきたい」
それで許してくれるんだから、優しい方だ。
ローナが聞いていたら、俺をボコボコにしてそのまま市中引き回しになっていたことだろう。
もしくは、一週間口をきいてくれない。
無視されることだろう。
存在自体を。
「まぁ、きっかけがどうであれ。二人が望んでいるのなら、それが一番大事じゃないて話がしたかったんだけど」
「気持ち悪いことを言うやつが邪魔したみたいだな」
「あんたよ、あんた」
「目だけは勘弁してください……」
人差し指をこちらの眼球に突き立てるよう、見せつけてくる。
威嚇にしては凶悪すぎる。
警告にしては過剰すぎる。
「ただ、まぁ。先輩としてエティカちゃんに言うことがあるとすれば」
「う、うん」
赤ん坊からの誘惑を振り切って――いないようで、伸ばされたムチムチの手に自分の指を握らせながら、エティカは顔だけヘレナの方へ向ける。
きっと大事なことを言ってくれる。
もしくは、重要なことを伝えてくれる。
そう思っていた俺たちに、ヘレナは深刻よりも深い感情を宿し。
雰囲気が一変するほどの様相で。
「死ぬほど痛いわよ」
もう二度と経験したくないと、物語っている。
だから、エティカも最初どういうことか分かっていなかったようだが、後々聞いてみれば「ヘレナの言っていたことがよく分かった」と痛感したようだ。
ただ、そのどちらにも。
ヘレナにも、エティカにも言えることがあるとすれば。
産まれてきてくれて、ありがとう。
最初に言うことは、必ずその言葉であった。




