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第614話「恵みの声」


 黙する鴉の玄関先。

 つまりは、正面玄関前の植え込みの段差。

 俺はそこで夕涼みしていた。

 かといって、夕暮れなんてすぐに終わったし、もう夜のカーテンがひかれた状態だ。

 点在する露店は所々で店じまいをし、そうじゃない店はランタンに灯りをつける。

 ここから仕事終わりの客を集めようとしているのだろう。

 肉がよく焼ける匂いや、パンの香ばしい匂いをわざとらしく漂わせることで最大限の魅力を振り撒いている。


「……腹減ってきたな」


「まだ食べていなかったんですか」


 黙する鴉の扉がいつの間にか開かれていて、そこからさっきまでヘレナの出産に立ち会っていて、手伝いまでしていたローナが歩いてくる。

 その顔には疲れや疲弊なんて一切なく、ただただ無表情が凍てついていた。


「あんまり、な。ヘレナがあんな状況だしさ、俺も祈るのに必死だったからさ」


「前までだったら冗談だと一蹴していましたけど、冗談じゃないですものね。エヴァンのお陰で、ヘレナさんも赤ちゃんも無事だったのなら、むしろお礼を言わなければいけませんね。ありがとうございます」


「いいって、頑張ったのはあの家族だって」


 祈ってはいたし、無事だと願ってはいた。

 だが、あくまでそのくらいでしかない。

 実際に未来を掴むのは本人でしかない。

 俺は切っ掛けを与えたか、はたまた自分に都合のいいことを夢見ていただけにすぎない。

 そこに褒められるようなものはない。


「エヴァンならそう言うでしょうね。しかし、こうなると寂しくなりますね」


「ん? どうして」


「だって、ヘレナさんの出産が落ち着けばエヴァンやエティカちゃんは王都へ引っ越すじゃないですか」


 そういえばそんな話だったな。

 でも、それはあまりに気が早いだろ。


「まだ先の話だぞ。家だって、土地だって買ってもいないんだから」


「でも、いつかはやってきますよ。それこそ、あっという間に」


「だとしても、寂しいなんてローナも思うんだな」


「冗談だとしても、もう一回頬を叩いた方がいいでしょうか」


「やめてくださいごめんなさい」


 あんな衝撃はもう充分だ。


「いいですよ。エヴァンがいなくなって清々しますけど、エティカちゃんがいなくなってしまうことの方が悲しいというだけですから」


「言うようになりやがって」


「実際、黙する鴉の優秀な給仕がいなくなるのを危惧していますので。まぁ、ヘレナさんの体調が落ち着くまでに新しい人を雇えばいいだけですから」


 それもそうか。

 今や、新しい人を雇うことに渋る理由はない。

 というか、元々渋っていたわけじゃない。

 エティカを保護しているあいだは、求人を出すこともせず、俺とヘレナ、黙する鴉の面々が大丈夫だと判断した人しか雇わなかっただけ。

 ただそれだけだ。


「だとすれば、エミルはどうなんだ」


 エミル・ポセンド。

 赤毛の獣人族にして、学生でもありながら、解術師を目指す少女。

 あの子だったら、何回か酒場の手伝いもしているし、客との関係性も問題ないはずだ。


「エミルさんでしたら難しいでしょうね」


「難しい、のか?」


「はい。彼女はとても忙しいみたいですから」


 そうなのか。

 確かに、最近――というか、俺が旅立って戻ってきてからも、なかなか会ってすらいないな。


「なんでも学校から解術師の試験を受けてみないか、と提案されたみたいでして。そのための勉強で忙しかったみたいですよ」


「おお、試験か」


 試験。

 解術師の試験は、魔術師の試験と比べ物にならないほど難しいとは聞く。

 まぁ、魔力と適性に合わせた知識さえあればいい魔術師に対して、ほぼ全ての魔術への知識を持ち合わせていなければいけない解術師とあれば、難易度はとてつもない。

 それこそ、魔術師だった者が解術師の試験を一生かけて受けていれば、死ぬ間際で受かる。

 そんな言われ方をするくらいだ。

 それをエミルは受けているとなれば、顔なんて出す暇なんてないな。


「ん? 忙しかった?」


「はい。試験は終わっています」


 なんてこった。

 知らないうちに終わっていたらしい。

 激励でもするか、労いのお菓子でも持っていこうと思ったのに。


「受かっているといいな」


「結果の通知は数ヶ月後らしいですし、エヴァンが祈っていれば受かるんじゃないですか」


「そう簡単に使っていいものじゃないって」


「えぇ、もし使うと言っていれば叩いていましたよ」


「……どこを?」


「目を」


 目を!?

 恐ろしい。

 良かった、冗談でも言わなくて。

 ただでさえ、遠くも見えなくなっている視力が無くなってしまう。

 それだけは嫌だね。


「言っておくけど、ヘレナの出産だって祈っただけで能力は使っていないからな」


「はい。なんとなくでも分かっていますよ」


 それでも引っぱたくつもりだったのかよ。

 恐怖だよ。


「さて、そろそろ戻りましょう。私もお腹が空きました」


「結局お前も空いているじゃないかよ」


「この匂いは駄目です。飲み歩きしたくなります」


「それなら、姉を連れていけばいいじゃないか」


 あの傲慢の魔女は今も黙する鴉に滞在している。

 無許可ではなく、しっかりと宿泊料は払っているらしいからちゃっかりしている。

 客はよほどのことがないと追い出せないし、俺にそんな権限はない。

 強いてあるとすれば、ヘレナへ直談判するくらい。

 それくらいだ。


「いいですけど、帰ってこられなくなりますよ」


「朝までに帰ってくればいいだろ」


「いえ、一週間は帰ってきませんよ」


「お前らは王都にまで飲み歩くつもりか……?」


「酒に強い姉妹が、たった一夜で満足するわけないじゃないですか」


 この飲んだくれ共め。

 規模が違いすぎる。

 たった一夜くらい――数時間くらいならいいけど、一週間となれば無理だ。

 ヘレナの状態や赤ん坊の容態によっては、人手はあって困らない。

 特に優秀なローナがいなくなるのは、とてつもない痛手になる。

 それくらい、男連中は不甲斐ないわけだ。


「ほら、中に入りますよ。エティカちゃんが作ってくれた料理が冷めちゃいます」


「は? そういうことは早く言えよ」


 誰よりも素早く、黙する鴉の扉へ向かう。

 それを呆れている様子で見つめてくるローナを背中に、温かな匂いが充満した酒場へ突入する。

 着実に。

 平穏であれども。

 変化はしていっている。

 それが、温かくて。

 心地いい。

 …………まぁ、食べすぎて苦しいことを除けば。

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