第613話「親よ頑張りたまえ」
「なぁ、エヴァン。俺はどうすればいいと思う」
黙する鴉の廊下。
それも、アヴァンとヘレナの寝室の前の廊下で、適当に持ってきた椅子に座りながら男は深刻な顔つきで尋ねてきた。
えぇ、赤髪の男ことアヴァンですよ。
この期に及んで、こいつは手持ち無沙汰になっているわけですよ。
「少なくとも、ここでじっとしていない方がいいだろうな」
「……エヴァンは中に入って何か役割とか与えられたのか?」
「いや? とりあえず飲み物を持ってきただけだ」
水。
飲水。
それを人数分持ってきただけ。
他に必要な物は事前にエティカとローナが準備していたので、それくらいしか持ってくるものがなかった。
「……俺も何か持ってきた方がいいのか」
「それこそ中で聞いた方が早いだろ。俺らには分からない状況だ。助産師さんに聞いてもいいんじゃないか」
「それもそうなんだが……」
この男。
この状況で尻込みしていやがる。
今すぐぶん殴ってやりたいけど、こいつの子どもの親が頬を腫らして入ってきたら問題だろう。
仕方ない。
拳は一旦、下ろしておこう。
「いざ、父親になるていう実感がわかないまま、俺はあの子の父親になっていいのかなって思ってさ」
「別に、この世の大人とか親は資格を持たずに、子どもの親になったはずだぞ」
「そりゃそうだが」
「皆いつの間にか子どもの親になっただけだろ。あれやこれやと考えて、行動してきて、それがいいのか闇雲にやってきた親しかいないだろ。語弊はあるかもしれないが、そこに覚悟なんて、実感なんてないだろ」
「……」
「あるのは、この子のためにできることをする。それだけだったと思うぞ。そうだな。分かりやすい例えで言うと……俺の母親のことは知っているか?」
「確か、よく襲いかかってくる血の気の多いお母さんだろ」
大変だよなお前も。
そう同情の目で見てくるアヴァン。
まぁ、そうだし。実際面倒くさい。
親らしい姿なんて発狂しながら斧を持って襲いかかってくる姿があまりにも強烈で、それくらいしか印象に残っていないと言っても過言だ。
「母親はな。俺の体が弱いことを気にかけてくれたんだ。だから、運動させる。運動させたら飯を食わせる。たらふくな。そして、本も読め、魔術も学べ、魔法も使え。そんな親でな、必死だったわけだよ」
今思えば、かなり切羽詰まった状態だったはずだ。
俺が『救世主』としての使命を与えられてから、母親はあれこれと試行錯誤してくれた。
それが結果として、血の気の多いように見られているだけで、全ては俺が生きて帰って来れるようにしてくれた。
その経験がなければ、今の俺はいなかっただろう。
まぁ、辛かったのは事実だが。
「今や父親も一緒になって襲ってくるんだぞ? 両親ともそんなことをしなくても、て思ったかもしれないし。一般的な親とは境遇が違うかもしれないけど。皆思うところは一緒だと思う」
「子を思う……子のためにできることをする。か」
「まぁ、綺麗事だけどな」
世の親が全てそうではない。
だが、子どもが親を選べないのと一緒で親だって子どもを選べるわけじゃない。
自分の子どもであっても、その子は一つの生命だ。
自分の思い通りになると思わず、その子との会話や行動から察して、観察して、触れ合うことでようやくできること、その子がしたいことは見えてくる。
それを怠らない者が【親】になれるんだと思う。
まぁ、親になった気持ちなんて分からないけど。
「……」
「まぁ、ここにいてもいいかもしれないけど、そうだな、父親らしいことがしたいのなら。俺やエティカ、ローナだってできないことはあるけど、その中でアヴァンだけができることはある」
「なんだ……?」
「ヘレナの手を握って祈ること。そして、産まれてきた子を抱きしめること。俺らはヘレナの夫でも、産まれてくる子の親でもない」
そうすることでようやくこの男は重い腰をあげて、「分かった。分からないなりにやってみる」と寝室へと入って行く。
全く。
俺もこうやって父親になるんだろうか。
そうやって、そう遠くない未来を思い、俺も水を抱えながら入っていく。
それとなく広い部屋ではあったものの。
しばらくしてから、少し狭くなった。




