第604話「泣いてもいい」
「エヴァン。やめておきなさい」
押さえ込み、更には首元へ手を掛けて何かあればへし折ってやると脅迫の意味を込めて握っていると、バイスさんから呆れたような声が届く。
「……ですが」
「やめておきましょう。どうやら、傲慢の魔女のやったことは成功しているようですし」
その言葉の通りなのか。
謙虚の魔女は未だに怯えた表情で俺を見つめてくる。
潤んだ瞳。
恐怖で染まった双眸。
今にも泣き出しそうな表情は非常にこちらへ罪悪感を与えるほど、純粋なものである。
ひとまず。
信じられないにしても、いきなり飛び掛ったのは早計だったかもしれない。
そう考え直して、押さえ込んだ姿勢から立ち上がる。
……うわ、右手ぐしょぐしょなんだけど。
「おい……何をするんですか」
今にも泣きそう――どころか、もう既に涙を流している半泣きの女性。
かつて謙虚の魔女と同じ口調に関わらず、かつての牙がどこかへし折れたような様子にこちらとしても、困ったものだ。
「ごめんなさいね。貴方が謙虚の魔女の可能性があったから乱暴な手段に出ちゃったわけです」
「……謙虚の魔女?」
首をさすさすと撫でる謙虚の魔女は、そう尋ねる。
そう、尋ねた。
知らないと言いたげな様子だし。
本当に、知らないのか……?
「……んー、本当に知らないみたいですね」
「でして。謙虚の魔女だったことよりも、そもそもどこまで覚えているのか分からないほど、なにも覚えていないのでして」
「そうなのでありますか? それはもしかして、傲慢の魔女が断ち切ったからでありましょうか」
「そんなことないです。いえ、そんなことはありえないと言っておきます。断ち切ったではありませんし、何度も言っているでしょう。【解いた】と。元の状態に戻しただけであって、それは例えどんな状況、状態、環境にあっても揺るがないものです」
だとすれば。傲慢の魔女が言っていることを信じるとすれば、もっと厄介になる。
いや、既に対の魔女が生き残っているというだけで面倒なものではあるけど、それ以上になんの情報を持っていないとすれば、嫌な気持ちにもなる。
そう、嫌がらせを受けた子どもの心境だ。
「だとすれば、この元謙虚の魔女はなにも知らない。記憶そのものを消されたということですか?」
「そう言っても差し支えないのでして。いえ、そう言うしかないのでして」
疑問に答えてくれる暴食の魔女。
まぁ、実際に起きたことを整理して考えてみれば、自然な思考ではある。
それにしては、厄介この上ない。
考えれば考えるほど。
思えば思うほど。
「つまり、謙虚の魔女が考えたかそれとも対の魔女全員がそう決めたのか、勤勉の魔女がそう命令したのか分からないのでありますが、この場にお荷物を置いていったか、邪魔になる存在をあえて作ったということであります」
その通りではある。
しかし、人を物扱いするのはどうだという意見だってごもっともなはずだ。
それでも、それだけの印象が悪い対の魔女なのだから、仕方ない。
記憶がなくても罪は消えない。
例え、忘れていたとしても罪は罪なのだ。
そして、それを忘却の彼方へ捨て去ったとしても記憶に残っていないだけであって、軌跡そのものは残る。
人の行先には、必ずと言っていいほど痕跡は刻まれる。
それを見る手段さえあればいい。
荷物なようであって、実際には答えそのものなわけだ。
……そんな手段があればの話だけど。
「まぁ、なんにせよ。僕達ができることとすれば、国王をどうにかする以外にないわけだし。その元魔女は幽閉でもしておくかい?」
誰に聞いたわけではないので、誰も返答しないような状況の最中。
嫉妬の魔女へ、言葉を返したのはテーブルを囲んでいる人物ではない。
「そうですね。レヴィの『嫉妬の禁忌』に閉じ込めておくのがいいでしょうね。そうすれば、回復もするわけですから、勝手に記憶が戻っているかもしれませんし」
静かに開けられた扉。
そこから、のっそのっそと歩んでは七つの魔女の後ろを通り過ぎる黒いローブの女性。
ちらりと、バイスさんを横目に見る瞳は左右一つ一つで色が違う。鮮やかな色合いの宝石を瞳に閉じ込めたような、ガラス玉をコロコロとテーブルを囲んでいる人物へ移り変わっていく。
しかし、その歩みはどことなく。
謙虚の魔女をも通り越しては、目的がなくふらついているわけでもなく。
ゆっくりと、確実にある場所へと向かっていく。
「相変わらず、重役ですこと。怠惰の魔女らしいと言ったらいいのかしら」
そんな背中へバイスさんが呆れるように吐きつける。
しかし、ものともしないどころか。
むしろ、ようやく嫌味を言ってくれたと喜んでもいそうなほど、上擦った声で怠惰の魔女は話す。
「少し、準備しなければいけないことがありましてね。傍観者でなくなると、体を動かした時これほど難しいとは思いませんでしたよ」
「そう」
「はい」
たったそれだけの会話でバイスさんは怠惰の魔女の考えが読み取れたのだろうか。
それ以上なにも言わなかった。
いや、信じているのかもしれない。
彼女のしてきた行動も。
彼女の受けてきた軋轢も。
そこから発生した発散的な行動へも。
信じているのだろう。
信じてやまないのだろう。
そんな怠惰の魔女が、ゆっくりとそれでも確実に国王の元へ辿り着いたのは、時間で数えると一瞬ではある。
しかし、辺りで警護している騎士がその行動を許すわけもなく、怠惰の魔女と国王が一直線に向かい合うことがないように、間へ挟まる。
「あら」
「申し訳ありませんが、国王様は今意識喪失している状態です。救護していただける方以外を通すことはできません」
「はい、そうですか。なんて言って引き下がるくらいの人間がここにいると思っているのでしょうか?」
怠惰の魔女の言っていることって、結構悪役側じゃない? と思ったのはここだけの話である。
まぁ、国王が人族に味方しているのならそうなるが、現実問題、勤勉の魔女に操られていたのだから、どちらが悪役かなんて言わなくてもいいだろう。
だから、騎士も躊躇したのだ。
躊躇ったのだ。
思案もした。
だが、騎士道とやらが体を繋ぎ止めているのか一向に動く気配はなかった。
「……はぁ、これだけ立派な騎士が仕えているのですから、何か労いの言葉でも出したらどうですか? ラスティナ国王?」
しかし。
怠惰の魔女がそう問いかけた国王は。
一切、目を開けることさえなかった瞼がゆっくりと開いていき。
ぼやけた眼球が状況を写す。
いかにも、寝起きみたいな表情で。
「…………なんじゃ? 何が起きておる?」
そう、素っ頓狂な。喉の調子が悪いのか、それとも寝起きは大体そうなのか、ガッサガサの声で聞いたのだ。
マヌケなほど。
呆気ないほど。
なにも起こっていないと証明するように。




