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第16話「露わ」

 小さな、痩せこけた病的な白さの手を握って最初にやって来たのは、黙する鴉の従業員専用の風呂場である。

 小さな一室で、木製の湯船と小さな蛇口、洗身用の石鹸(せっけん)が何個かまとめられて置かれていたりなど、それまでの雰囲気とは違った感触がした。


 なにより、白銀の少女は初めて見るかのように大きな紅色の瞳を見開いていた。輝く赤い色彩を放つ。

 それが、今まで風呂というものを経験したことが無いのを裏付けているようであった。


「ここが従業員専用のお風呂よ。少し狭いかもしれないけど、我慢してね」


 案内も兼ねて、ヘレナがエティカと共に風呂場へ来たのは彼女の身なりを少しでも整えようという計らいである。泥だらけで、土にもまみれて、髪もへしゃげてしっとりとしたまま。

 とても女の子がしていい恰好ではない。


「おふ、ろ?」


 対して、エティカは小さな頭をコロンと傾ける。

 やはり、この子はお風呂というものを知らないのか。

 もしくは、魔人族の清潔手段の確保とはまた違うから、異なった反応を示したのか。

 そんなことをざっと考えてみても、生産的ではないと判断し、自慢げに語ることにするヘレナ。


「そう、お風呂。まずは体を綺麗にしましょう」


「というわけで脱がしますよ」


 ヘレナとエティカの後ろで気配を殺していたローナは、そう言うや否や白銀の少女が深々と被っていたフードを外す。

 茶褐色の革でできた少し年季の入ったフードを下ろすと、土汚れた白銀の髪が覗く。

 その頭の前、前頭葉付近に二本の艶やかな漆黒の角がひょっこりと主張する。

 この角だけは、綺麗で小さな頭角ではあったものの可愛げがあった。そして、それが魔人族だというなによりもの証拠であることも。


「やっぱり、幻生林で長い時間迷っていたのね」


 金髪と黒色の瞳が映したのは、酷く傷んだエティカの髪。『目利き』によって細部まで見ることができる目で、映したその髪は、長い時間激しい環境に晒されていたことを象徴するような傷み方をしていた。

 ゴワゴワと、ボサボサと、キシキシとさえ感じる女性の命と言えるその髪はボロボロであった。

 試しにと、手ぐしで触ってみると容易く引っかかる。


「これは、結構な大仕事かもしれないわ」


「確かに、かなり傷んでいますね。それだけ大変だったんでしょうね」


「そうね。よく頑張ったわね、エティカちゃん」


 ヘレナはそう言うと小さな白銀の頭をくしゃくしゃと撫でる。しっとりとした感触に、手首に当たる二本の角が引っかかる。

 そんな突然の出来事に目を丸くした白銀の少女ではあったが、すぐにふにゃりと溶けた顔を浮かべる。


「えへへ……」


 その表情に感化されたヘレナも柔らかい笑みを向ける。小さなボロボロの体で、魔獣の森を生き抜いた少女を称えるには、(いささ)か子ども扱いし過ぎかと思ったが、当人はそんなことを微塵(みじん)も思っていないようだ。


「さて、服を脱ぎましょうか」


 そんな二人のやり取りを傍観していた紫髪の給仕は、てきぱきとエティカの身ぐるみを剥がしていく。

 されるがままの白銀の少女は、抵抗の素振りさえ見せず脱がされていく。大人しく脱衣へと至った彼女の体は、過酷だと端的に表現できるほど荒れていた。


「これは……」


 少女の背中に立ったローナは、悲嘆のこもった声をあげる。

 白銀の少女の、痩せこけた骨さえ浮き出る貧弱な体。それだけでない。小さな背中は、肩甲骨と心臓を守るあばら骨が浮いていて、肉付きも多少程度。そんな貧相な背中に、大きな切り傷の跡が刻まれていた。

 それは、剣で斬られたような切り口をしている。


「ヘレナさん」


 ローナは自分一人だけで処理してはいけないと判断して、金髪の大人の名前を呼ぶ。

 名を出された当人は、紫髪の給仕が示した背中をチラリと伺う。


「あら……」


 ポツリとこぼした言葉に反して、薄暗い感情がヘレナの心情へ湧き上がる。

 エティカの背中にできた斬り傷は、完全に塞がっていて痕になっていたが、間違いなく()()()()()()()()()である。

 魔獣による引っ掻き傷でもなく、転んだ時に石で傷つけたものでもなく、意図的に、誰かに剣かナイフで斬られた傷。


 それが見えたヘレナは、ひとまずローナへ視線を送る。込める意思は、「白銀の少女がいない時に話をしよう」というもの。

 付き合いの長い紫紺の瞳の婦女は、金髪のアイコンタクトを理解するとこの件については黙る選択をとる。


 まず、それよりもこの子の心身の清潔だろうと。

 ここで昔を掘り返しても、少女の居心地の悪さに繋がってしまう。それだけは避けておかねばいかない。


 ローナ自身、居場所がない辛さを知っているからこそ、後ろめたい過去を持っているからこそ、そう判断した。


「じゃ、体を綺麗にしましょうか。――悪いけどローナ、わたしの部屋からこの子に合う服を見繕ってきてくれるかしら?」


「はい、いくつか持ってきますね」


 俊敏な動きで浴室を後にするローナ。仕事の早さや頼み事をした時の正確さなどを加味しても、あの給仕はとてつもないポテンシャルがある。

 それが大きな信頼感にもなっているのを、ヘレナは心の中で感謝しつつ、エティカへと視線を送る。


 傷痕や、土や泥で汚れた裸の体。そのえくぼさえ浮き上がった顔を上げ、不安げな紅色の瞳はうるうると揺れる。

 そんな少女の心配を打ち消すよう、明るい声音でヘレナは小さな手を握り、浴室へ突入する。


「さあ! お化粧直しよ、エティカちゃん。こんな磨けば光る原石逃す手はないわ!」


 意気揚々と連れて行った。なるべく安心できる場所にするため、白銀の少女へ暗い感情を与えないように。

 そんな裸の彼女が泡に包まれ、姿を隠してしまうのはこの後すぐのことである。

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