第114話「唇」
意気揚々と階段へ向かう白銀の髪を、見送る紫紺の瞳。
ショットグラスに注いだ葡萄酒の水面が、揺れているのをただ無心で眺める。
甘く漂う、この上ない酒であるはず。
それなのに、なかなか口をつけることができない。
あれほど酒が大好きで、休みの日には酒場をハシゴするローナが。
酔ったわけでも、この葡萄酒が不味いわけでもない。
むしろ、今まで呑んできた薄めのビールや浅い年数のワインよりも上等であるはず。
そんなことは呑んだくれのローナには分かっている。
分かっているのに、分からない。
自身の気持ちと向き合おうとすれば、なぜか目の前の葡萄酒が濁って見えるし、かといって見過ごせばアルコールの苦い匂いが鼻を刺激する。
正解の見えない袋小路に閉じ込められたような。
証明しようのない現実を直視したような。
そんな、どうしようもない気持ちを抱え紫紺の瞳は、自身の髪より濃い色の葡萄酒と睨み合う。
飲み干せば楽になるのか。
残して捨てれば解放されるのか。
どちらかの選択肢を取るか。
そんなのは決まっている。
ただ、今この時。少しの時間。たった数分でもいいから。
勢いよく飲み込んだ私の雫も掬いとって欲しい。
そう切ない願いを祈りながら、ローナはショットグラスの葡萄酒を飲み干し、夜は更けた。
◆ ◆ ◆
少し時間を巻き戻し、自室へと帰ってきたエティカ。
姉のように慕う紫紺の婦女との相談も済み、気持ちは幾分か楽にはなったが、いざ帰ってくると緊張感が心臓をキュッと締め付ける。
その緊張感を与える青年は、ベッドで既に寝息を立てている。
一人分の、白銀の少女が横になっても余裕なほどの隙間を作って。
こちらを向いて寝ている姿は、いつも見ている穏やかな寝顔であった。
それが白銀の乙女へ安心感を与える。
一番安心する顔で、一番見ている顔で、一番優しい顔で、一番好きな顔。
エティカが幻生林で一人彷徨って、死の淵にいたのを救い出してくれた優しき青年。
最初こそ警戒していたが、それも仕方ないだろう。
少女は魔人族で、『魔王』の配下なのだ。
本来ならその場で首を取られていても仕方ないほどに、魔人族は恐怖の対象でもある。
そんな種族だと知っていながら、青年は焼き魚をわざわざ焼き、腹を空かせた少女に譲ったのだ。
見て見ぬふりもできた。見捨てることも、見放すことも、見逃すことも、追い払うことも、追い出すこともできたのに。
そんな素振りさえ見せず、少女を鴉に迎え入れた。
ローナに、ヘレナに、アヴァンにも出会えた。
そんな機会をくれたのは間違いなく、エヴァンのおかげである。
泥水をすする必要も、食べられるか分からない木の実を食べる必要も、妙に酸っぱくて苦い草を齧る必要もないくらい、あたたかくて五臓六腑に染み渡る環境へいさせてくれる。
だからこそ、何か手伝いたいと思い、料理を覚えた。
仕入れた野菜や肉、調味料の保存場所も覚えた。
テーブルを拭くための雑巾も、モップの位置も、受付に必要な書類の準備もたくさん覚えた。
今度、ヘレナに頼み込んで正式な契約を結んで、鴉の給仕として働かせてもらおう。
そんな余裕さえできた。
あの時の一分一秒を生きることに必死だった時と比べて。
全てはこの青年がいてくれたから。
隣にいてくれたから。
王都に行って、消沈した姿を目撃した時は驚いたが、もうあんなことがないようにしてあげたい。
それがいつしか恋心へ変わるのも、尊敬から想い慕うように変化し、一人の異性として映ってしまうのは必然だろう。
白銀の少女はゆっくりと寝ている青年へ近づく。
規則的な寝息。薄く開いた唇。少しまつ毛の長い端正のとれた顔。かといって美男と言われると、そうではなさそう。一般的な顔つきで、平均点とローナは酷評するだろう。
それでもエティカには、一番の衆目美麗な顔に違いない。
少しずつ顔を近づける。
青年の男らしい匂いが鼻を刺激する。今や接吻ができそうなくらい迫るが、寝入っているようで一向に目を覚ますことは無い。
なら、ちょっとズルをしてもいいだろう。
白銀の少女の小悪魔な心情がのぞくと、まっさきに行動を起こした。
チュッ。
小鳥が突っつくように一瞬。青年の無防備な首筋に桃色の唇をつける。
ただ、その刹那の時間でも、青年の体を感じることができた。
それがあまりにも恥ずかしく、脳が痺れるほど溶けてしまいそうなくらい、甘く感じた。
実際には、味なんて伝わる時間なんかない。一秒にも満たない咄嗟の出来事。
だからこそ、冷静になって自分の行動や心の動き方を見直すと、頬が紅潮していく。
火照った頬を両手で触りながら、自分のしたことを再確認する。
(わたし、いったいなにを!?)
寝込みを襲っているのと大差ない。それが首筋へのキスであって、青年が寝こけている隙をついて自身の欲求を消化したのだ。
考える暇もなく、あっという間に吸い付いた。
ただ、その時の心境は自分のものにしたいという強欲な気持ち。
(お、お酒のせい……! 飲んでないけど、きっとお酒の匂いのせい……!)
そう心の中で言い訳して、行動を正当化する。
匂いにあてられた。雰囲気に酔った。だから、くちづけを首へ与えたのも葡萄酒のアルコールのせいだ。
(も、もう寝よう……)
寝て起きれば、忘れる。
無理やりにでも忘れよう。
そう思うが、全部忘れるのはもったいないから首筋の甘さだけ、覚えていよう。
青年に背を向け、意識を沈めようと必死に潜り込んだ。




