【外伝】「エティカのいつもの日 2」
洗顔も終わり、一度部屋に戻るとエヴァンも目覚めを迎えたようで小窓から外を眺めていた。
その後ろ姿へ、白銀の少女はいつもと変わらず、いつも通りの言葉を投げる。
「おはよう、エヴァン」
「……ん、おはよう。エティカ」
振り返った顔は、なにやら考えに耽っていたようでぼんやりと瞳が沈んでいる。
彼はいつもそうだ。
朝を迎える度、日が昇る毎に、小窓から見える景色を眺めながら物悲しい考えに浸る。
「また、考えごと?」
エヴァンに近づくエティカの歩みは静かに、そして優しく寄っていく。
そんな白銀の少女に対して、青年は視線を外に広がる青空へ向ける。
「まぁ、大したことじゃない。今日も無事、一日が終わればいいと願ってただけだよ」
「……そっか」
エヴァンはいつもそう言う。
何かを考えていて、何かを憂いているのに、誤魔化す。
これまで何度となく繰り返され、何回も同じ返事をしてきた日常なのだ。
ただ、決してエティカは納得しているわけではない。
青年のおかげで今があると言っても過言ではない。
青年のおかげで、生きているのだ。
息をして、食事もして、入浴だって、整容だって出来ている。
それもこれもエヴァンのおかげなのだ。
そんな彼が、いつまでも悩みを抱えているのは少女にとっても悲しさを増長させるものになる。
寂しさを拡大させるものになる。
無力感を引き立たせるものになる。
無論、そんなことはエヴァンも分かっているのだろう。
「エティカは、もう顔洗ったのか?」
「うん、ローナちゃんと、一緒に」
「そっか、俺も洗ってくるかな」
切り替えて、先ほどまでの哀愁は引っ込んでしまった。彼は、こういう隠し方が非常に上手い。
そう思うエティカは、感じていた無力感を胸の奥へしまい込む。いつか出すべき時に出せるよう。
ただ、エヴァンがそうしたいなら、そうしてあげよう。そんな気持ちの白銀の少女は、そういえばこの時間のことを伝え忘れていたと、慌てて伝える。
「あ、気をつけてね」
「え、なんか気をつけなきゃいけないのか?」
突然の忠告にエヴァンの足は止まる。
水道が壊れたとか、水場に虫がいるとか、そういう類だと予測したエヴァンに対して。
「昨日から、泊まってる、おひとり様さん。この時間に、水場で、鍛錬してるから」
「あぁ、そのことか」
そんな忠告であった。
エヴァン自身、大したことないという反応ではあったが、昨日の夜にヘレナからの注意もあったことを軽く見ているのだろう。
重要視せず、当たり前の中に紛れた普通の出来事だと認識しているエヴァンは、扉を開きながら自信満々に話す。
「大丈夫だって、俺、結構強いんだぞ」
「あ……」
そう言うと行ってしまった後ろ姿を、虚しく眺めるエティカ。
(違うんだよ。喧嘩早いとか、そういうことじゃなくて、強いとダメなんだよ)
出ていった背中に語るも、諭すも、それは届くことはない。
仕方ない。切り替えよう。
そう心の中で手を合わせ、エティカはタンスから給仕服を取り出す。
白と黒の無難な配色に、可愛らしさもない地味目な服。腰元にはポケットがたくさんついている機能性重視な衣装。
それに着替えていると、エヴァンが出ていった方向から悲鳴が聞こえてくる。
(あぁ……エヴァン)
予想していた通りの状況に陥ってしまい、エティカは少しの罪悪感を抱きながら身なりを整えていった。
◆ ◆ ◆
準備を整え、黙する鴉の従業員として申し分ない姿になった白銀の少女が、受付までの階段を降りると阿鼻叫喚とも言える。
なんとも奇々怪界な世界が広がっていた。
「え、なに……」
階段を降りて右手の受付前にも、左手にある依頼掲示板の前にも、突っ伏している人達で埋められていた。
先ほどまで洗顔するために降りた景色とは違うその異様な光景に、エティカは唖然として立ち尽くした。
そんな死屍累々の中で、見知った姿を確認できた白銀の少女は倒れた者を踏まないよう歩き出す。
「エヴァン!?」
「…………うぅ」
傍までたどり着けばエヴァンに間違いない。
慌てて、抱き起こすと苦渋の表情を浮かべる青年。
「エティカ……気をつけろ」
「気をつけろて、なにが、あったの」
「あいつは、強い……」
震えながら、ある方向へ指をさす。
それを辿った先――受付のその奥にある酒場に偉そうに座った男をエヴァンは示す。
不敵な、不遜な笑みを浮かべる筋骨隆々な男。
その者は、わざとらしく。そして見せつけるような大声を出す。
「こんなものか! ここの連中は軟弱者ばっかだな!」
よくよく見れば、その頭には傷だらけで形がボロボロの獣耳がついている。
毛色も灰色の中にくすんだ黒が混じっている。
一目で獣人だとエティカは分かった。
そして、気をつけろと言った件の人物でもあった。
「こんなんで、この店はやっていけるのか! ストラも落ちぶれたもんだな」
あまりにも失礼なその言い方。
あまりにも思い込みで侮辱したその言葉に、白銀の少女へ怒りの炎が宿る。
ムッとした、頬っぺたがぷくっと膨れたそのまま、その男の元へ近づいていく。
か細く「エティカ、行くな……」というエヴァンの言葉をあえて、聞こえていない振りをしながら。
そんな姿が見えた男は、下品な笑顔を張り付ける。
「お、なんだ嬢ちゃん。もしかして、この俺様に惚れたか?」
「…………ていせい」
「あ? なんだって? もっとはっきり言ってくれないと、俺様の耳でも聞こえないぞ?」
わざとらしく、仰々しい動作でエティカを煽るが、そんなことさえも気にならない白銀の少女は、目の前までたどり着く。
「訂正、してください」
「あ? 何をだ?」
凄みをきかせて、露骨な威圧を男はするが。エティカには全く効いていないのか、怒りの滲んだ表情はより一層の厳しさを増す。
「みんなを、バカにしたの、謝ってください」
まるで戦乙女のような勇ましさで、そう言い放った。
彼女にとっては家族同然なのだ。
彼女にとって、大切な人達なのだ。
倒れている者は馴染みの客であって、エティカが青年の後ろで怯えていたのを優しく見守ってくれた者達なのだ。
だから、馬鹿にされたのが、侮辱されたのが、非常に気に入らなかった。
「ふん。じゃあ嬢ちゃんが相手してくれるのか? 見た感じひょろひょろの弱っちい見た目だが、それでも俺様に勝てたら、馬鹿にしたことは謝罪してやるよ」
「やりましょう」
その男らしい二つ返事が聞こえたエヴァンは、慌てて制止の言葉を出そうとするが、音になることはない。
あぁ、エティカが負けてしまう。
怪我をしてしまう。
そんな不安と絶望を感じた青年に対して、白銀の少女は憤怒に染まった瞳が燃えていた。
「勝負は腕相撲だ。嬢ちゃんが勝ったら俺様が全員へ謝る。俺様が勝ったら、嬢ちゃんは俺様のメイドだ」
あまりに不当な勝負であった。
エティカはまだ十歳。大の男に腕っぷしで勝てるわけも、筋骨隆々な男をなぎ倒すわけも、獣人族相手に勝てるビジョンが見えるわけもない。
そう思っていたエヴァンであったが、非情にも取引は成立。男の一方的な掛け声で腕相撲が始まってしまった。
エティカの柔肌が、ぷにぷにの腕が、もし折れてしまったらどうする。きっと獣人族の男を徹底的に追い詰める。逃げ場もないほど圧倒的に。あらゆる権力を使って、『救世主』であることも活用して、エティカを取り戻すだろう。
そんなことを考えていたエヴァンであったが、現実は違った景色を作っていた。
白銀の少女が負ける未来も、メイドになる姿も、全部水泡のように、泡沫のように消える現象がそこにある。
酒場のテーブルについたのは、白色美肌の少女の腕ではなく、毛むくじゃらの男の腕であった。




