【外伝】「キスの日ですって」
平穏な日々。優しくも穏やかないつも通りの日は、いつも続くとは限らない。
ある日突然、世界が破滅するかもしれない。
ある日突然、『魔王』が侵略しに来るかもしれない。
しかし、今回はそんなネガティブな話題ではなく。
「エティカちゃん。そういや今日が何の日か、あの男に教えて貰ったかの?」
「……? いいえ。今日、何かあるん、ですか?」
黙する鴉――そこで通常通りの営業をしていた中、白銀の少女は注文の品である豚肉のバジルソーセージを運ぶと、注文した老人に声を掛けられた。
恰幅のいい肉体に、無理矢理衣服を着せたようなそのムキムキな老人――バルザックは一口ビールを飲みこむと、少しカサカサになった唇を開く。
「あぁ、そうじゃそうじゃ。エティカちゃんはまだストラに来て一年も経っていないから、知らないのも無理はないのう」
「ここに、来て、半年くらい、かな」
「そうか。もうそんなになるんじゃな」
感傷に浸りながら、バルザックは懐から銅貨数枚を取り出し、エティカの小さな手へ乗せる。
丁度バジルソーセージの代金分を受け取った白銀の少女は、それでも不思議そうに目をくりくりと興味深そうにしていく。
「んむ、そうじゃな……。どこから説明しようかの」
「んー……。最初、から? 今日、お客さん、少ないから」
「エティカちゃん……それ店員側が言っちゃあかんぞ」
そう諭すもエティカはコテンと首を傾げる。
いくつものテーブル席は空いていて、宿場客以外はほとんどいない。その宿に泊まっている者への食事も先程提供し終わったからこそ、時間が取れる。そう言いたかったのだろう。
それに、この午前中は大体の冒険者は依頼を引き受け、それぞれ内容に沿った場所へと向かう。たまに訪れる者も宿の空き状況を確認したりが多く、酒場を利用する人は少ない。
多くなっても夕方からだろう。
だからこそ、この隙間時間で気になることを聞きたい白銀の少女の気持ちは理解できたし、バルザック自身も中途半端なまま話を終わらせるのは残酷だと、最初から説明する。
「まぁ、暇なんだしよいか。ちょいと老人の話し相手になってくれるかの」
「うん! お願い、します」
「ほんじゃ、何か適当なジュースでも持っておいで、ワシが奢っちゃる」
そう言われたエティカが、何回か遠慮したもののバルザックに押し切られ、オレンジジュースをコップに注いで隣に着席した。
「じゃあ、今日が何の日か。まぁ、簡単に言えばキスの日だな」
エティカ。唐突に出た言葉が理解出来ず、目をパチクリと繰り返す。紅色の瞳がまん丸になってしばらく、ようやく状況を飲めた頬は真っ赤に燃え上がる。
「大丈夫か? エティカちゃん」
「う、うん……大丈夫、です」
白色の美肌を首まで真っ赤にして大丈夫かと言われると、大丈夫ではないのかもしれないが、ここで話を辞めても少女がその提案に頷くわけがない。
だからこそ、なるべく真面目な話になるようバルザックは心掛ける。
「ま、まぁ、何でキスの日なんて呼ばれるようになったかは昔の『勇者』が元になっているんじゃが」
そう言いながら、老人は思案する。それは感慨に耽けるように深く、そして思い返しているかのように。
「『勇者』?」
「あぁ、その昔。『勇者』が『魔王』を討伐に向かったそうじゃ。その『勇者』は恐ろしく強いと有名でな。
誰一人として心配する者はいなかった。だが、たった一人。『勇者』といつも一緒にいた黒髪の女性だけは、過剰なほど心配してな」
「うん」
少しずつ恥ずかしさの腫れが引いていくエティカは、次第に真剣な表情でその話を聞いていく。
なんとなくだが、そう気のせいかもしれないが。
(他人事、じゃない気がする)
そう感じる勘違いかもしれない。ただ、聞いておいて損は無いかもという予感のするエティカは、お気に入りのコップに注がれたオレンジジュースを飲まず、真っ直ぐ老人を見つめる。
「『勇者』の討伐へ勝手に着いて行ったそうじゃ。護衛もおらず、魔法使いや魔術師を連れずにいた『勇者』の後ろをコソコソとな。
何か嫌な予感でもしたのか知らんが、その女性は別に『勇者』と恋仲でもないし、ただいつも一緒にいる。ただそれだけの関係だったんじゃが」
「う、うん」
白銀の少女は少し言い淀む。決してやましいことをしようという考えからではなく、ただ黒髪の女性の気持ちが理解出来るのだ。
(わたし、も。エヴァンのこと心配だから、着いて行きたいもん。見ていないところで危ない目にあって欲しくないし、傍にいたいもん)
わがままなのは重々承知だが、その気持ちが理解出来るからこそ、黒髪の女性はきっとそうだったのだろう。
白銀の少女と同じ考えを抱き、実行に移した。
きっとそうなのだろう。
なにせ、話の中の女性とエティカには境遇という部分が重なる。同じく『勇者』とずっと一緒にいる者。
エヴァンは『救世主』ではあるが、討伐へ向かうという立場に変わりない。
「何事もなければそれで良かったんじゃが、その女性の予感は的中したのか。『勇者』は『魔王』を討伐するこは出来たが、瀕死の重傷を負ってしまった。
しかも、その場で治癒魔術を使わなければいけないほどの傷をな」
エティカはその話を聞き、息をのむ。もし、もし。
エヴァンが同じような危険な状態だった場合、自分自身には助けられるのか。もしくは何か出来るのか。
思い浮かぶものはなかった。
「更に『魔王』は魔術を掛けたんじゃよ。解術の方法が特殊な物をな。本来であるなら魔術が掛かっていることも、解術の方法すらも分からないんじゃが。
その黒髪の女性は何とかしたいという想いが実を結んだのか、『勇者』に掛けられた魔術を解くことが出来たんじゃよ。それも珍しい方法でな」
「それって、どんな……?」
真剣に、紅色の瞳はあたたかく老人を捉える。
それに応えるよう、バルザックも優しい口調で語る。
その姿はまるで童話を読み聞かせている、老婆のように。
「唇へのキス。それが解術方法じゃったそうな」
「ほひょ」
なんとも奇妙な声が少女から発せられる。しかし、それも無理はない。
(キ、キスって、あのキスだよね)
白銀の少女は耐性がほとんど無かったのか、イメージした脳内が沸騰するのを感じると再熱した。
もう一度、頬を赤くしていく姿をバルザックは確認する。ただ、視認したかといって辞めるわけではないのがこの老人。
むしろ、白銀の少女の恥ずかしがる姿を見れて眼福だと、他の者へ自慢するため口はなめらかに動く。
「その日が今日で、『勇者』をも口付けによって救った女性は、その後『勇者』と恋仲になり、永遠を過ごしたそうな……。という話じゃ」
「……そ、そんな、日、なんですね」
「そう。じゃから、それを記念してというか、愛する者へしっかり気持ちを伝えるという意味を込めて、キスの日と決められたそうじゃ」
それは親愛や友愛であっても一緒で、共に過ごしてきたこと相手へ感謝し、それを伝え合おうという。それが大事だという意味を込めて、制定されてからすぐ浸透されていった。
ただ、それを解っていても、白銀の少女は戸惑うわけだが。
「エティカちゃんも、大切な相手にキスをしてもいいんじゃぞ?」
「も、もう……! バルザックさん!」
恥ずかしさで真っ赤にしたエティカは、目の前の老人へ少し声を荒らげるが、威圧感はなく、むしろ可愛さを増すものになる。
その姿を見られて満足したバルザックに対して、白銀の少女の心境は別の方向を示していた。
(大切な人……エヴァンに、キスしてもいい日、なんだよね)
白銀の少女、覚悟を決めた。
◆ ◆ ◆
その夜。エヴァンとエティカの自室は戸惑いの空間へとなっていた。
「エティカ、何かあったのか?」
「……」
「え、エティカ?」
「…………」
ベッドに座り、愛用の枕を抱えた少女はエヴァンへ何も話し掛けず、ただ見つめるだけであった。
(え、俺何かしたのか)
何度呼び掛けても返事も反応もない。
ただ紅色の瞳で見られるだけ。しかも可愛い顔の半分が枕に埋まって、表情から推察することもできない。
だが、青年に心当たりはない。
「エティカ……何かあったのか? それとも、俺何か嫌なことしたか?」
「……うぅん」
少女から発せられるのは否定の返事。
ただ、だからこそエヴァンの悩みは深くなっていく。
(何もしていないって、でも明らかに様子が変だし……。部屋に来てから一言も話さなかったし)
いつもなら、彼女はエヴァンへ一日の出来事を報告する。どんな客が来て、どんな話をして、どんな人がいたか。それを楽しそうに報告していたはずが、ずっと黙ったまま、ベッドの定位置から動かずにいた。
初めてのその事態に、エヴァンは戸惑いを隠しきれず考えが錯綜する。
(ま、まさか……! 俺のこと嫌いになったとか!?)
この男、白銀の少女を前にすると冷静さを欠くようだ。
「……」
(ほら! チラチラとこっちは見るけど、何も言わないし! あんな元気なエティカがしおらしいし! 絶対俺が何かしたに違いない!)
そう思い立った青年は、なんと謝ろうか思案する。
だが、ここで「ごめんなさい」と言うのは簡単だ。それはあまりにも簡潔に物事を運ぶかもしれない。しかし、何で謝るのかが判明していなければ、女性は怒ると紫髪の給仕が言っていた記憶を掘り返す。
だからこそ、何が悪いのか聞こうと、エヴァンが喋ろうとした時。
「エヴァン、こっち来て……」
ジッと上目遣いで見つめながら、エティカは目の前に来て欲しいと細い指先で催促する。
それを確認した青年は、言う通りにするべきだと即決即断し、白銀の少女の前に腰掛ける。
(せ、説教されるのか俺は。いや、でも、怒った感じではない気がするし)
いまいちエティカの意図が読み取れない青年であった。しかし、そんなエヴァンに対して、少女は何回かの葛藤の末、ある行動にでる。
「エヴァン……」
「は、はい」
「なんで、敬語、なの?」
「いや、なんとなく……」
「そ、そうなんだ……」
「う、うん」
「…………あのね、エヴァン。わたし、ね」
モジモジとそのふわふわのパジャマ姿は揺れる。
そして、枕から顔を離すとその白い肌は真っ赤に色づいているのが青年でも確認できた。
だが、ここで何か言って、少女の言葉を遮るのは無粋だと考えエティカの声を待つ。
「いつも、一緒に、いてくれて、ありがとう」
その柔らかい声音の後。青年の目の前まで少女の顔が接近する。
それもかなり近く。それこそ、唇を突き出してしまえば触れてしまうほど、近くまで来る。
(エティカて、こんなに綺麗だったんだな)
そんな風に、思考が眼前の現実を分析した直後。
ピトッ――
エヴァンの鼻先にエティカの鼻が触れ合う。軽く擦れるほどの優しく、柔らかい感触。いわゆるノーズキスと呼ばれるもので、小さくも形の綺麗な鼻が青年の少し日に焼けた鼻へと触れている。
きめ細かい肌、ギュッと閉じられた瞼には長いまつ毛がある。額に生えた小さな黒曜の角も、磨かれたような光沢を放っている。
更には、少女が動いたことによって、甘い匂いがフワッとエヴァンの鼻腔を刺激する。
その香りで脳が溶けてしまうほど、思考回路が放棄されるほどの衝撃を受けた青年が、まともに反応できるわけもなく。
惚けた表情で見つめていた青年に対して、茹で上がったような少女は慌てて顔を離すと。
「じゃ、じゃあ、おやすみなさい……!」
布団の中へと全身を隠した。
こんもりとした小さな山をエヴァンは見つめ、更には虚空へ視線を移し、起きた現実の脳内映像を再生して何が起きたか理解する。
「え!?」
既に恥ずかし寝の体勢になったエティカへ、尋ねることもできず。むしろ、一緒のベッドで寝ることへの恥ずかしさも湧き上がった青年は、朝まで眠れなかった。
そして、白銀の少女も同様に寝ることができず、ヘレナに呆れられる一幕となった。




