第101話「挨拶」
エティカは後から考えれば、それはエヴァンと添い遂げるという意思表示で、彼の母親へ結婚を約束したようなものであった。
いまさら、揺るぎなどしない想いであるものの、思い返せば恥ずかしい宣言を、顔を赤らめずに言えたものだと誇らしくさえ思える。
ただ、それほどに少女の決意は揺るぎようがない。
彼――エヴァンにしてもらったことはたくさんある。
あの月光が照らす中、幻生林という魔獣蔓延る危険な場所で、救い出し食事まで与えてくれた。
あの時の魚の味は、今でも思い出せる。鮮明に、色鮮やかに。
かぶりついた魚の皮は少し臭かったが、中の肉はホロホロとふっくらとしていて、脂が美味しかったのを覚えている。
夢中になって食らいついたら、骨が刺さってびっくりした。それを見て、エヴァンは微笑んでくれた。
何をしているんだ、と呆れもせず。
食料を奪ったという嫌味の目付きでもなく。
優しく、エティカを見つめてくれた。
そんな中、食べ終えた白銀の少女へ「一緒においで」と言葉を掛けてくれるとは思えなかった。
身売りされたり、奴隷として生涯を過ごすのかと思ったからこそ、青年のその優しい茶色がほんのり混じった黒い瞳が、太陽のような温かさを感じた。
そんな少女が泣き出すのは必然だった。
不安で、拠り所も、寄る辺もない。
どこへ向かっても危険な気配が漂い、食べられるものは数少ない。苦肉の策で、草木を噛み締めても苦い味のものばかり。
正直、生きた心地はしなかった。
いつ死んでもおかしくなかった。
いつ朽ちてもおかしくなかった。
いつ魔獣に襲われてもおかしくなかった。
そんな中から、彼は救ってくれた。
それだけではない。新しい出会いもくれた。
ローナという姉分。ヘレナという頼りになる女将。アヴァンという料理の先生。バルザックという強面の優しいお爺さん。ヴェルディという声の大きな活発な青年。
その人達との関係を作ってくれたのは、エヴァンで、そこを居場所にしてくれたのも彼だ。
今この場に、露天風呂へ大きくなった体を浸せるのも『救世主』の青年のおかげである。
だから、彼のためになにかしたい。
恩返しがしたい。
彼が助けを求めるなら応えてあげたい。
そう常々思っている白銀の少女が、二つ返事で快諾したのは当然といえば当然であった。
紅色の瞳を決意の炎で滾らせ、奥底には暖かな陽だまりを灯して、リラを見つめる。
その瞳から伝わる想いは尋常ではなく、リラは驚愕を浮かべるもすぐに穏やかな笑みへ変え、白銀のふわふわの髪を優しく撫でる。
「ありがとう」
たったその一言ではあっても、撫でる手つきはとても柔らかい。その撫で方は、少女へ既視感を与えるが即座に理由が判明する。
エヴァンと同じ撫で方だ。
羽毛を触るようにゆっくりと、少女の白銀に輝く髪を撫でる手つきは、青年と瓜二つである。
いや、リラと青年の撫で方が似ているというより、彼女の仕方を覚えたエヴァンが、無意識にそのやり方をしたのだろう。
それが分かると、愛の深さから紅色の瞳に涙が込み上げてくるが、耐えて笑顔を浮かべる。
青年へされた時と同じように。
ふにゃと溶けた笑みを向ける。
「えへへ……」
この幼い微笑みで、リラの母性も魅了された。
◆ ◆ ◆
この時、リラはエティカの背中に刻まれた大きな斬り傷には気づいていた。
気づいていたが、あえて話題にあげなかった。
それは母親としての勘か、それとも能力による予感か本人には分からないが、どちらにせよ聞くことを遠慮した。
あまりにも大きな傷で。致命傷の塞がった跡が痛々しく、気軽に聞いていいものでは無いと判断したからだ。
それだけの苦労をして、苦難をして、それでも笑顔であることを選んでいる。
彼女の思いを尊重して、気になるがズケズケと聞かない辺り、乱暴な性格と相反しているようだが、これがリラ自身ともいえた。
彼女も母親なのだ。自分の命を懸けて、一つの生命を産んだ尊き存在なのだ。
だから、エティカに対して母性本能が湧き上がるのは仕方ないことだろう。
むしろ、将来のことを思うと娘のようなものなのだから、いいだろうと納得させる。
絹糸のような透き通る白銀の柔らかい髪を触りつつ、もう一度心の中で切に願う。
どうか、笑顔の中で咲き誇りますように。




