第77話 狼狽
生徒指導室の扉は固く閉ざされた。
警察官3名は異様な空気に呑まれかけていた。
やたらと丁寧過ぎる対応の初老の教頭を前に、ニコニコと余裕のある不敵な笑みを浮かべた少年松坂である。
松坂はお構いなしに教頭の腰掛けている事務椅子にどっかりと腰掛けていた。
「やあ、警部さん」
柔和な表情で手を振る松坂。
いつまでも警戒して立ち尽くしている警察3名に向かって、目の前の相向かいになったソファへ座るように右手を上げて促す。
「座ってくださいよ」
「いえ、このままで結構」
中村はゴホンと咳払いをした。
「そうですか」
松坂は不敵な笑みを崩さずに手を下げた。
「早速ですが、刑事課の警部さんが一介の高校生である僕なんぞに何のご用です?」
「率直に言おう」
中村がごくりと唾を飲み込んだ。
「君はロストチャイルド現象を動かす側の人間かい?」
室内の空気が一気に凍り出す。警察3名の警戒心、松坂の表情も臨戦体制に変わる。教頭は表情ひとつ変えず、目の前の光景を見守っている様子だ。
「おっと、お疲れのようですね警部さん。まずは、こちらのお茶でも飲んで落ち着いてください」
松坂がふっと柔和な笑みを浮かべ、これまた右手で合図を出した。すると、現れたのは長い黒髪の美少女だった。少女は手前にお茶のような緑色の液体の入った茶筒を載せた盆を持ち、松坂と警察を隔てるソファの前で歩を止めた。
「構わないで結構」
頑なに受け入れようとしない中村警部である。それも当然である。何を飲まされるかわかったものではない。
「何も毒なんか入っていませんよ」
松坂が小馬鹿にしたように、クスクスと笑い出した。
そこで、堪忍袋の尾が切れたのか、安藤が松坂にすごんだ。
「てめえ調子に乗ってんじゃねえぞこらあ。公妨でしょっぴいてもいいんだぞ?」
「やめろ安藤」
荒ぶる安藤の前に立ち塞がる中村と片岡。2人がかりで巨体を押さえつける。
「ふふふ、調子には乗ってませんよ」
まるで煽るような態度を松坂は崩さない。飛び掛かろうとする安藤を押さえながら、中村は続けた。
「君は井関聡美さんという手帳の記述に関して、心当たりがあるかい?」
「何だって」
明らかに狼狽した様子の松坂。目を見開き、汗が滲み出しているのが見て取れる。途端に、目の前の少女も明らかに動揺し出した。片岡はその様子を見逃さなかった。
「もしかして、あなたがその井関聡美さん?」
指摘された少女、井関の手がわなわなと震え出す。
明らかに狼狽している。
まるで、松坂は観念したかのように両手で顔を覆い隠した。中村も気分が良くなり、思わず笑みを浮かべた。これで、少しでも奴に近づくことができる。そう確信してやまなかった。
「これは詳しく署で話を聞きたいな」
中村の問いに、再び場は凍りついた。
ただ、教頭のみ皺だらけの表情を変えることなく、扉の前に立ち尽くしていた。
松坂はようやく声を振り絞るようにして、言った。
「すみません、明日の朝に警察署へ訪問するのではダメですか?」
「明日だと!?今日今すぐこれからに決まってんだろうが!どこまで舐め腐ってやがんだこのガキャ」
再び安藤が息を吹き返したように暴れ出す。
中村は再び片岡とともに安藤を制する。
「明日の朝でも構わないよ。それならば君の連絡先と住所を教えてくれ」
片岡はこのやり取りに一抹の不安を抱いていた。勘の鈍い中村でさえも、違和感を覚えずにはいられなかった。
何か全てがうまく行き過ぎる。
目の前の少女、井関はもはや血の気が無くなってしまったかのように青ざめていた。
松坂は片手で額に手を当てながらメモにペンを走らせている。書き終えると、ペンを叩きつけるように置いた。
片岡はメモを回収した。
「念のため、ワン切りさせてもらうよ」
片岡は緊張に満ちた面持ちで、両手で顔を覆っている松坂に確認を取った。松坂はこくりと頷く。
片岡が携帯電話を素早く操作した。コール音が室内に鳴り響く。どうやらでたらめでないとわかり、ホッと安堵のため息をついた。
「繋がりますね」
そして、まるで奪い取るかのように中村が片岡の手からメモを掬い取った。
「住所も、実在しているね。新都心中央が最寄りか。なら警察署の近所だね」
「はい」
弱々しく相槌を打つ松坂。先程までとうってかわって異様な雰囲気に室内は包まれている。
片岡が指示を仰ぐ目線を中村に送った。
中村は目配せする。退室である。
それを察したのか、大澤が扉をゆっくりと開いた。冬も本番に差し掛かろうとするオレンジ色の夕刻の空が窓越しに待ち構えていた。
「それでは松坂くん、明日朝7時に学校が始まる前でいい。警察署に寄ってくれたまえ。刑事課の中村を呼び出してくれ」
中村は松坂に背を向けながら言った。
「わかりました」
相変わらず弱々しく答える松坂。両手で顔を隠しているのは変わらない。
いつのまにか井関も松坂の隣に力なく腰掛けている。
中村は勝利を確信した。心がわくわくしている。
これで、奴に近づくことができる。奴の尻尾を掴むことができる。
警察3名は静かに教頭室を後にした。
しかし、その日の夜のことだった。
とっぷりと日も落ちて蒼ざめた空の下、学生服を身に纏った男子生徒が校舎の屋上から地面に吸い込まれていった。
悲鳴はなかった。
周囲の住宅街にも何かが叩きつけられたかのような破裂音が響き渡った。
それは一瞬だった。
学生服の少年から零れ落ちた、ドス黒い血液を被った学生証にはどこかで見た、爽やかで柔和な笑顔の少年の初々しい写真が見てとれた。